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星降る夜に君は死んだ  作者: 天代 朔
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第1話  殺人観測

「先生、大丈夫ですか!」


 青白い灯だけが頼りの、旧校舎の薄暗い廊下。

 床に仰向けに倒れたスーツ姿の女性のそばに膝をつき、直斗(なおと)はそっとその肩に手をかけた。


 ――まだ温かい、ただ気絶しているだけだ。


 必死にそう自分に言い聞かせながら、身体を優しく支え、起こそうとわずかに傾ける。


 そのときだった。

 光が彼女の細い首筋を照らし出し、直斗の呼吸はピタリと止まった。


 そこには、恐ろしいほど鮮明な赤紫色の痕が刻まれていた。布のような幅のあるもので、力任せに締め上げられた痕。

 そのすぐ下には、何かを必死に引き剥がそうとしたのか、自らの爪で掻きむしった痛々しい傷が暗い血を滲ませている。


 ――気絶なんかじゃない。

 死んでいる!


 その理解は、直斗の全身の血を一瞬で凍らせた。

 恐怖のあまり声も出ない。

 ただ、さっき暗闇の奥へと音もなく駆け去っていった「あいつ」の黒い背中だけが、悪夢のように脳裏に焼き付いて離れなかった。


♢ ♢ ♢ ♢


 放課後の校舎が、ゆっくりと闇に沈みはじめた。六月の風はほんの少し湿っていて、遠く川のほうから吹き上がってくる匂いが、梅雨の手前を告げている。新校舎の屋上へ続く重い鉄製の扉を押し開けると、足元のコンクリートには夕暮れの濃い藍色が深く滲んでいた。


 滝沢(たきざわ)直斗(なおと)は、天文部に入ってからの自分を、ずっと嘘つきだと思っている。星なんか、本当はこれっぽっちも興味がなかった。夜空に散らばった無数の光の名前を覚えるより、教室の窓から外をぼんやり眺めているほうが、まだ好きだった。

 今年の春のことだ。天文部の部員が一人転校し、部に欠員が出た。そのとき直斗は、部長であり幼馴染の七瀬(ななせ)麻衣まいから、「名前だけでも貸して」と入部を頼まれた。

 中学三年にもなって、今さら新しい部に入るなんて少々不自然だったかもしれない。けれど直斗は二つ返事で入部を決めた。他人にどう思われようがそんなことどうでもよい。麻衣がそこにいる――それだけで、理由は十分だった。


 静寂に包まれた屋上。

 天文部の部員たちは、望遠鏡のレンズを調整したり、双眼鏡のピントを合わせたりしながら、黙々と今年度二回目の『夜間天体観測会』の準備を進めている。だが、直斗にとってはこれが初めての観測会だった。入部が遅れ、前回には間に合わなかったのだ。


「直斗、星図の向き、まだ覚えてないの?」


 すぐ後ろから声が降ってきた。振り返らなくても誰だかわかる。麻衣だ。光沢のある黒髪を低い位置でひとつに結んで、今日は制服の上に薄い紺のカーディガンを羽織っている。もう六月だというのに、日が落ちると、校舎五階の屋上に吹く風は、昼間の熱を忘れてしまうほど意外に冷たかった。


「覚えてる。たぶん」

「たぶんって何よ。ほら、もう北斗七星が見えてるでしょ。柄杓の形、わかる?」

「わかるよ。さすがにそれくらい、俺でも」

「……ふうん」


 麻衣は、わざとらしく鼻を鳴らした。挑発というよりは、半ばあきれたような、それでいてどこか楽しんでいるような態度だった。

 他愛のないやり取りのはずなのに、気がつけば言い争いになる。いつもそうだ。幼いころからの癖のようなもので、たとえどんなにぎくしゃくしても、麻衣が近くにいると、直斗の中で何かが動き出してしまう。


 彼女の横顔が、薄暗い光に照らされている。視線は夜空へ、まっすぐにのびていた。直斗は、その顔を見るだけで胸の奥が痛くなる。この感覚は、ずっと変わらない。

 幼稚園のころ、麻衣が転んで泣いたとき、どうしていいかわからず、ただ近くに立っていただけの自分。小学生のころ、風邪で休んだ麻衣が学校に戻ってきた日、同じ教室にいるというだけで、理由もなく嬉しかったこと――。

 すべてが大した思い出でもないのに、なぜか忘れられなかった。


「はい、これ。今日の観測のチェックリスト。ちゃんと書いといてよね」


 麻衣は、バインダーに挟んだメモ用紙を差し出してくる。細い指先に、遠くの街灯の光が震えていた。


「わかったよ。でも、そんなに俺に期待しない方がいいと思うけど。まだ新入部員なわけだし」

「期待なんかしてないって。補助。あくまで補助だから」

「……そう言われると、なんか腹立つな」

「もう、ごちゃごちゃ面倒くさいな」


 夕闇が濃くなるにつれて、星がひとつ、またひとつと現れはじめる。満天というわけにはいかないが、思っていたよりもよく見える星空だった。

 麻衣はそれを指差しながら部員に説明している。その声は、子どものころよりもずっと落ち着いていて、ときどき直斗の耳をかすめ、心地よく通り過ぎていく。


「ねえ、部長。春の大曲線って、あそこら辺ですよね?」


 後輩の女の子が声を上げた。ショートカットとくりくりした目が特徴の一年生、星野(ほしの)めぐみだ。麻衣は優しくうなずきながら、望遠鏡の向きを調整してやる。


「そうそう。スピカからアークトゥルスをたどって、それから北斗七星ね――」


 後輩を指導する麻衣は、やけに大人びて見えた。たった一瞬のことだったが、その変化が怖くて、直斗は近づくよりも離れるほうを選んでしまう。そういう性格だから、自分の気持ちをずっと伝えられないでいた。もし伝えたとして、今の関係が変わってしまったらどうしよう――そんな怯えが、胸の裏側にいつも貼り付いている。


 そのとき、屋上の扉が開く音がした。


「よお、みんな。観測は順調か? 遅れてすまんな。校務が長引いてしまった」



 軽い声とともに現れたのは、天文部の顧問、田中先生だった。紺色の薄手のジャケットに白いシャツ。まだ二十代後半ほどの若い教師で、社会科を担当している。背が高くスポーツマンタイプで、バスケ部の顧問も掛け持ちしている。女子の人気が高いのは、誰の目にも明らかだった。


「はい、先生。夜の学校を使う許可まで取っていただいたので、ちゃんとやってます」


 麻衣が笑顔であいさつする。田中先生は、うんうんとうなずきながら笑った。


「今日はよく見えるね。湿度は高めだけど、上空の風が安定してるから、シーイングも悪くない。せっかくだし、月も観ておこうか。クレーターがきれいだよ」


 望遠鏡を覗き込みながら、穏やかな声が続く。直斗は先生の言葉を半分ほどしか理解していなかった。ただ、麻衣が田中先生と話すときに見せる、少し弾んだような笑顔が気にかかった。


「滝沢も見てみろよ。ほら。新入なんだから、天体望遠鏡で見る月は、まだ見たことないだろ」


 田中先生が優しく呼びかける。直斗は促されるまま、望遠鏡の接眼レンズを覗き込んだ。

 その瞬間、視界いっぱいに、街灯とは違う鮮烈な白い光が満ちた。ただの丸い光の塊だと思っていた表面に、無数のクレーターが幾重にも刻まれ、影がくっきりと浮かび上がっている。圧倒的な立体の世界が、そこにあった。


「……すごい」


 思わず漏れたその一言が、なんだか少し恥ずかしかった。先生は満足そうに笑い、麻衣は驚いたように、からかう調子で言った。


「珍しい。直斗が感動してる」

「そんなの当たり前だろ」

「え、普段は絶対ないでしょ。いつも冷笑系で斜に構えてるくせに」


 そのやり取りが、部員たちの他愛ない笑いを誘う。からかうようでいて、どこか微笑ましい空気が、屋上にふわりと広がった。

 この雰囲気、好きかもしれない――直斗は、ふとそう思った。

 騒がしいわけでも、特別なことが起きているわけでもない。ただ皆が気軽に言い合い、笑い合っているだけ。それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「じゃあみんな、交代で他の星も見てみよう。滝沢は今日が初めての天体観測なんだから、慣れるためにもその望遠鏡を一人で使ってていいよ。そうだな、七瀬と組んで南の空を観測してくれ」


 先生の計らいで、直斗はそのまま望遠鏡を独占させてもらうことになった。

 望遠鏡を抱えて屋上の南側へ移動する。見よう見まねでダイヤルを回し、夜空に輝く一等星へピントを合わせてみる。レンズの中で、宝石のように輝く光の点。だが、じっと見つめていると、ある奇妙なことに気がついた。

 合わせたはずの星が、視界の端へ、じりじりと移動していくのだ。数分も経たないうちに、星はレンズの枠外へと消えてしまう。


「……あれ? 星が消えた」

「消えたんじゃないよ。動いてるの」


 すぐそばにいた麻衣が、くすりと笑って教えてくれた。彼女の手には、部の備品である年季の入った黒い双眼鏡がある。


「望遠鏡で高倍率にするとね、地球が自転してるスピードが目に見えてわかるの。星が動いてるんじゃなくて、私たちが乗ってる地球が、猛スピードで回ってるのよ」

「マジか……こんなに速いのかよ」


 直斗は少し驚きながら、星をもう一度ファインダーの中央に合わせた。宇宙の広さと、地球が動いていることを、なんとなく実感できる気がした。

 その間も、麻衣はずっとその場を離れず、ときおり双眼鏡で夜空を見上げては、手元の小さなノートに何かを書き込んでいる。


「何書いてるんだ?」


 直斗はファインダーから目を離し、横からふいに覗き込もうとした。

 ページには、南東から東にかけての星図らしきものが描きかけになっている。だが、まだ星はあまり記入されておらず、余白が目立っていた。


「あっ、ちょっと!」


 麻衣はびくりと肩を揺らし、慌ててバタンとノートを閉じた。


「見せてよ。その立派な観測記録」

「だめ! まだ全然書けてないし……それに、直斗には絶対に見せない」


 麻衣はノートを両手で胸に抱え込み、少し恥ずかしそうにそっぽを向いた。


「なんだよ、ケチ。減るもんじゃないだろ」

「そういう問題じゃない! とにかく大切なノートなんだから、絶対ダメ。……もう、早く自分の観測に戻りなよ」


 直斗は肩をすくめ、再び望遠鏡に向き直った。

 だが――


「ダメだ、全然星がレンズに入ってこない。なあ、織姫と彦星ってどこにあるんだ? 俺の知ってる星って、それくらいなんだけど」

「……天文部員なら、星の名前くらい覚えなよ。織姫はベガで、彦星はアルタイルね。――直斗、南東にレンズを向けてみて」


 麻衣はそう言って、自分の双眼鏡を空に向けた。直斗ももう一度ファインダーをのぞく。


「自分の力でちゃんと探してみて。一等星なんだから、すぐ見つかるはず――ほら、ベガもアルタイルも、デネブも見えるでしょ。それで夏の大三角形ね」


 麻衣の言葉に、直斗は「わかった」と頷き、望遠鏡の向きを改めて南東へと向けた。続いて片目をつむり、ファインダーをのぞき込む。

 南東の空は街灯の影響を受けやすく、暗い星は見えづらい。ダイヤルを回しながら、懸命にアルタイルとベガの光を探す。だが、映るのは真っ暗な夜空ばかりで、一向に星の光をとらえることができない。

 やっぱり、にわかの素人じゃだめか――直斗はそう思い、すぐに諦めてファインダーから目を離した。


「全然見えないな。麻衣、ちょっと代わってくれ――」


 腰を伸ばして横を向き、麻衣に声をかける。だが、そのとき、麻衣はもう空を見ていなかった。双眼鏡を水平よりやや下に構え、はるか向こうを見つめている。どうやらピントは、学校のグラウンドを挟んだ先、五十メートルほど離れた旧校舎に合っているようだった。


「おい、麻衣。何やってんだよ。天体観測はどうしたんだ」


 だが、麻衣は何も答えない。

 様子がおかしい。双眼鏡を握る両手が、小刻みに震えていた。


 ――時刻は、ちょうど午後八時を回ったところだ。

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