〈上〉
子供がリビングを通らずに自分の部屋に行けてしまう間取りの家庭では、その子供は社会に不適合な性格になってしまうらしい。家族と言葉を交わすことも、顔を合わせることもなく、自分の部屋に閉じこもることが出来てしまうのが悪いと、教育学の専門家の人がテレビで言ってるのを見たことがある。何をもって社会に不適合と判断されるかは、高校生の僕にはまだ分からない。
僕は二階に上がり、自分の部屋の引き戸を開けた。部屋の中心より少し右にズレた位置にある座卓の上に、一万円札が置かれてあった。母親が今月の小遣いを黙って置いてってくれたのだ。ちなみに母親はちゃんと一階にいる。黙って置く意味はなんだろう、我が息子を拒絶しているようにも思える。お金は何故かぴん札だった。僕は折り目が付かないように拾って、尻ポケットからぺらぺらの合皮の財布を取り出し、その中に入れた。
今なら何でも買えてしまう、僕を満足させるものなら何でも。本当は塵のように少しずつ使わなくてはいけないけど、僕は今現在を以てこの一万円を山のように大袈裟に使うことができる。その可能性へのこわさ。自由ってこわい。数分前までの僕は菓子パン一つを買うのも躊躇っていたのに、今はその反動なのか、ちょっとしたものにこの一万円を使いたいと思ってしまえた。
現金なやつだな、と僕は自分のことを客観視してみる。出来ないくせに。僕は、僕を使ってふざけている。二階で黙ってると、床が薄いせいで、一階のリビングにあるテレビの音や、母と妹の話し声が聞こえる。頭の中の遊びが、家族の声で冷め消えてゆく。財布に一万円が一枚だけあるという状況が気に入らない、という気持ちを抑えるつもりが全くない。
一万円の使い道はとっくに思いついている。僕はTSUTAYAへ行くことにした。まだ開いてるはずだ。ポケットの中に自転車の鍵が入っているジャンパーを羽織る。
家からは簡単に出ることができる。家族に全くばれずに。ばれても鍵さえあれば帰ってこれる。そして翌日の朝、何気なく「おはよう」と挨拶し合うことができる。無関心な関係だ。けど楽でいい。
家からTSUTAYAまで行くのに、自転車で約十五分ぐらいかかる。自転車に乗るときはいつも、携帯電話で音楽を聴くことが僕にとっての当たり前だった。専用のアダプタとイヤホンさえあればそんなことができる。そうしたらウォークマンやiPodとは違い、着信があったらすぐに気づくことができる。自転車は好きだ、音楽も好き。夜の帳はとっくに下りていて、自転車屋や定食屋などの幾つかの店は、光を完全に失い、店の奥や看板まで真っ暗な黒い店になっていた。僕は夜も好きだ。
TSUTAYAは余裕で開いていた。閉める気配が一つもしない。しかし周辺の店は全部が全部、TSUTAYAに傅いているみたいに閉まっていた。暗闇の中、TSUTAYAの明かりだけが、その四角いフォルムのとおりに光り、はっきりと視界に映った。TSUTAYAって意外に主張が激しいんだな、と適当なことを思った。
自転車を駐輪場に止めて、TSUTAYAに入る。客はまだ結構いた。TSUTAYAはなぜかいつも静か。本や映画など、人間を内に篭らせるものを扱う店では、客も心を剥き出しにしづらいのかな。僕は数分ぐらい店の中をうろちょろする。何の意味もなく。それだけで一時間はイケる。僕も内に篭るタイプの人間だった。TSUTAYAは居るだけで幸せになれる。客の誰もが幸せそうな顔はしていないけれど。
僕は『もののけ姫』のDVDを買った。借りるんじゃなくて、買うことにした。ジブリ作品は常に特別なコーナーを設けられているから、それを探すのに苦労しなかった。一万円札が五千円札一枚と、千円札一枚と、僅かばかりの小銭に変わる。今月が切り詰められていく感覚。店員さんの「ありあとうございましたー」の声を背中に受けながら店を出た。
手の中の、DVDが入ったビニール袋は、一万円を崩したわりには妙に軽い。また無駄な買い物をしてしまったんじゃないか。昨日まで『もののけ姫』のDVDを買う気持ちなんか、全く持っていなかったのに。しかし僕は一万円を手に入れてしまった。だからしょうがないさ。――そんな風に心の中で言い訳している。つまりそれは、それぐらいの後悔が心に宿りはじめた証拠だ。いつもこの後悔が予期できないから、僕は常に金がない。
この『もののけ姫』の価値は、ある一人の女の子によって左右されていることを僕は買う前から知っていた。
僕はこの軽いDVDを重くするために、あの人にメールをした。TSUTAYAを出てすぐ。携帯のボタンがぱちぱちと音を起てる。あの人を電話帳から探しだす。
「こんばんは。メール久しぶりだね。(ここで二行スペースを開けて)あのさ、『もののけ姫』のDVDをたまたま買ったから、よかったら一緒に見ませんか」という文をとてつもないスピードで作り、少し思い直して、「たまたま」という部分を消して送信した。絵文字は濃すぎない程度に入れてみた。そのスピードの早さは逡巡を振り切るためだった。一万円を崩すことで、メールする勇気をさっき買っといた。
僕は大きくため息をついた。何かを成し遂げた感が全身から滲み出る。自転車のグリップを爪でつまんだ。グリップは少し欠けて、爪のあいだに黒いラバーが詰まってしまった。
あの人は『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』は見たことあっても、『もののけ姫』を見たことはない。あの人と会話した学校の昼休みを思い起こしながら、僕はそんなことも思い出してみる。
「一年に一回はテレビで放送されてるよね、何とか洋画劇場とかでさ。なんかそんなイメージあるけど」
そう僕があの人に言うと、
「じゃあその一回を、毎年見逃してるのかもね。ジブリは嫌いじゃないんだけどな」と言いながら、可愛い苦笑いでわざとらしく、端正な困り眉毛をひそめていた。本当に可愛い人だった。それは何気ない、鮮明で確かな記憶。あの人と僕は同じクラスの隣の席だった。
家までは、もちろん自転車で帰る。行きと全く同じルートで。余計なアドリブを入れたくなかった。最短ルートで、さっさと帰りたかった。
十五分かけて家に着いた。イヤホンを外し、携帯で音楽を聞くための専用のアダプタをもぐように外し、音楽を止めた。十五分間に流れた二三曲の音楽の最後の曲は中間で途切れてしまった。でも、帰り道のあいだは一度も途切れなかった。
それは誰からも着信がなかったということを意味していた。メールを送って何分経ったろうか。正確な時間は分かるはずがない。
携帯電話を開いてみる。メールが来たときのアイコンが、待受画面に表示されていない。携帯を閉じる。ぱすっという音が家の前で響いた。
みじめな気持ちに、携帯を握る手が無意識に強くなった。心が固まり、張り詰めていくようだ。センター問い合わせはしない、さらにみじめになりそうな気がしたから。どうせそうしたって、受信できるはずもない。僕の携帯があの人の電信を逃すはずがない。ちゃんとあの人の携帯から送られたとすれば、だけど。
女の人がメールを返すスピードって、統計学的にどれくらいの早さになるんだろう。日本という国民性を考慮した上で、世界的に見て、早いのだろうか遅いのだろうか。別に僕はそれを知りたくはないんだけれど。
もう一人、あの人じゃない女の子、僕はあの彼女のことを不意に思い出していた。あの人への不安の具現化した姿が彼女であるかのように、いたたまれない気持ちが彼女のことを思い起こした。
あの人の返信はいつも遅い、そして彼女はいつも早かった。
僕は彼女にメールしてみた。
「今、ヒマ? おれはヒマなんだけど。よかったらうちに来ない?」と素っ気ない文を数秒で作り、大して意識を働かせずに送信した。意外に迷いがなかった。何が意外かは自分でもすぐに忘れてしまった。
自転車を家の前にある赤い軽の隣に止め、鍵をかける。そして玄関のドアノブに手が触れる。
と、同時に携帯が鳴った。
携帯を開くと、彼女からの返信が来ていた。
「うん行く」の四文字だけの、僕が送信したメールよりも素っ気ない文だった。それでも固まった心が、氷が溶けて液体になるように、安らかな気持ちが全身に染み込んでいった。
いつも通り、リビングに寄ることもなく、自分の部屋に戻る。静かな部屋、けど無音ではない。ちゃんと一階からの生活音が聞こえてくる。妹が馬鹿笑いしてる。妹の部屋は何故か一階のリビングの隣にある。
僕は携帯を布団に投げ出した。携帯は生活に欠かせない大事なもので、携帯にはお世話になりっぱなしなんだけど、何故かたまに捨てたくなる。でも捨てられるはずもないから、せめて捨てる動作をしたくなる。安全な布団の上で。アスファルトだと壊れてしまう。携帯は下手で優しく投げる。携帯が柔らかな布団に沈み込む。
と、それと同時にまた携帯が鳴り出した。音は布団に吸収され、いつもより篭って聞こえた。
投げ出した携帯を拾い画面を開いた。さっきと同じ動作の大して変わらないスピードで、しかし感情はさっきよりも負の方向に指針が向いていた。後悔が、心臓から滲み出るように、頭から爪先までに全身に行き渡ってくる。
頭の中に二人の女の子が浮かんだ。僕の意識よりも早く、感情は彼女らを識別している。あの人のほうが断然いい、だから彼女に断りのメールをしなくちゃ。そこまで感情は考えて、やっと意識が追いつく。あの人からのメールだったらどうしよう。
次に思ったのは、何だかめんどくさいな、というな惰性だった。自分で起こした種なのに、なんだかめんどくさくなってる。
メールが来ていた。
メールはあの人からではなく、彼女からだった。
「ちょっと遅れるかも」という、またしても素っ気ないメールだった。僕が送ったメール一通より、彼女が返したメール二通分のほうが、文字数的にも、内容的にも、僅かな差ながら素っ気なかった。
僕は極微量の、音もしない、安堵のため息をついた。そしてこれは何の安堵だろうと、自分が自分で分からなくなった。
そして待つ時間がやってきた。僕はぼうっと待っている。
彼女を待つ時間。あの人からのメールを待つ時間ではない。むしろ返信してくるなと思っている。
いや、それは言い過ぎかな。遅れてくるのが一番いいな。そしたら、彼女を誘ったのも、あの人からメールが遅すぎたからってことにできる。時間差は嘘でいくらでも作れる。
そのときの僕は、自分のことを「ひどいやつだ」なんで思うことなど微塵もなかった。ただ、当たり前のようにそう考えた。
僕はずっと待っていた。二人の女の子を天秤に掛け、劣った方の女の子を待っていた。チャイムは鳴るはずがない。もう夜だ、彼女はそういうところには気をつかう。別にそこは好感度が上がるポイントではないが、チャイムを押す女だったら好感度は下がる。あの人だったら、来てくれただけで好感度が上がる。
僕はいつも脳内であの人と彼女のことを比べてしまう。正確には、あの人とあの人以外の女の子を比べている。何の意味もなく。ただの妄想。というか好感度ってなんなんだ。
僕は待った。天井を眺めながら待つ。ぶら下がった蛍光灯で目を焼く遊びをする。瞼の裏の残像を目で追いかける。紫色の残像は、見つめているとマグマのような色になる。そして最後には寒色になり、溶けるように消える。
何分経っただろうか。僕には分からない。
携帯が鳴った。開くと彼女からメールが来ていた。
「着いた」の三文字だけだった。僕は立ち上がり、少し伸びをして、部屋を出る。
階段を降りていった。足音は、自分が思っている以上に大きな音が起った。でも家族は気づかなかった。