第25話 惨劇
秘密基地の小屋のすぐ横に立つ、太い枝振りの木。その太い枝から、黒い「塊」が、ゆっくりと振り子のように揺れていた。
「……え?」
直斗の足が、コンクリートで固められたように動かなくなった。
網膜が捉えた映像を、脳が理解することを激しく拒絶している。
それは、人だった。
空中に浮かんだ、二つの足。汚れたスニーカーのつま先が、力なく地面に向かって垂れ下がっている。
視線を、震えながら上へと這わせる。
泥まみれのジーンズ。そして、この間路地裏で会った時と全く同じ、黒っぽいパーカー。
首には、見覚えのある紺色に臙脂色の斜めストライプ――中学校の指定のネクタイが、恐ろしいほどの力で深く食い込んでいた。ネクタイのもう一端は、杉の太い枝に固く結びつけられている。
そして、その首の上にあるのは。
不自然な角度に折れ曲がり、虚空を見つめたまま完全に生気を失った、武の顔だった。
「…………ぁ、」
声が出なかった。
悲鳴すら、喉の奥で凍りついてしまった。
悲しい、とか、恐ろしい、とか、そういう人間らしい感情が一切湧いてこなかった。ただ目の前の光景が信じられず、世界の色が急速に失われていく。白黒の砂嵐に飲み込まれていくような、圧倒的な現実の崩壊だけがあった。
「武……?」
かすれた音が、ようやく唇からこぼれ落ちる。
冗談だろ。お前、俺に話すことがあったんじゃないのか。それとも、その前に真犯人にやられてしまったのか。なんで。どうして。
直斗は夢遊病者のように、ふらふらと武の足元へと歩み寄った。
触れれば、いつものように「驚いたか?」とあの不器用な笑顔を見せてくれるのではないか。そんな狂った希望を抱きながら、武の冷たいスニーカーのつま先に手を伸ばしかけた。
その時、直斗の視界の端に小屋の入り口が映った。
秘密基地の、中。
入り口の枯れ枝が一部崩れ、内部がわずかに見えている。
そこに、誰かが倒れていた。
直斗の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
武から手を引き戻し、何かに操られるように小屋の入り口へと這い進む。
土とカビの匂いに混じって、甘ったるい香水の匂い――いや、違う。これはシャンプーの匂いだ。直斗がよく知っている、ほのかなフローラルの香り。
「嘘だ……お願いだから、嘘だと言ってくれ……!」
祈るように呟きながら、直斗は小屋の中を覗き込んだ。
薄暗い土の床の上。
そこに、麻衣が仰向けに倒れていた。
制服ではなく、休日に着るような柔らかい薄水色のブラウスと、白いスカート。普段着姿の彼女は、まるで疲れ切ってこの秘密の隠れ家で深く眠り込んでしまったかのように見えた。
その顔は驚くほど穏やかだった。恐怖に歪むこともなく、苦悶の表情を浮かべることもなく、長いまつ毛が白い頬に静かな影を落としている。ただ目を閉じて、静かな夢を見ているかのようだった。
「麻衣……おい、麻衣……!」
直斗は膝をつき、彼女の肩に触れた。
冷たかった。
命の熱は、とうの昔に奪い去られていた。
そして、直斗の視線は彼女の首元に釘付けになった。
その白く細い首には、赤紫色の痛々しい鬱血の痕が、帯状にくっきりと刻み込まれている。
北川先生の時と、同じだ。
いや、それだけじゃない。
武が、麻衣の首を絞め、そしてその同じネクタイで……?
――プツン。
直斗の中で、最後にかろうじて形を保っていた「理性の糸」が、音を立てて断ち切られた。
「あ……あああああああぁぁぁぁぁっ!!」
森の静寂を切り裂いて、直斗の喉から獣のような絶叫がほとばしった。
それは言葉にならなかった。悲しみ、絶望、怒り、恐怖、後悔――あらゆる感情が許容量を超えて圧縮され、破裂した結果の、ただの音の塊だった。
直斗は両手で頭を抱え、泥まみれの地面に顔をこすりつけるようにして泣き叫んだ。
指先で土を掻き毟り、爪の間から血が滲んでも、狂ったように泣き続けた。
「うわあああああっ! なんでだよ! なんで、なんで麻衣まで……!」
胃の中のものがこみ上げ、直斗はその場で吐いた。酸っぱい胃液の匂いに、血と泥の匂いが混ざる。それでも涙も嗚咽も止まらない。
親友だった。
誰よりも大事な存在だった。
武が麻衣を殺すはずがない。そんなこと絶対にあり得ない。だが、この状況では麻衣を道連れに命を奪い、自らも首をくくったようにしか見えなかった。
自分が昨日、スマホを取り上げられていなければ。
あのメッセージをもっと早く見て、ここに駆けつけていれば。
自分が、二人を見殺しにしたんだ。
どれほどの時間が経っただろうか。
十分かもしれないし、一時間だったかもしれない。
直斗は涙も涸れ果て、喉が真っ赤に腫れ上がり、声も出ないまま地面にへたり込んでいた。
霧は完全に晴れ、木々の隙間から白々とした朝の光が森の中に差し込み始めている。その光が、宙に浮く武の姿と横たわる麻衣の姿を、より一層残酷に鮮明に照らし出していた。
直斗は震える手でジーンズのポケットを探り、スマホを取り出した。
画面には、土と自分の血がこびりついている。
パスコードを解除する指が、何度も滑った。
ようやく通話画面を開き、「1・1・0」とタップする。
『はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか』
「……人が、死んでます」
自分の声ではないみたいに、空洞のような音が口から出た。
『落ち着いてください。場所はどこですか?』
「杉の木公園の……奥の、森の中……。友達が、二人……」
それ以上、言葉が続かなかった。スマホを握りしめたまま、直斗は再びその場にうずくまり、声にならない嗚咽を漏らした。
遠くで、パトカーのサイレンの音が聞こえ始めたのは、それからしばらくしてのことだった。
サイレンの音は徐々に近づき、やがて公園の入り口付近で止まった。それから、数人の大人が藪をかき分け、怒声のような声を掛け合いながら森の中へと踏み込んでくる気配がした。
「こっちだ! 足元に気をつけろ!」
「おい、あそこだ! 小屋の横に……!」
草をかき分ける大きな音とともに、空き地に複数の警察官が雪崩れ込んできた。
その先頭にいたのは、見覚えのある二人組だった。
腹の出たくたびれたスーツ姿の、山田刑事。その後ろに、若い女性の一ノ瀬刑事が続いている。
山田刑事は、枝からぶら下がる武の姿を見るなり、顔を強張らせて「おい、現状保存現状保存! それと救急と鑑識! 全員現状に触れるんじゃないぞ」と声を張り上げた。
一ノ瀬刑事は、小屋の前にへたり込んでいる直斗に気づき、ハッとして駆け寄ってきた。
「あなた……滝沢君だよね!? どうしてあなたがここに……!」
一ノ瀬刑事の整った顔が、驚愕と痛ましさに歪んでいた。彼女の視線が、直斗の奥、小屋の中に横たわる麻衣の姿を捉える。
「ああっ……嘘……」
百戦錬磨の刑事であるはずの彼女の口から、悲痛な呻きが漏れた。
山田刑事が武の遺体から視線を外し、直斗の方へと振り返った。その鋭い目には、かつてないほどの厳しい光が宿っている。
「滝沢……お前、またか。またお前が第一発見者なのか」
山田刑事の低い声が、朝の森に重く響いた。
直斗は、答える気力もなかった。ただ、焦点の合わない目で、規制線を張ろうと慌ただしく動き回る警察官たちを、まるで水槽の外の出来事のように眺めているだけだった。
森の王国は、完全に崩壊した。
帰りたくない子どもたちが作ったちっぽけな避難所は、血と悪意に塗れた惨劇の舞台へと変貌してしまった。
直斗は冷たい土の上に座り込んだまま、ゆっくりと目を閉じた。




