第20話 女教師と手荷物検査
普段と変わらない朝のホームルーム。教壇の前には、直斗たちのクラス担任の花村先生が立っている。
グレーの地味なスーツに白いブラウス、髪は後ろでひっ詰め、銀縁の眼鏡越しに教室を見渡すその表情は隙がなく、いかにも真面目一辺倒な教師という印象だ。事実、その言葉は常に正しく道徳的で少しの揺らぎもない。
直斗は机に視線を落としたまま、彼女の落ち着き払った声を聞き流していた。先週までは、少し堅くて冷たいけれど、ごく普通の担任だと思っていた。えこひいきもなく、授業もまあまあ分かりやすい。好きではないが、特に嫌う理由もなかった。それなのに今は、昨日目にしたあの光景が、頭の中にこびりついて離れない。思い出すたび、胸の奥がざわつき、どうしようもない嫌悪感がじわりと広がってくる。
郊外のバイパス。木々に隠れるように建っていた悪趣味なヨーロッパの古城を模したラブホテル『レイクサイド』。その薄汚れたピンク色の外壁。そして、体育教師の荒井のSUVの助手席に乗り込み、髪をかき上げていた女。薄い黄色のワンピースに濃い化粧の、学校とはまったく違う姿。それは間違いなく、今目の前で「教師」を体現しているこの花村先生なのだ。
(嘘だろ……先生が、なんであんな奴と……)
十五歳の直斗も「教師」を神聖視なんてしていない。「聖職者」だなんて考えは時代錯誤で、今時ありえないと思っている。花村先生もただの人間に変わりないのだから、不倫の一つや二つすることもあるだろう――それは理屈としては理解できる。
だが、彼女の相手が、よりによってあの荒井という点が直斗の心に強く引っかかっていた。日焼けして筋肉質に膨れ上がった太い腕、粗野でデリカシーのない言動、そして何より、北川先生にしつこくセクハラまがいのストーカー行為を働いていた、直斗の中での「第一容疑者」だ。
そんな荒井とまったく正反対のタイプの花村先生が、休日にわざわざ待ち合わせてラブホテルへ行く。しかも自分の勤める学校で、殺人事件が起きたばかりなのに。
ホテルの密室で、彼女はどんな顔をするのだろう。このまったく隙のない格好をすべて脱ぎ捨て、荒井の太い腕に抱かれたのだろうか。学校では絶対に見せないような、だらしなく乱れた姿を荒井に見せているのか――
それは生々しい性的な想像というより、あまりにも極端なギャップに対する生理的な嫌悪感と、大人の世界の得体の知れなさに対する不信感だった。
(花澤先生が北川先生を殺したとは思えない。でも……)
直斗は、前方窓側に座る麻衣の背中を見つめながらも、必死に考えをまとめていた。
荒井が北川先生に言い寄り、拒まれて逆上し、あの夜に旧校舎で首を絞めたのか。あるいは昨日佐々木が言っていた通り、花村先生との不倫がバレて、口封じのために荒井が北川先生を殺したのか――
いずれにせよ。今教壇に立っているこの真面目そうな先生が、殺人の疑いがある男と深くつながり、何か大きな秘密を抱えているのだ。そう思うだけで、直斗の胸の奥のざわめきがさらに大きくなった。
「連絡事項は以上ですが、ここで手荷物検査を実施します」
不意に、花村先生の冷ややかでよく通る声が、教室の空気を一変させた。
連絡事項のプリントを配り終えた彼女は、教卓に両手をつき、眼鏡の奥の瞳をすっと細めた。
「先日の痛ましい事件を受け、学校側としても生徒の皆さんの生活態度や持ち物について、改めて風紀指導を徹底することになりました。一部で気が緩んでいる生徒も見受けられます。そのための手荷物検査です」
教室中が「えっ」「マジで……」というどよめきに包まれた。事件が起きたのは別に生徒たちのせいではないのに、それがどうして手荷物検査に繋がるのだろう。
理不尽ではあるが、教師の命令は絶対だ。逆らえるはずもなく、皆しぶしぶ鞄を机の上に置く。
しかし、直斗は動けなかった。背筋には一瞬氷のような悪寒が走り、額から冷や汗が噴き出てくるような気がした。
(まずい……!)
学生鞄の中には、自分の黒のスマートフォンが入っている。もちろん、昨日撮った動画もそのまま残っている。もし見つかって没収されれば――。
普段なら、直斗がスマホを学校に持ってくることはほとんどなかった。けれど事件が起きてからは、毎日欠かさず鞄の奥底に忍ばせて登校していた。麻衣や武からいつ連絡が来るかわからないし、もしそれに応えられなければ、何か取り返しのつかない事態になるかもしれないと思ったからだ。
「カバンを机の上に出して開きなさい。それと机の中は空にするように。順番に確認します」
花村先生が教壇を降り、最前列の生徒から鞄の中をチェックしていく。案の定、何人かの生徒がスマホを持ち込んでおり、先生は問答無用でそれを没収してしまう。
麻衣の番が来た。先生が鞄の中をちらりと覗くが、一瞬で通過した。麻衣はスマホを持ってきていないのだ。
どうする? 隠すか? ズボンのポケットに移すか? 直斗は焦った。いや、ポケットが不自然に膨らんでいれば、厳しい先生の目をごまかせるはずがない。
だめだ、もう間に合わない――
彼女の規則正しい靴の足音が、直斗の机の横でピタリと止まる。
「滝沢君、どうしたの? カバンを開けなさい」
頭上から降ってきた声に、直斗はビクッと肩を跳ねさせた。
銀縁の薄い眼鏡の奥の冷たい瞳が直斗を射抜いている。
直人は観念して、震える手でゆっくりと学生カバンを開けた。昨日、荒井の車に乗り込んでいたその白い手が伸びてきて、中身を無造作に探る。教科書、ノート、筆箱――そして、底の方に隠していた黒いスマートフォンが、引きずり出された。
「滝沢君……」
花村先生の声が、一段と低く、冷え切ったものに変わった。クラス中の視線が直斗に集まる。
「あなたもですか。学校への携帯電話の持ち込みは校則違反だと、何度も言っているはずです」
「あ……いや、それは――!」
直斗は咄嗟に言い訳を口にしようとしたが、武からの連絡を待っているなどと言えるはずがない。言葉に詰まる直斗の目の前で、スマホが取り上げられる。
「言い訳は聞きません。規則は規則です」
「返してください! それは……どうしても、持ってこなきゃいけないわけがあるんです」
「それは、ご家族が病気で連絡しなければならないとか、そういう理由?」
「いえ、違いますけど……」
「では、返すわけにはいきませんね。よほどのことがない限り、例外は認められません」
直斗は思わずスマホに手を伸ばしたが、須藤先生は一歩引いてそれを躱した。
「これは放課後まで預かります。帰りの学活が終わったら、職員室の私の席まで直接取りに来なさい。その際、反省文も書いてもらいますからね」
それだけ言い残し、花村先生は次の生徒へと移っていった。
直斗は呆然と、自分のスマホが茶色の没収箱の中に入れられたのを見送るしかなかった。
もちろんスマホにはロックがかかっている。持ち主が直斗と認証されない限り、中のデータは見られないはずだ。だが、もし何かの拍子でロックが解除されたら? あのスマホの中には、昨日直斗が撮影した、花村先生と荒井がラブホテルへと消えていく動画が保存されているのだ。
そのことがバレればどうなるか。もちろん、ただでは済まない。親や学校を巻き込んだ大騒動になるだろう。無理やり一緒に連れて行ってもらった佐々木さんにも迷惑がかかる。真犯人を探すことも不可能になる。
直斗は事の重大さに、頭を抱えてしまった。もちろん、その後の授業は一切耳に入ってこなかった。




