第29話 秘密基地の秘密
次の休みの日。空は皮肉なほどに青く澄み渡り、初夏の強い日差しがアスファルトを白く照らし出していた。
直斗は待ち合わせ場所である駅前のロータリーで、目を細めて立っていた。スニーカーのつま先で地面を小突いていると、人ごみの中から軽やかな足音が近づいてくる。
「お待たせしました、滝沢先輩」
ふわりと、柑橘系の甘い香りが漂った。振り返ると、私服姿の七瀬亜季が立っていた。黒いノースリーブのサマーニットに、風に揺れる軽やかなフレアスカート。休日の街に遊びに出かける女子中学生そのものの装いだ。これから凄惨な殺人現場へ向かう人間の服装とは、到底思えない。
「……随分、身軽な格好だな」
「そうですか? 森に入るから一応スニーカーにはしてきましたけど。可愛い服を着ていないと、テンション上がらないじゃないですか」
亜季は悪びれる様子もなく、ふふっと楽しげに笑った。その屈託のない笑顔の奥にどれほどの本心が隠されているのか、直斗には全く読み取れない。姉を亡くした悲しみを微塵も感じさせないこの妹の態度は、頼もしくもあり、同時にどこかミステリアスでもあった。
「行くぞ。誰かに見られたら面倒だ」
「はいはい。先輩、案内よろしくお願いしますね」
二人は並んで歩き出した。向かう先は、杉の木公園の奥の奥――あの『秘密基地』だ。
警察の捜査は、武を「被疑者死亡」として書類送検する方向だとニュースで報道された。未成年者ということで、当然は伏せられていたが、学校内の誰もが、それが武であることを知っていた。
住宅街を抜け、公園の入り口に差し掛かると、直斗の足取りは自然と重くなった。緑の匂いが濃くなるにつれ、あの朝の記憶が胃の底からせり上がってくる。
公園を封鎖していた規制線はすでに撤去されていた。中に入り、園内の奥まで来ると、捜査のためか、壊れたフェンスは大きく取り払われていた。
直斗と麻衣は、そこを通り、草をかき分け道なき道を進んだ。先を歩く直斗の背中を、亜季が「結構険しいですね」と言いながら、淡々とついてくる。
やがて木立が途切れ、小さな空き地が視界に入った。
直斗の足が、ピタリと止まった。
視界が、ぐにゃりと歪む。
強い日差しが差し込んでいるはずなのに、直斗の目には、あの日の薄く白い霧が立ち込めているように錯覚した。
小屋の横にそびえる、太い杉の木。その枝から黒いパーカーがぶら下がり、首が不自然に折れ曲がった武が虚空を見つめている。そして小屋の中には、首に鬱血の痕を残した麻衣が、まるで眠るように横たわっている。
幻覚だ。わかっているのに、脳髄に焼き付いた映像が網膜に蘇る。
「あ……! うぅ……」
直斗は思わずその場にしゃがみ込みこんだ。平衡感覚が消失し、地面が波打っているように感じる。動悸がして呼吸が浅くなり、酸素が肺にうまく入ってこない。冷たい汗が全身の毛穴から吹き出した。
「……先輩? 大丈夫ですか? いきなりしゃがみこんじゃって」
上から、透き通った声が降ってきた。
見上げると、亜季が直斗の顔を覗き込んでいた。その大きな黒い瞳には、心配や同情の色は全くない。まるで珍しい昆虫の観察でもしているかのようだった。
「ここが、お姉ちゃんたちが死んじゃった場所なんですね。へえ……思ったより何もないっていうか、普通の空き地ですね」
亜季は周囲をぐるりと見渡し、事もなげに笑った。
血の痕も、規制線を示すチョークの跡も、警察の清掃によってすでにきれいに拭い去られていた。ただ、踏み荒らされた地面の凹凸だけが、ここに大勢の人間が踏み込んだ事実を無言で物語っている。
「お前……平気、なのかよ……」
「平気って? ああ、幽霊とかそういうの、私まったく信じないタイプなんで。あ、それとも真犯人が現れて格闘になるとか――それなら安心してください」
亜季は、かわいいポシェットから、何か小さな筒状の物を取り出した。
「なんだよ、それ?」
「防犯スプレーです。痴漢用の。犯人が襲い掛かってきたらこれをお見舞いしてやりますよ」
ふざけてこちらにスプレーを向ける亜季。
直斗は反射的に顔をそむけた。
「……やめろ。あと頼むからそんなもん街中でぶっ放さいでくれよ。よくそれで無関係の被害者が出てニュースなるだろ。風向きが悪いと自分の方にふりかかって逆効果らしいし」
「え、そうなんですか。これじゃダメかなあ」
亜季はつまらそうな顔をして、スプレーをポシェットに戻した。
その姿を見て、直斗は思わずつぶやいた。
「強いな、お前……」
「別に普通ですよ。それより先輩の方こそしっかりしてくださいよ」
亜季は直斗の腕を掴んで強引に引き起こした。彼女の手は細くても、意外に温かく、そして力強かった。
「吐きそうならそこら辺で吐いてもいいですけど、私たちの目的、忘れないでくださいね。あの無能な大人たちを出し抜いて、本当のクズを見つけるんでしょう?」
そうだ――!
その言葉が、特効薬のように直斗の神経に作用した。
ここであの日の幻覚に怯えて立ち止まっている暇はない。武を罠にかけて殺し、麻衣の命まで奪った真犯人は、今もどこかで平然と息をしているのだ。
直斗は乱れた呼吸を整え、両手で自分の頬を強く叩いた。乾いた音が森に響く。
「……わかってる。探そう。警察が見落とした何かが、絶対にあるはずだ」
まず、武が首を吊っていた太い杉の木を調べてみることにする。
武の体格は、中学生とはいえ大人の女性である北川先生よりもずっと大きかった。警察は武が自ら首を吊ったと断定しているが、もし真犯人が別にいるのなら、気絶させた重い武の身体をあの高い枝まで引き上げなければならない。それは並大抵の腕力でできることではない。
「……あの木だ。武が死んでいたのは」
直斗の視線を追い、亜季も杉の木を見上げた。
「体育教師の荒井なら……日頃から体を鍛え上げているあいつなら、武を木にぶら下げて自殺の偽装をするのも可能かもな」
直斗の推理に、亜季は納得したように頷いた。
「あー、確かに。あの先生、体育大学の出身でしょ? じゃあきっと柔道の心得とか、武道もそれなりにやってるんじゃないですか。だったら相手を気絶させるような技もマスターしてるかもしれませんね」
「……ああ。それは十分にあり得るよな」
続いて、直斗は勇気を出して小屋の方へと言った。
枯れ枝を組んだ簡素な壁。土がむき出しになった床。
直斗と亜季は懐中電灯を頼りに、隅から隅まで目を凝らした。枝の隙間、地面のわずかな盛り上がり、落ち葉の下。
だが、時間をかけて徹底的に調べたものの、結果は徒労に終わった。
凶器以外の遺留品はおろか、不自然な足跡一つ見つからない。
「くそっ……何もない」
直斗は土で汚れた手をズボンで拭いながら、苛立ち交じりに小屋の壁を蹴った。パラパラと乾いた土が崩れ落ちる。
「それはそうですよ。警察の鑑識が、徹底的に調べ尽くした後なんですよ? 素人の私たちが見つけて『やった、大発見だ!』なんて展開、ドラマかアニメの中だけです」
亜季は小屋の外にある切り株に腰掛け、ペットボトルの水を飲みながら涼しい顔で言った。
「それに、考えてもみてくださいよ。もし仮に武先輩やお姉ちゃんが、犯人に繋がる決定的な痕跡を意図的に残そうとしたとしても、その場にいた真犯人が見逃すわけないじゃないですか」
「真犯人が、回収したって言うのか?」
「当たり前ですよ。もしもお姉ちゃんたちを殺して、武先輩の無理心中に偽装するなんて、相当に頭が回るというか、冷静な人間のやることです。犯行後に現場をチェックして、自分に不利な証拠をすべて持ち去るくらいの知恵はあるはずですよ」
「…………確かに」
亜季の真っ当なロジックに、直斗は言葉を失った。
そして、あの路地裏で会った時の武の言葉を思い返した。
『いいか、直斗。先生を殺した真犯人――そして俺に罪を着せようとしている人物は、相当頭の切れる奴だ』
武自身がそう警告していたのだ。そんな狡猾な相手が、素人が後から見つけられるような証拠をホイホイと残していくはずがない。
「……じゃあ、俺たちは無駄足を踏んだってことか」
直斗が肩を落とし、改めて秘密基地を見回す。
しかし、何か妙な感じがした。
漠然とした違和感というか、「あるべきものがない」という感覚だ。




