〈中〉
「遅くなった?」
と、彼女はいつもより小さい声で僕に訊いた。
「いや、どうかな。時計見てなかったから」
「お風呂に入るかどうか迷ったけど、結局は入んなかったの」
彼女は言いながら、履いてた革のブーツのチャックを片手で降ろし、無駄に運動神経を使って器用に脱ぎはじめる。脱いだブーツは横に倒し、上がり框の下にある隙間へ隠すように置いた。そしてドアを音がしないようデリケートに閉めた。
「じゃあなんで遅くなるってメールしたの? 風呂に入らなかったのに」
「メールする直前まではお風呂に入ろうと思ってたの。でもメールしたら、急にめんどくさくなって」
リビングからテレビの音が聞こえてくる。彼女は僕の横をすり抜け、少し抜き足で階段を上っていった。そのとき、僕は彼女をなぜか避けた。
彼女は不必要に静かな態度をとってる。別に家族に見つかったって、何を言われるでも何をされるでもないのに。挨拶をしない礼儀知らずも、無関心な家族はそれさえ気にしないだろう。しかし彼女は僕の家に来たら、必ず自分の存在を必要以上に隠そうとする。僕が頼んだわけじゃない、ごく自然にそうする。階段を上るときは一言も声を発さない。
僕も彼女の後についていって、二階に上がっていく。僕も無意識に彼女につられて、階段を抜き足で踏んでしまう。彼女は靴下だが僕は素足で、足の裏が階段の木製にひっつき、べたべたとシールを剥がすような足音が響いてしまう。だけどそんな微かな音を母親や妹が気づくわけがない。というかあの二人は何も気づかない。気づいたとしても気づかない振りをする。
彼女は引き戸を開けた。静かにしてた分、戸を開けるときのきゅるきゅるという音がばかに大きく聞こえた。油を注さなきゃな、と思った。しかし戸に油を注すとはどういうことだろう、自転車なら分かるけど。
彼女は部屋に入って、着ていたジャケットを脱ぎはじめる。まるで自分の家に帰ってきたようなそぶりで、彼女は球体のクッションの上へ容赦なく、その弾力を潰しながら腰を降ろした。僕は彼女からジャケットを受け取り、それをハンガーに掛けて、部屋の隅にあるタンスの一番上段の取っ手に吊した。ジャケットからは柑橘系の柔らかい匂いがした。香水がジャケットに染み込んでいる。女の子の匂いがして、それだけで部屋は僕を裏切る。部屋は彼女の部屋のようになった。
「うわ、本当に買ったんだ」と彼女は床に放られた『もののけ姫』のDVDに気づき、それを足裏で触りながら、気の毒そうな声で僕をなじった。彼女はせせら笑い、
「そんな安い買い物でもないでしょ、もったいない」
「もったいなくはないだろ。別に限定版とかじゃない、普通のやつを買っただけだよ」
「毎年一回はやってるじゃん、ジブリなんて」
「おれは台詞とか暗記したいんだよ」
そんなわけない、でもそんな反論がなぜか咄嗟にでた。彼女は「気持ち悪い」と低い声で笑った。確かにそんな理由だったら気持ち悪い。
本当はある女の子を誘う口実を作るために買ったんだ、でもその人は今日来れないらしいからさ、だから代わりに呼んだんだ。そう言ってもよかった。けどその言葉ですら嘘が混じってることに気づいて、僕は言わなかった。あの人は“今日来れない”なんてことを一言も言ってない、そんなことすらメールしてきてない。
彼女は『もののけ姫』を包んでいたビニールのパッケージを、女の子特有の長い爪で切り込みを入れ、ビリビリに引き裂き、ごみ箱に捨てた。まるで自分の持ち物のように『もののけ姫』を扱ってる。
中に入ってるジブリグッズのチラシを見ながら、「ねこバスのキーホルダー欲しいなー」と独り言を言っている。二人っきりの、その相手に独り言を言われて、なんだか僕まで独りになった気分。けど彼女を呼んだのは僕だから、そこは我慢する。その程度の身勝手は彼女と出会ったあの頃から、気になんかしないようにしている。
変に沈黙が長くなった。僕は彼女の横顔を俯瞰でじっと見つめていた。一重の小さな目、色気のない口紅の塗り方。化粧は風呂で落とすつもりだったのか、まだ顔に残っている。メガネが似合わなさそうな顔だ、というか小物が似合いそうにない。服はスウェットとか似合いそう。どうせなら全身タイツでもいいかもしれない。福耳だが、それゆえにさっぱりとした主張のない顔とのバランスが不自然に見える。福耳のせいで顔が気の毒になるとは情けない。
彼女は決して可愛い部類に入るとは言えなかった。不細工というには、世の中の本物の不細工さんに申し訳ないぐらい中途半端だが、だからと言って彼女のことを可愛いとは思えない。可愛いと思ってあげたいが、感情と経験が拒否するので、思ってあげられない。僕は彼女に“女の子”というアドバンテージしか見出だすことが出来てなかった。
けど、彼女は僕のことを“男の人”とすら見出だしてないのかもしれない。僕のことをただのクラスメート、ただの人間としか思っていないのかもしれない。友人とすら思ってなかったらどうしよう。たまにそうじゃないかって思う態度が彼女に現れるから不安になる。そんな彼女と同じ世界にいるのがたまらなく虚しくなる。そしてそんなことを思ってしまう自分の心が一番に虚しい。“僕も彼女を友人とは思わないことにしよう”。虚しくなったらそうやって角張らせる、心も、仕種も、何もかも全部。そんな狡い決意で安心していたい、けどその決意は些細なきっかけでいつも崩れるんだ。心を尖らせるほどに折れやすくなり、元の形に近いようで非なるいびつな形で丸くなっていく。その瞬間がまた、たまらなく虚しい。
彼女は足の親指で、テレビの主電源のスイッチを押した。テレビは音を先に鳴らして、時間差で徐々に映像を映していった。ジョニー・デップが奇妙な格好で高笑いしているのが映ってきた。
僕はジョニー・デップが好きだったので、このジョニー・デップを、同じ内容の同じシチュエーションで何回か見たことがあった。
「今日、もののけ姫じゃなくて、これ見てもいいよな」と僕は提案してみた。言ってみると、その提案がとりわけ嫌なものでもないような、そんな気がしてくる。
「てか、今日はもののけ姫を見るつもりなんだね」と、彼女は僕を上目遣いで見てきた。
「うん、そうだよ。今さらそんなこと言うか。あれ、もしかして見たくない?」
「見たくないわけじゃなくて時間がない。あと一時間ちょいで日を跨いじゃうよね」
彼女は携帯を開いて、画面を僕に押し出してきた。彼女は携帯を扱うのが好きだった。
「あと一時間ちょい、今日が残ってるじゃないか」と携帯の画面に映っているデジタル時計を見ながら僕は声を上ずらせた。
「うん、でももののけ姫は見れないね。まだジョニー・デップのほうが見れる。これ、今日中には終わるでしょ?」
彼女が指(足)さした方向で、ジョニー・デップが飛び族みたいな原住民に殺されかかってる。
元々、そんなに上がってなかったテンションがさらにまた冷えていく。ジョニー・デップの奇々な演技も、またこの部屋から遠ざかっていく存在になってしまう。彼女はいつも、僕の期待に水を差す言葉を言いたがる。
「日を跨ぐ前に帰りたい?」
「日を跨いでもいいけど、跨ぎ過ぎる前に帰りたいの」
「じゃあどうしよう」
「誘っといて、どうしようって言われてもね」
「ジョニー・デップでも見ようか」
「でも、途中からじゃん。なんかもったいなくない? ストーリーわかんないまま、結末だけ見たってさ」
「大丈夫。おれ、これ何回も見たことあるんだ。よかったらあらすじ教えようか、五分で」
「いや、そんな気を遣わなくてもいいよ。何が大丈夫なのかわかんないし」
彼女はタンスと対角の部屋の隅に挟まっている本棚を見つめながら話している。僕の目を全く見ていない。
彼女は自分で付けたテレビを自分で消した。画面は一閃する光の線を放ち、一瞬で消えた。
「それよりマンガ読みたいな。あれないの? 小林まことの柔道部物語」
彼女はそう言って、催促の手を僕に突き出した。その手を僕は見下げている。
僕の心に、他人には隠して見せないようにしている倫理の一つに、友人の家に来てマンガを読もうとするやつは死ねばいい、というものがある。くつろがれることは嫌じゃないけど、勝手に読み耽られるは嫌だ。しかも無料でなんておこがましい、虫酸が走る。せめて中古本屋に行って立ち読みしてこいよ、って言いたくなる。それは面倒だからと言われたら、じゃあ死ねよ、と返す気でいれる。
「あれ城島くんに貸しちゃった」と僕は嘘をついた。本当は秋山くんに貸した。ついて意味ない嘘をついてしまった。無駄に心が変になってる。
「えー。くん付けのやつに貸すなよ、大して仲良くないくせに」
「そもそも、柔道部物語を女の子が読みたがるとは思ってなかったよ」
「なんで。小林まこと、好きだよ?」
「小林まことを女の子が読むイメージが無い、ほとんど汗くさいのばっかじゃん。『What't Michael?』ぐらいしか可愛いのなくない?」
「あの猫のマンガ? 私、猫はそんなにだから」
彼女はクッションから離れて、部屋の壁に背をもたれた。どうやらマンガを諦めたらしい。彼女のあまりの横柄さに呆れながらもなぜか心地好く、女の子という存在への遠慮も、あの人と比べてしまった罪悪感も、いつの間にか薄らいでいった。
流れに乗った。何を言ってもそつがない、ただ飽きるまで会話する温い流れに乗れた。あの人とだったらいつまでも行けない流れ。
彼女は相槌も打たず、自分の話したいことを堰を切ったように話している。僕は彼女の言葉の一部をオウム返ししながら、彼女の話を聞いてるふりをする。それだけで彼女は満足する、と僕は思い込んでいる。少なくとも、つまらなそうには見えない。
しかし僕はつまらない。会話というのはいつも、聞く側の苦労と、話す側の発散によって成り立っていると思う。そのバランスが上手く取れる人間同士を「気が合っている」と評価されるんじゃないか。彼女は聞く苦労をしない、僕の話を聞く気が全くない。僕が話題を一つ振ってみると、あからさまにつまらなそうな顔をする。そして「あ、そうそうこないだね……」とまた自分の日常内での、僕がし始めた話題とは全く関係のない話を開始する。
僕はそれを聞いてあげる。たまに質問したりする。「へえ、それってこういうこと?」なんて興味もないのに、白々しく。でも彼女は話に夢中で、その白々しさに気づかない。
僕は何も発散出来ずに、ただ苦労だけを溜めていく。たまに手を抜いて聞いたふりをする。けど彼女は気づかない。とにかく彼女は人の形をした壁が欲しいのだ。だからわざわざ風呂に入るのをやめて、僕の家にこんな時間に来たのだ。
時間は刻々と過ぎていく。苦労と虚しさだけ溜まっていく。途中から相槌すら適当になってる気がする。それでも彼女は喋りを止めない。
「あ、もう0時だね」
彼女は僕のベッドの横にある目覚し時計を見ていた。いつから目が合ってなかったのか、僕には分からない。
彼女はすぐに帰り支度をしない。日は跨ぎ過ぎなければいいのだ。
「今からもののけ姫、見よっか」
と、彼女が下らないことを言ったので、僕は「そうだね」と言ってやった。彼女はすぐに「嘘だよ」と返した。もう本当に色々が適当になってる。
彼女は深いため息をついた。喋り過ぎて、喉が渇いてきたのかもしれない。ため息をつきたいのはこっちの方だ。けど彼女から帰りの雰囲気がしてる。そこはなぜか引き止めたくなる。こんなに苦労して虚しくなっても、彼女が帰ってしまうのを無意識で嫌がっている。
「今年度は違うクラスかもね」と彼女は急に言った。急過ぎて僕の声が「えっ」と裏返ってしまった。
「だって私、進学しないから。私立文系のクラスに行こうかなって思ってるの。そっちのほうが授業が減って楽だし」
彼女は携帯を開いたり閉じたりしている。手を動かしながら、けど僕のほうを見なくて、口調は気が抜けたように湿っていた。
僕は思ったより傷ついてしまった。言葉でふざけるのも忘れて、つい沈黙してしまった。もう今さら「そんなこと言うなよー」とおどけても遅い。空気と感情が下降して床に溜まる。もちろん、彼女のせいではなく僕のせいで。
もう四月なのか。僕と彼女とあの人はついに高校三年生になった。あの人はいつも「受験とかで恋愛するヒマなんてなくなるね」と言っていた。その度に僕は笑いながら、でも傷ついた。色々と傷つけられる。どうしようもないことで。
「もう帰るよ」
彼女は僕がかけたジャケットを自分でとって羽織る。
「ああ、そういえば今日、あんまり嘘をつかなかったね。エイプリルフールなのに」
「いや、そこそこついてたよ」
思い出せやしないけど、と心の中で付け加えた。
「そうかな」と彼女は言った。
部屋の引き戸を僕が開けてあげる。なぜか音があまり鳴らない。
「じゃあ玄関まで」
「うん、玄関までね」
そう確認し合ったあと、行きと同じ静かさで階段を降りていく。彼女も僕と同じ、余計なアドリブを入れない。
僕が玄関のドアを開けてあげる。彼女はじゃあねと言うように、小さく手を振った。そのときだけ、なぜかちょっとだけにやりと笑う。僕も笑って、彼女と同じ仕種をする。彼女は躊躇いもなく踵を返し、僕に背を向け、暗闇の中へと歩いていった。
何だかもののけ姫みたいだ、そんな適当なことを思った。みんながみんな、帰る場所に帰っていく。いつの間にか母親と妹は物音一つ起てない静かさで、確認しないと居るか居ないか分からない存在になってる。僕は急に一人になった。僕はなぜだか無性に、もののけ姫を見たくなった。