第18話 追跡の果ての衝撃
翌日曜日。
突き抜けるような青空の下、直斗は朝早く家を出た。母親の優子にはまた「塾の自習室に行ってくる」と嘘をついてしまった。
直斗は自転車にまたがり、ペダルを力強く踏み込んだ。向かう先は塾ではない。駅の向こうにある『サンレジデンス』マンションだ。恵の話が事実なら、荒井の自宅はそこだ。
スマホの地図を頼りに、十分ほど自転車で走ったところで目的のマンションに着いた。茶色いタイル張りの、五階建てのありふれた古い建物だ。ベランダには洗濯物が無造作に干され、生活感が溢れている。
直斗は目立たないよう近くのアパートの駐輪場に自転車を紛れこませ、遊歩道の脇に植えられた木の陰から、入り口の様子を窺った。
心臓が早鐘を打っている。もし荒井が出てきたらどうするのか。具体的な計画など何もない。ただ、何かをしなくてはという焦りだけが、直斗をここまで突き動かしていた。
三十分ほど経った頃だろうか。
公園の横の路地に、音もなく一台の車が滑り込んできた。グレーのセダンの外車だ。車に詳しくない直斗でも、かなりの高級車だとわかる。
車はマンションの入り口が見渡せる位置で静かに停車した。直斗が息を呑んで見つめていると、運転席の窓がスッと下がり、中の男が鋭い視線をマンションへと向けた。
間違いない。佐々木だ。やはり荒井の自宅はここで合っているらしい。
直斗は迷った末、木の陰から出て、車の助手席側へと小走りで近づいた。
「……佐々木さん」
窓越しに声をかけると、佐々木は弾かれたようにこちらを向き、直斗を見た。その理知的な顔に、明らかな驚愕と動揺が走る。
「滝沢君!? 君、なぜここに……!」
「佐々木さんがダメだって言うから、自分で来たんです」
「どうしてここの住所がわかった? 私は教えてないはずだが」
「それはまあ、学校でいろいろと情報網があって。それより――」
直斗は窓枠に両手をついて必死に訴えた。
「どうしてもじっとしていられなくて。俺、武のために何もしないで待ってるなんてできないんです」
「馬鹿なことを言うな!」
佐々木は声を荒げた。喫茶店や電話でのスマートさは消え、本気で怒っている。
「昨日あれほど言ったはずだ。ここは遊び場じゃない。もし荒井に見つかったらどうするつもりだったんだ! 頼むから、今すぐ家に帰りなさい」
「でも……!」
直斗が食い下がろうとした、まさにその時だった。
マンションのエントランスの自動ドアが開き、一人の男が姿を現した。
「あ……!」
直斗の声が喉の奥で引きつった。黒いTシャツにデニムパンツ、薄い色つきのサングラスというラフな姿だが、筋肉質の体格をひけらかすような肩で風を切る歩き方は学校と変わらない。手には茶色のセカンドバッグを持っている。
荒井は周囲をキョロキョロと見回すと、敷地内に停めてあった青いSUVに乗り込んだ。
「あの人――荒井先生です!」
「しまった! 出るぞ」
佐々木の言う通り、荒井のSUVのエンジンがかかり、ゆっくりと駐車場から動き出そうとしている。
「滝沢君、離れなさい! 私は奴を追う」
「俺も乗せてください! もし乗せてくれないなら、チャリであの車を追います!」
咄嗟の言葉に、佐々木は一瞬だけ迷う素振りを見せた。だが、直斗が本気だということを見て取り、舌打ちをして言った。
「そんな無茶をしたらすぐに荒井にばれてしまう。仕方ない、早く車に乗ってくれ。絶対に気付かれるなよ」
「はい!」
直斗は助手席のドアを開けて素早く転がり込んだ。
「シートベルトを締めろ。頭を下げるんだ」
佐々木の鋭い指示と同時に、車が滑らかに発進した。車内には革の良い匂いと、微かな整髪料の香りが漂っている。
荒井の青いSUVが、すぐ前方の交差点を左折していく。佐々木は絶妙な距離感を保ちながら、間に他の車を一台挟むようにして後を追った。
「……まったく、君の無鉄砲さには呆れるよ。今日だけだからな」
前方を睨みつけたまま、佐々木がため息まじりに言った。
「すみません……。でも、ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。奴がどこへ行くのかしっかり見届けるぞ。しかし教師が乗るにしては結構派手な車だな。まあ、あれなら見失うこともあるまい」
尾行が始まった。エリートとは何でもうまくこなせるものなのか、佐々木の運転は驚くほど巧みで、荒井の車との距離を一定に保ち、間に他の車を挟んでこちらの存在を気付かせない。これが刑事ドラマだったらもっと派手にカーチェイスするのだろうが、現実は地味で、ただ神経がすり減る作業だった。
荒井の車は市街地を抜け、郊外へと向かうバイパスに入った。
「どこへ行くつもりだ……?」
佐々木が呟いた。日曜の昼前。パチンコか買い物か。しかし荒井の車は商業施設には目もくれずバイパスをひた走る。十分ほど走ったところで荒井の車が速度を落とし、路肩に停車した。バス停の近くだが、バスを待っている客はいない。ただ一人、日傘を差した女性が立っているだけだった。
「お、誰かを拾うようだね?」
佐々木が車を減速させ、距離をとって停車する。荒井は後をつけられていることにまったく気が付いていない。
直斗は目を凝らした。
荒井の車の助手席のドアが開く。
日傘を閉じた女性が素早く乗り込む。
その一瞬、女性が髪をかき上げた動作。そして、振り返った横顔。
直斗は息を呑んだ。
濃いめの化粧。薄い黄色の花柄のワンピースに、つばの広い帽子。学校で見せるきっちりしたスーツ姿とはまるで違うが、その神経質そうな顔立ちと、銀縁の眼鏡は紛れもなかった。
「……え?」
直斗の口から、乾いた声が漏れた。心臓が早鐘を打つ。見間違いであってくれと願った。
「どうした、滝沢君。あの女に見覚えが?」
「は、はい……まさか……」
信じたくなかった。いや、信じられるわけがなかった。
「あれ……うちの担任の、花村先生です」
「なんだって?」
佐々木が驚いて直斗を見る。
「君の担任? 同じ学校の教師か」
「はい……国語担当で、すごく真面目な先生です」
花村先生は車内の荒井と二言三言言葉を交わし、助手席に乗り込もうとした。直斗は咄嗟に自分のスマホを構え、その様子を動画で撮ってしまった。ズームしたので画質は落ちるが、それでも二人の顔ははっきりと写っているはずだ。
助手席に花村先生を乗せ、荒井の車が再び動き出した。学校では犬猿の仲とまでは言わないが、タイプが違いすぎて接点などなさそうな同僚。体育会系の荒井と、堅物の花村。事件の翌日、ホームルームで「憶測でものを言うな」と生徒たちを諭していた、あの花村先生が。それが、休日に待ち合わせをして、同じ車に乗っている。
「これはどういうことなんだろうな……?」
佐々木の声のトーンが変わった。北川先生にしつこく付きまとっていた荒井が、実は休日、別の教師と密会していた。この秘密裏の関係が、事件とどう結びつくのか、直斗にだってわけが分からない。
「追うぞ、滝沢君。行先がどこか興味深い」
荒井の車は郊外へ進み、やがて緑の多い北西のダム湖方面へ向かった。かつては観光客で賑わったらしいが、今は廃れたドライブインや、人目を忍ぶカップル用の施設が点在するだけのエリアだ。




