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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

壊れた世界で、君と生きる

作者: pinoneko
掲載日:2026/03/13

もし、大切な人がうつ病になったら。


もし、その人が壊れていく姿を目の前で見たら。


あなたは、どうしますか?


この物語は、

うつ病の母を持つ少年と、同じ傷を抱えた少女の物語です。


壊れた過去を抱えた二人が出会い、

それでも生きていこうとする物語です。


重いテーマですが、

最後には少しだけ温かい気持ちになれる物語になっています。


どうか最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

プロローグ


あの日の部屋


人が壊れる瞬間というものは、案外静かなのかもしれない。


何か大きな音がするわけでもない。

世界が止まるわけでもない。

空が割れるわけでもない。


ただ、日常の中にある。


古賀悠馬にとって、その瞬間は――

いつもの帰り道の途中にあった。


小学校の帰り道は、いつも同じだった。


校門を出て、横断歩道を渡り、細い住宅街の道を歩く。

途中にある駄菓子屋の前を通り、角の公園の横を抜ける。


そして、家に着く。


その道は、特別なものではない。

日本中のどこにでもある、普通の帰り道だった。


その日も同じだった。


ランドセルはいつもより少し重かった。

国語の宿題が多かったからだ。


夕方の空は、少しだけ曇っていた。

太陽の光が、雲の向こうでぼんやりと滲んでいる。


風はほとんどなかった。


静かな午後だった。


悠馬は、特に何も考えず歩いていた。


小学生というのは、不思議なもので。

何も考えていない時間が多い。


ただ歩く。

ただ帰る。


それだけだ。


それが当たり前だった。


でも。


家に近づくにつれて、ほんの少しだけ違和感があった。


理由は分からない。


ただ、空気が少し違う気がした。


静かすぎる。


そんな感覚だった。


玄関の前に立つ。


いつも通りの家だった。


古い二階建ての家。

特別大きくも、小さくもない。


表札には


古賀


と書かれている。


悠馬はランドセルの肩紐を少し持ち上げて、玄関のドアを開けた。


「ただいま」


声は、思ったより小さかった。


返事はなかった。


それも、いつものことだった。


母は、よく昼間寝ている。


あるいは、自分の部屋にこもっている。


悠馬は靴を脱いだ。


床は少し冷たかった。


家の中は、静かだった。


テレビの音もない。

キッチンの音もない。


ただ、静かだった。


それでも悠馬は特に気にしなかった。


それが、もう日常になっていたからだ。


母は――


うつ病だった。


その言葉の意味を、当時の悠馬はよく理解していなかった。


ただ。


母は「普通ではない日」がある。


それだけは分かっていた。


昨日まで笑っていた人が、突然泣き出す。


何もないのに怒る。


夜中に起きて、家の中を歩き回る。


ある日は、味噌汁の中に虫が入っていた。


悠馬は何も言わず、それを食べた。


母も何も言わなかった。


またある日は、父に包丁を向けて叫んでいた。


父は怒鳴り、母は泣き、家の空気は壊れていく。


そういう日がある。


でも。


そうじゃない日もある。


普通の日もある。


母は笑うし、料理もする。


優しい日もある。


だから悠馬は、よく分からなかった。


母は、普通なのか。

普通じゃないのか。


ただ、どこかで思っていた。


母は、少し壊れている。


それでも。


母は母だった。


廊下を歩く。


ランドセルが背中で揺れる。


悠馬の部屋は、廊下の奥だった。


ドアが少しだけ開いていた。


朝は閉めたはずだった。


悠馬は立ち止まる。


母が入ったのだろうか。


そんなことは珍しくない。


母は、時々悠馬の部屋に入る。


掃除をしたり。


何かを探したり。


あるいは、何もせず座っていたり。


悠馬はドアを押した。


ギ、と小さな音がした。


部屋の中は薄暗かった。


カーテンが半分閉まっている。


窓から、夕方の光が少しだけ入っていた。


最初は、何も分からなかった。


ただ、部屋の真ん中に何かがあった。


違和感。


視界に入っているのに、理解できない。


それは、人だった。


母だった。


天井から、ぶら下がっていた。


時間が止まった。


正確には。


止まったように感じた。


悠馬の脳は、それを理解するのに時間がかかった。


母の足が見える。


裸足だった。


少しだけ揺れている。


その光景が、現実として頭に入ってくるまで、数秒かかった。


悠馬は動けなかった。


体が、凍りついたみたいだった。


声も出ない。


ただ、見ていた。


母の足が揺れている。


椅子が倒れている。


ロープが天井から垂れている。


それが、どういう意味なのか。


やっと理解した。


母が、首を吊っている。


悠馬の足が動いた。


どうして動いたのか分からない。


体が勝手に動いた。


母の足に手を伸ばす。


軽かった。


思っていたより、ずっと軽かった。


「母さん」


声が出た。


震えていた。


「母さん」


もう一度呼ぶ。


返事はない。


当然だった。


それでも呼ぶ。


「母さん」


悠馬は足を引っ張った。


でも、何も変わらない。


どうすればいいのか分からない。


テレビで見たことはある。


首を吊った人を助ける方法。


でも。


現実はテレビみたいに簡単じゃない。


悠馬の力では、どうにもならなかった。


母の体は、持ち上がらない。


ロープも解けない。


悠馬は、ただ足を掴んでいた。


涙が落ちた。


でも、声は出なかった。


ただ泣いていた。


ポケットの中に携帯電話があった。


父が持たせてくれたものだった。


悠馬はそれを取り出す。


手が震えていた。


父の番号を押す。


電話が鳴る。


一回。


二回。


三回。


「もしもし」


父の声だった。


その瞬間。


悠馬の声が崩れた。


「父さん」


喉が震える。


「母さんが」


それ以上言えなかった。


父はすぐに理解した。


電話の向こうで、何かが落ちる音がした。


「今すぐ行く」


それだけ言って、電話は切れた。


悠馬はまだ母の足を掴んでいた。


時間がどれくらい経ったのか分からない。


五分かもしれない。


三十分かもしれない。


母の足は、もう揺れていなかった。


悠馬は泣き続けていた。


どうして。


どうしてこうなったのか。


どうして母はこんなことをしたのか。


どうして自分は助けられないのか。


何も分からなかった。


ただ一つだけ。


はっきりしていたことがある。


この日。


この瞬間。


古賀悠馬の世界は、壊れた。


そして。


その壊れた世界の中で。


悠馬は、生きていくことになる。



第一章 止まったままの朝


四月の朝は、どこか現実感が薄い。


春の光はやわらかく、街の色を少しぼかす。

冬の冷たさはもう消えているのに、空気にはまだわずかな冷たさが残っている。


それが、新しい季節の始まりを知らせていた。


古賀悠馬は駅前の交差点で信号を待っていた。


高校の制服は、まだ体に馴染んでいない。

ブレザーの襟が少し固く感じる。


周りには同じ制服の生徒たちがいた。


みんな少し浮ついた顔をしている。

友達と話しながら笑っている者もいれば、スマートフォンを見ながら歩いている者もいる。


新しい学校。

新しい生活。

新しい友達。


そういうものが、彼らの空気を少し軽くしている。


信号が青に変わった。


人の流れが前に進む。


悠馬もその流れの中に入る。


ただ歩く。


特に何かを考えているわけではない。


昔から、朝という時間はあまり好きではなかった。


理由はよく分からない。

ただ、朝は思い出すことが多い。


夜よりも、朝の方が記憶は浮かびやすい。


それが嫌だった。


駅前を抜けると、学校へ向かう坂道がある。


そこを登ると、校門が見える。


悠馬はその坂をゆっくり歩いた。


周りには同じ学校の生徒が増えている。


みんな少しだけ早足だった。


初日の遅刻はしたくないのだろう。


悠馬は急がなかった。


急ぐ理由がないからだ。


坂の途中で、ふと空を見上げた。


春の空は高い。


雲がゆっくり流れている。


その光景を見ながら、悠馬は思う。


――高校。


その言葉に、特別な意味はなかった。


多くの人にとって、高校というのは大きな節目だ。


青春とか、未来とか、夢とか。


そういう言葉が自然とついてくる。


でも、悠馬にとっては違った。


ただの延長だった。


小学校が終わり、中学が終わり、その次が高校。


それだけだ。


何かが変わるわけでもない。


何かが始まるわけでもない。


悠馬の人生は、ある日から止まっている。


小学生の頃。


あの日から。


坂を登りきると、校門が見えた。


白い校舎。

大きなグラウンド。

桜の木。


桜はもうほとんど散っていた。


花びらが、風に少しだけ舞っている。


その光景は、どこか映画みたいだった。


でも悠馬は、それをただの風景として見ていた。


感動も、期待もない。


ただの景色。


校門をくぐる。


校庭には新入生が集まり始めていた。


クラス分けの紙が掲示板に貼られている。


人だかりが出来ていた。


「どこだろ」


「二組!」


「同じクラスじゃん」


そんな声が聞こえる。


悠馬は人の後ろから掲示板を見る。


一年三組


そこに、自分の名前があった。


古賀悠馬


それを確認すると、すぐに人混みから離れた。


誰かと喜び合う必要はない。


そのまま校舎に入る。


廊下はまだ静かだった。


窓から朝の光が差し込んでいる。


新しい学校の匂いがする。


ワックスと、木と、少しの埃の匂い。


悠馬はゆっくり歩いた。


教室は三階だった。


階段を登る。


靴の音が静かに響く。


教室の前で立ち止まる。


一年三組


プレートにそう書いてある。


ドアは少しだけ開いていた。


悠馬はそのまま中に入る。


教室の中には、まだ数人しかいなかった。


窓際の席に座っている者。

後ろで話している者。


みんな少し緊張している顔だった。


悠馬は教室を見渡す。


自分の席を探す。


窓際の三列目。


そこに


古賀悠馬


と書かれた紙が貼られていた。


悠馬は席に座った。


窓の外を見る。


校庭が見える。


春の光がグラウンドに広がっていた。


しばらくすると、生徒が少しずつ増えてきた。


教室の空気が、ゆっくり賑やかになる。


笑い声。

椅子を引く音。

机を叩く音。


そのすべてが、少し遠くに聞こえた。


悠馬は窓の外を見たまま、ぼんやりしていた。


人の声は嫌いではない。


でも、混ざろうとは思わない。


それは中学の頃から同じだった。


誰かと仲良くすることも出来る。


話すことも出来る。


でも、必要だとは思わない。


悠馬にとって、人間関係は少し疲れるものだった。


そのときだった。


「ねえ」


声がした。


悠馬はゆっくり顔を向ける。


隣の席に、一人の女子が立っていた。


肩までの髪。


少し明るい目。


制服の袖を少しまくっている。


初対面のはずなのに、どこか自然な雰囲気だった。


「古賀悠馬くん?」


その女子は言った。


悠馬は少しだけ頷く。


「……そう」


その女子は笑った。


「やっぱり」


そして、手を差し出した。


「小倉那奈」


その笑顔は、春の光みたいに明るかった。


悠馬はその手を見た。


少し迷う。


でも、無視する理由もない。


軽く握る。


「古賀悠馬」


那奈は笑った。


「知ってる」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


「……クラス表」


那奈は笑った。


「そう」


そのまま椅子に座る。


悠馬は窓の外を見る。


でも、少しだけ思った。


この人は、距離が近い。


初対面のはずなのに、まるで前から知っているみたいに話す。


そういう人は、たまにいる。


でも悠馬は、そういう人が少し苦手だった。


なぜなら。


そういう人は、遠慮なく心の中に入ってくるからだ。


そして。


悠馬の心の中には、あまり見せたくないものがある。


那奈は机に肘をつきながら言った。


「悠馬くん」


悠馬は顔を向ける。


「……何」


那奈は笑った。


「これからよろしく」


その言葉は、とても普通だった。


どこの教室でも交わされる言葉。


でも、その瞬間。


悠馬は少しだけ思った。


この人は。


自分の人生を、少しだけ動かすかもしれない。


その予感は、まだ小さかった。


でも確かに、そこにあった。


「これからよろしく」


小倉那奈は、そう言って笑った。


その笑顔は、特別なものではない。


クラス替えの日、誰もがするような挨拶。

ありふれた、当たり前の言葉。


それでも。


古賀悠馬には、その言葉が少しだけ不思議に聞こえた。


それはたぶん。


那奈の言い方のせいだった。


どこか自然だった。


まるで本当に「これから」を楽しみにしているみたいな声だった。


悠馬は軽く頷いた。


「……うん」


それだけ言って、視線を窓の外に戻す。


那奈はそれを気にした様子もなく、机に肘をついた。


教室の空気は、少しずつ賑やかになっている。


新しいクラスというのは、独特の空気がある。


まだ互いの距離を測っている段階。


誰と話せばいいのか。

どのグループに入るのか。


そういう見えない探り合いが、教室の中に漂っている。


悠馬は、その空気を少し離れたところから見ていた。


それは中学の頃から同じだった。


人の輪の中に入ることは出来る。


でも、入らない。


その方が楽だからだ。


人と関わると、色々なことが増える。


会話。

気遣い。

約束。


それらは、悠馬にとって必要なものではなかった。


那奈は、そんな悠馬の様子を横目で見ながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「静かだね」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


「普通」


那奈は笑った。


「普通の人はもう少し話す」


悠馬は肩をすくめる。


「話すことがない」


那奈は机の上でペンを転がしながら言った。


「私あるよ」


悠馬は少しだけ顔を向ける。


「何」


那奈は少し考えた。


そして、言った。


「天気」


悠馬は少し黙った。


そして、窓の外を見る。


「晴れてる」


那奈は笑った。


「そう」


悠馬はそれ以上何も言わない。


那奈は楽しそうだった。


この短いやり取りが、何か面白いものみたいに笑っている。


悠馬は思う。


この人は、たぶん明るい。


それは性格というより、空気だ。


人の空気には種類がある。


静かな人。

暗い人。

落ち着いた人。


そして。


太陽みたいな人。


那奈は、たぶんそのタイプだった。


悠馬はそういう人を、あまり近くに置いたことがない。


理由は簡単だ。


まぶしいからだ。


教室のドアが開いた。


教師が入ってくる。


背の高い男の教師だった。


三十代くらい。


黒板の前に立つ。


「おはよう」


生徒たちの声が少し遅れて返る。


「おはようございます」


教師は名簿を開きながら言った。


「担任の佐々木だ」


それから、簡単な自己紹介が始まった。


教室の空気が、少しだけ落ち着く。


悠馬は黒板をぼんやり見ていた。


教師の声は聞こえている。


でも、頭の中にはあまり入ってこない。


それは昔からの癖だった。


授業は聞く。


でも、意識の半分は別の場所にある。


教師が言う。


「じゃあ順番に自己紹介」


教室の空気が、少しだけ緊張する。


前の席の生徒が立ち上がる。


名前を言い、出身中学を言い、軽く頭を下げる。


拍手が少し起きる。


それが、順番に続いていく。


悠馬の番が近づいてくる。


特に緊張はしない。


こういうことには慣れている。


前の席の男子が終わり、悠馬の番になった。


立ち上がる。


教室の視線が集まる。


悠馬は言った。


「古賀悠馬」


それだけだった。


少し間が空く。


教師が言う。


「それだけ?」


悠馬は頷いた。


「はい」


教室の中で、少し笑いが起きた。


教師は苦笑いする。


「まあいい」


悠馬は座った。


那奈が横から小さく言った。


「短い」


悠馬は答える。


「必要ない」


那奈は笑った。


それから、那奈の番が来た。


那奈は立ち上がる。


そして、少し考えるような顔をしてから言った。


「小倉那奈です」


それから少しだけ笑う。


「楽しく生きたいです」


教室に小さな笑いが起きる。


那奈はそのまま座った。


悠馬は少しだけ思った。


楽しく生きたい。


その言葉は、簡単なようで難しい。


悠馬は、楽しく生きようと思ったことがあまりない。


ただ、生きているだけだった。


自己紹介が終わり、ホームルームが進む。


配布物。

校則の説明。

時間割。


すべてが、新しい生活の準備みたいだった。


悠馬はそれをぼんやり聞いていた。


その途中で、那奈が小さく言った。


「悠馬くん」


「……」


「さっきの」


悠馬は顔を向ける。


那奈は言った。


「自己紹介」


悠馬は言う。


「何」


那奈は笑った。


「かっこいい」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


「どこが」


那奈は言う。


「シンプル」


悠馬は何も言わない。


那奈は続ける。


「でも」


少し間を置く。


「寂しい」


悠馬の手が、ほんの少し止まった。


寂しい。


その言葉は、悠馬の中に少し残った。


でも。


それを認めるつもりはなかった。


「別に」


短く答える。


那奈はそれ以上は言わなかった。


ただ、窓の外を見た。


春の光が教室に入っている。


その光は、やわらかかった。


悠馬は思う。


高校生活というのは、こうやって始まるのかもしれない。


特別なことは何もない。


ただ、隣の席に誰かがいて。


少し会話をして。


時間が流れていく。


それだけだ。


でも。


その「それだけ」が。


いつか大きな意味を持つことがある。


そのことを。


このときの悠馬は、まだ知らなかった。


午前中の授業が終わる頃には、教室の空気はすっかり柔らかくなっていた。


最初にあったぎこちなさは、少しずつ溶け始めている。


まだ友達とは呼べない関係でも、話すこと自体は出来るようになる。


それが新しいクラスというものだった。


昼休みのチャイムが鳴る。


その瞬間、教室の空気が一気に変わる。


椅子を引く音。

机を寄せる音。

弁当の包みを開く音。


あちこちで小さな会話が始まる。


悠馬は鞄の中から弁当を取り出した。


父が作った弁当だった。


中身はだいたい同じだ。


卵焼き。

ウインナー。

冷凍の唐揚げ。

白いご飯。


豪華ではない。


でも、不満はなかった。


悠馬は弁当の蓋を開ける。


箸を取り出す。


そのとき、横から声がした。


「お弁当?」


小倉那奈だった。


悠馬は少しだけ顔を向ける。


「……そう」


那奈は興味深そうに弁当を見た。


「いいね」


悠馬は言う。


「普通」


那奈は笑った。


「普通って言う人って、だいたい普通じゃない」


悠馬は意味が分からなかった。


「何が」


那奈は言う。


「雰囲気」


悠馬は弁当を一口食べた。


味は、いつも通りだった。


那奈は自分の弁当を広げる。


色とりどりだった。


小さなハンバーグ。

ブロッコリー。

ミニトマト。

卵焼き。


悠馬は少しだけ思った。


綺麗な弁当だ。


那奈は箸を持ちながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「一人?」


悠馬は頷く。


「そう」


那奈は少し考えてから言った。


「じゃあ」


机を少し寄せる。


「一緒に食べよう」


悠馬は箸を止めた。


断る理由はない。


でも、特別に嬉しいわけでもない。


悠馬は言う。


「別にいいけど」


那奈は笑った。


「やった」


その言い方は、子供みたいだった。


悠馬は少しだけ思う。


この人は、本当に感情が分かりやすい。


楽しいときは、ちゃんと楽しそうにする。


そういう人を、悠馬はあまり見たことがなかった。


那奈は弁当を食べながら言った。


「悠馬くんってさ」


「……」


「どこの中学?」


悠馬は答える。


「西中」


那奈は頷く。


「近いね」


悠馬は聞く。


「小倉は」


「北中」


悠馬は少しだけ考える。


確かに近い。


でも、中学では会ったことがない。


那奈は言う。


「悠馬くんってさ」


「……」


「中学でも静かだった?」


悠馬は少し考える。


静か。


そうかもしれない。


でも、それは性格というより、選択だった。


人と関わらないようにする。


それだけだ。


悠馬は言う。


「普通」


那奈は笑う。


「また普通」


悠馬は弁当を食べる。


那奈は少し考えてから言った。


「私さ」


「……」


「結構話す」


悠馬は言う。


「見れば分かる」


那奈は笑った。


その笑い声は、教室のざわめきの中でも少しだけ目立った。


そのとき、教室の後ろから声がした。


「那奈」


振り向くと、一人の女子が立っていた。


肩までの髪。


落ち着いた雰囲気。


那奈とは少し違うタイプだった。


「麗奈」


那奈が言う。


その女子は近づいてきた。


「一緒に食べない?」


那奈は少し考える。


そして言った。


「今日はここ」


悠馬を指す。


その女子は悠馬を見る。


少しだけ目が合う。


悠馬は軽く頭を下げた。


その女子も軽く会釈する。


「高田麗奈」


静かな声だった。


悠馬は言う。


「古賀悠馬」


麗奈は少しだけ笑った。


「よろしく」


それだけ言って、自分の席に戻った。


那奈は弁当を食べながら言った。


「麗奈」


「……」


「中学の友達」


悠馬は頷く。


「そうか」


那奈は言う。


「優しい人」


悠馬は少しだけ麗奈の方を見る。


確かに、落ち着いた雰囲気だった。


那奈とは対照的だった。


でも。


二人が仲が良い理由は、なんとなく分かる気がした。


昼休みはゆっくり過ぎていく。


弁当を食べながら、那奈は色々なことを話した。


好きな音楽。

好きな食べ物。

嫌いな教科。


悠馬は基本的に聞くだけだった。


でも、それでよかった。


那奈は、悠馬が多く話さないことを気にしていない。


むしろ、その沈黙も会話の一部みたいに扱っている。


それが不思議だった。


普通、人は沈黙を嫌う。


でも那奈は違う。


沈黙があっても、困らない。


それは、ある意味で楽だった。


弁当を食べ終える。


教室の窓から、春の光が差し込んでいた。


那奈は空を見ながら言った。


「いい天気」


悠馬も窓を見る。


青い空。


少しの雲。


普通の春の日だった。


那奈は言う。


「高校ってさ」


「……」


「楽しそう」


悠馬は少し考える。


楽しそう。


その言葉は、悠馬の中ではあまり使われない。


高校生活に期待しているわけではない。


ただ、時間が流れるだけだ。


悠馬は言う。


「そう」


那奈は笑った。


「悠馬くん」


「……」


「もう少し楽しそうにして」


悠馬は答える。


「無理」


那奈は笑った。


その笑い声は、どこか安心する音だった。


悠馬は少しだけ思う。


この人は、たぶん変わらない。


明るい人は、ずっと明るい。


そういう人がいる。


そして。


そういう人が、誰かの人生を少し変えることがある。


悠馬はまだ知らなかった。


隣の席に座っているこの少女が。


自分の人生を大きく動かすことになるということを。


午後の授業は、ゆっくりと過ぎていった。


数学。

英語。

現代文。


黒板に書かれる文字。

教師の声。

ノートをめくる音。


すべてが、少しだけ遠くに聞こえていた。


古賀悠馬は窓際の席で、時々外を見ていた。


校庭では、体育の授業をしているクラスがあった。

ボールが転がる音。

誰かの笑い声。


それらは、どこか別の世界の出来事みたいだった。


悠馬はペンを動かす。


ノートには文字が並ぶ。


でも、頭の中では別のことを考えていた。


――高校。


その言葉は、まだ自分の中に馴染んでいない。


新しい場所。

新しい生活。


そういうものに対して、期待を持つことが出来ない。


期待というものは、裏切られる可能性がある。


だから、最初から持たない方が楽だ。


悠馬はそう考えるようになっていた。


それは、小学生の頃からだ。


あの日から。


教室の隣で、小倉那奈が小さく欠伸をした。


「ねむい」


小さな声だった。


悠馬は横を見る。


那奈は頬杖をついていた。


ノートは開いているが、ほとんど書かれていない。


悠馬は小さく言った。


「聞いてないだろ」


那奈は笑う。


「半分」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は言った。


「悠馬くんは?」


悠馬はノートを見る。


「聞いてる」


那奈は少し目を細めた。


「真面目」


悠馬は答える。


「普通」


那奈は笑った。


「また普通」


授業はそのまま続いた。


窓から入る春の光は、少しずつ色を変えていく。


午後の光は、朝よりも柔らかい。


それが教室の空気を、どこか眠くさせていた。


やがて、最後のチャイムが鳴った。


その瞬間、教室の空気がほどける。


椅子を引く音。

鞄を閉じる音。

「帰ろう」という声。


一日の終わりだった。


悠馬はゆっくり立ち上がる。


ノートを閉じ、鞄に入れる。


特に急ぐ理由はない。


部活にも入っていない。


誰かと約束もない。


ただ、帰るだけだ。


教室のドアに向かう。


そのときだった。


「悠馬くん」


後ろから声がした。


振り向くと、小倉那奈が立っていた。


「……何」


那奈は鞄を肩にかけながら言った。


「帰る?」


悠馬は頷く。


「そう」


那奈は言う。


「一緒に帰ろ」


悠馬は少しだけ考える。


断る理由はない。


でも、特別に一緒に帰る必要もない。


悠馬は答える。


「別にいい」


那奈は笑った。


「よかった」


その笑顔は、昼休みと同じだった。


明るい。


教室を出る。


廊下には、生徒たちが流れていた。


部活に向かう者。

友達と話しながら歩く者。


その中を、二人で歩く。


階段を降りる。


靴箱に向かう。


那奈は言った。


「悠馬くん」


「……」


「今日どうだった?」


悠馬は少し考える。


高校初日。


特別なことは何もない。


ただ授業があって、昼休みがあって、帰る。


それだけだ。


悠馬は言う。


「普通」


那奈は笑った。


「普通好きだね」


悠馬は答える。


「楽」


那奈は靴を履きながら言った。


「私は」


少し間を置く。


「楽しい」


悠馬は那奈を見る。


那奈は校庭を見ていた。


夕方の光が、グラウンドを少しオレンジ色に染めている。


那奈は言う。


「新しい学校」


「新しい人」


「なんかいい」


悠馬はその言葉を聞きながら思う。


人によって、世界の見え方は違う。


同じ場所にいても。


同じ景色を見ても。


感じるものは違う。


悠馬には、この学校はただの場所だ。


でも那奈には、少し特別に見えている。


それが不思議だった。


校門を出る。


夕方の空は広かった。


オレンジ色と青が混ざっている。


那奈は言った。


「悠馬くん」


「……」


「どっち?」


悠馬は指をさす。


「駅」


那奈は笑った。


「同じ」


二人で歩き出す。


帰り道は、朝よりも静かだった。


部活の声が遠くで聞こえる。


犬の鳴き声。


自転車の音。


住宅街の道。


那奈は歩きながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「静かだよね」


悠馬は言う。


「昼も言った」


那奈は笑う。


「でも」


少し間を置く。


「嫌いじゃない」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


「何が」


那奈は言った。


「悠馬くん」


悠馬は何も言わない。


那奈は続ける。


「なんか落ち着く」


その言葉は、少し意外だった。


悠馬はあまり人を落ち着かせるタイプではない。


むしろ、距離を作る人間だ。


悠馬は言う。


「話してない」


那奈は笑った。


「だから」


悠馬は意味が分からなかった。


那奈は空を見上げた。


「静かな人好き」


その言葉は、春の風みたいに軽かった。


二人で歩く。


駅が近づいてくる。


人の数も少し増えてきた。


那奈は言った。


「悠馬くん」


「……」


「また明日」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は改札の前で止まる。


「じゃ」


小さく手を振る。


そのまま改札を通った。


悠馬はその背中を少し見ていた。


小倉那奈。


隣の席の女子。


明るい人。


それ以上のことは、まだ分からない。


でも。


今日一日で分かったことが一つある。


この人は。


きっと、静かな日常を少しだけ騒がしくする。


悠馬は改札に向かった。


夕方の空は、もう少しだけ暗くなっていた。


高校生活の一日目は、静かに終わった。


でも。


それは、本当の始まりだった。



第二章 少しずつ変わる日常


高校生活というものは、思ったよりも早く形を持つ。


最初の数日は、どこか仮の時間みたいだった。


誰もが遠慮している。

誰もが距離を測っている。


でも一週間もすれば、それは少しずつ崩れていく。


グループが出来る。

いつも一緒にいる人が決まる。


教室の空気が、ゆっくり固定されていく。


古賀悠馬は、窓際の席でそれを眺めていた。


四月の朝の光が、教室の床に広がっている。


春の空は高い。


雲はゆっくり流れていた。


悠馬は頬杖をついて、その空を見ていた。


チャイムが鳴る。


朝のホームルームが始まる。


担任の佐々木が教室に入ってきた。


「おはよう」


生徒たちが答える。


「おはようございます」


その声は、入学式の日よりも少し大きくなっていた。


クラスは、もう「クラスらしく」なってきている。


悠馬はそれを少し遠くから見ていた。


自分の席は、相変わらず窓際だった。


隣の席には、小倉那奈がいる。


「悠馬くん」


朝から声がした。


悠馬は横を見る。


那奈が机に肘をついていた。


「……何」


那奈は言う。


「ねむい」


悠馬は少しだけ息を吐く。


「毎日言ってる」


那奈は笑った。


「毎日眠い」


悠馬は窓の外を見る。


那奈は続ける。


「悠馬くんってさ」


「……」


「朝強い?」


悠馬は答える。


「普通」


那奈は笑う。


「また普通」


このやり取りは、最近増えていた。


那奈はよく話しかけてくる。


授業の前。

昼休み。

帰り道。


最初は少し戸惑った。


でも、今は少し慣れてきている。


那奈の話し方は軽い。


無理に距離を詰めてくるわけでもない。


でも、気づくと隣にいる。


そんな感じだった。


授業が始まる。


数学だった。


教師が黒板に式を書いていく。


悠馬はノートを取る。


横を見ると、那奈はぼんやりしていた。


ペンは動いていない。


悠馬は小さく言った。


「書かないの」


那奈は小さく答える。


「あとで」


悠馬は言う。


「忘れる」


那奈は笑った。


「そのときは」


少し間を置く。


「見せて」


悠馬は言う。


「断る」


那奈は少し笑った。


「冷たい」


でも、その顔は楽しそうだった。


昼休み。


教室はいつものように賑やかだった。


悠馬は弁当を取り出す。


父が作った弁当。


卵焼き。

ウインナー。

唐揚げ。


那奈はそれを見て言った。


「また美味しそう」


悠馬は答える。


「普通」


那奈は笑った。


「普通じゃない」


机を少し寄せる。


「今日も一緒でいい?」


悠馬は言う。


「もう座ってる」


那奈は笑った。


最近、昼休みはだいたいこうなっている。


那奈が隣で弁当を食べる。


それだけのことだ。


でも、それが少しずつ当たり前になってきている。


那奈は言った。


「悠馬くん」


「……」


「部活入る?」


悠馬は首を横に振る。


「入らない」


那奈は言う。


「なんで」


悠馬は少し考える。


理由は色々ある。


でも、簡単な言葉で言うなら。


「面倒」


那奈は笑った。


「正直」


悠馬は弁当を食べる。


那奈は言う。


「私は」


少し間を置く。


「まだ迷ってる」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は言った。


「帰宅部」


悠馬は少しだけ笑いそうになった。


那奈は言う。


「だって」


「……」


「帰るの好き」


悠馬は言う。


「変」


那奈は笑った。


「そう?」


悠馬は窓の外を見る。


昼の光が、校庭に広がっている。


那奈は弁当を食べながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「帰り」


少し間を置く。


「今日も一緒?」


悠馬は答える。


「別にいい」


那奈は小さく笑った。


その笑い声は、どこか安心する音だった。


悠馬は思う。


高校生活というものは、こうやって出来ていくのかもしれない。


特別なことはない。


ただ、少しずつ同じ時間を過ごす人が増える。


それだけだ。


でも。


その「それだけ」が。


人生を変えることもある。


悠馬はまだ、それを知らなかった。



午後の授業が終わる頃には、教室の空気はすっかり落ち着いていた。


入学してまだ一週間ほどしか経っていない。


それでも、人間というのは不思議なもので。

ほんの数日で「いつもの場所」が出来始める。


教室の後ろには、いつも笑っている男子のグループが出来ていた。

窓際では女子が机を寄せて話している。


誰と誰が仲が良いのか。

誰がどんな人間なのか。


そういうものが、ゆっくり形になっていく。


古賀悠馬は、相変わらず窓際の席に座っていた。


隣には、小倉那奈がいる。


それも、もう当たり前になりつつあった。


チャイムが鳴る。


最後の授業が終わった。


教室の空気がほどける。


鞄を閉じる音。

椅子を引く音。

「帰ろう」という声。


悠馬はノートを鞄にしまう。


特に急ぐ理由はない。


部活にも入っていない。


帰って、夕飯を食べて、少し勉強して、寝る。


それが今の生活だった。


「悠馬くん」


声がした。


横を見ると、那奈がこちらを見ていた。


「……何」


那奈は机の上でペンを回しながら言った。


「LINE」


悠馬は少しだけ首を傾げる。


「何」


那奈は言う。


「交換しよ」


悠馬は少し考える。


特に断る理由はない。


でも、特別に必要なものでもない。


悠馬は言った。


「別にいいけど」


那奈は笑った。


「やった」


スマートフォンを取り出す。


ケースは透明だった。


悠馬もポケットからスマートフォンを出す。


二人でQRコードを読み取る。


それだけの作業だった。


でも、その瞬間。


那奈は少し嬉しそうだった。


「これで」


「……」


「連絡できる」


悠馬は言う。


「学校で会う」


那奈は笑った。


「夜も」


悠馬は答える。


「用事ない」


那奈は少しだけ考えた。


そして言った。


「じゃあ」


少し笑う。


「用事作る」


悠馬はその言葉の意味がよく分からなかった。


スマートフォンが震える。


那奈からメッセージが来た。


那奈:よろしくー


悠馬は短く返す。


悠馬:うん


那奈はその画面を見て言った。


「短い」


悠馬は答える。


「必要ない」


那奈は笑った。


「悠馬くんって」


「……」


「ほんと静か」


悠馬は鞄を肩にかける。


「帰る」


那奈はすぐに立ち上がる。


「私も」


教室を出る。


廊下には生徒が流れていた。


部活に向かう人。

友達と話しながら歩く人。


その中を、二人で歩く。


階段を降りる。


那奈は言った。


「悠馬くん」


「……」


「LINEさ」


悠馬は答える。


「何」


那奈は言う。


「夜送る」


悠馬は少しだけ考える。


「何を」


那奈は笑った。


「分からない」


悠馬は答える。


「意味ない」


那奈は楽しそうに言った。


「意味ないの好き」


靴箱に着く。


靴を履き替える。


校庭は夕方の光に染まっていた。


グラウンドではサッカー部が走っている。


掛け声が響く。


那奈は校門の方を見ながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「なんでそんな静かなの?」


悠馬は少し考える。


その質問は、時々される。


でも、答えはいつも同じだ。


「別に」


那奈は笑った。


「それ答えになってない」


悠馬は校門を出る。


那奈も横に並ぶ。


帰り道は、もう自然に二人になっていた。


那奈は言う。


「私さ」


「……」


「静かな人好き」


悠馬は少しだけ眉を動かす。


「変」


那奈は言った。


「なんで?」


悠馬は少し考える。


静かな人を好きだと言う人はあまりいない。


普通は、明るい人を好む。


話が面白い人。


場を盛り上げる人。


そういう人が好かれる。


那奈は空を見ながら言った。


「落ち着く」


悠馬は言う。


「話してない」


那奈は笑う。


「だから」


その意味は、悠馬にはよく分からなかった。


駅が近づいてくる。


人の数も増えてくる。


那奈は改札の前で止まる。


「悠馬くん」


「……」


「LINE送るから」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は笑った。


「楽しみにしてて」


そう言って、改札を通る。


悠馬はその背中を見ていた。


楽しみにしてて。


その言葉が、少しだけ頭に残る。


悠馬は、何かを楽しみにすることがあまりない。


期待は、裏切られる可能性がある。


だから最初から持たない。


でも。


スマートフォンが震えた。


画面を見る。


那奈からメッセージだった。


那奈:今送った


悠馬は少しだけ驚く。


改札を通ってすぐだ。


画面を開く。


そこには短い文章があった。


那奈:今日もおつかれ


悠馬はしばらくその画面を見ていた。


ただそれだけの言葉だった。


でも。


それは、悠馬の生活にはあまりなかった言葉だった。


悠馬はゆっくり文字を打つ。


悠馬:おつかれ


送信する。


そのあと、スマートフォンをポケットにしまう。


駅のホームに立つ。


夕方の空は、少し暗くなり始めていた。


電車が来る音が聞こえる。


悠馬は思う。


高校生活は、たぶんこんなふうに進んでいく。


少しずつ、日常が増えていく。


少しずつ、人が増えていく。


そこに不安と心地よさを感じていた。


春の夕方は、どこか柔らかい。


昼の光よりも少し落ち着いていて、街の色をやさしく包み込む。


学校のチャイムが鳴り、放課後の時間が始まる頃。

校庭には、部活動の声が響いていた。


サッカー部の掛け声。

バスケットボールが床を叩く音。

遠くで誰かが笑っている声。


それらはすべて、どこか青春らしい音だった。


古賀悠馬は校門を出て、駅の方向へ歩いていた。


部活に入っていない悠馬にとって、放課後はいつも同じだった。


ただ帰るだけ。


寄り道をすることも、誰かと遊ぶこともほとんどない。


帰って、夕飯を食べて、少し勉強をして、寝る。


それが今の生活だった。


「悠馬くん」


後ろから声がした。


振り返ると、小倉那奈が走ってきていた。


少し息を切らしている。


「……何」


那奈は笑った。


「帰る?」


悠馬は言う。


「そう」


那奈は言った。


「コンビニ寄ろ」


悠馬は少しだけ立ち止まる。


コンビニ。


特別な場所ではない。


でも、悠馬はあまり寄る習慣がなかった。


那奈は続ける。


「アイス食べたい」


悠馬は言う。


「寒い」


那奈は笑う。


「春」


悠馬は少し考える。


断る理由はない。


悠馬は答える。


「別にいい」


那奈は嬉しそうに笑った。


「やった」


二人で歩く。


住宅街の道。


学校から駅へ向かう途中に、小さなコンビニがある。


青い看板の、どこにでもある店だった。


店に入ると、冷たい空気が流れてきた。


蛍光灯の光。


棚に並ぶ商品。


電子レンジの音。


すべてが、いつものコンビニだった。


那奈は迷わずアイスコーナーに向かった。


「どれにしよ」


ケースの前でしゃがむ。


悠馬は後ろから見ていた。


那奈は真剣な顔をしていた。


まるで重要な決断でもしているみたいに。


悠馬は少しだけ思う。


この人は、本当に感情が分かりやすい。


楽しいときは、ちゃんと楽しそうにする。


それは、少し羨ましいことだった。


那奈は振り返る。


「悠馬くん」


「……」


「どれがいいと思う?」


悠馬はケースを見る。


バニラ。

チョコ。

ストロベリー。


悠馬は言う。


「どれでも」


那奈は笑った。


「またそれ」


少し考えてから、バニラアイスを取る。


「これ」


悠馬は何も買わなかった。


レジで会計をする。


那奈は外に出て、すぐに袋を開けた。


「いただきます」


アイスを一口食べる。


「おいしい」


悠馬はその様子を見ていた。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「ほんと何も買わないんだね」


悠馬は答える。


「必要ない」


那奈は少し考えた。


「必要なくても」


「……」


「買うことあるよ」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は笑った。


「意味ないの好きって言ったじゃん」


二人で歩く。


夕方の空は、少しずつオレンジ色に変わっていた。


那奈はアイスを食べながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「趣味ある?」


悠馬は少し考える。


趣味。


その言葉は、あまり自分の生活には出てこない。


悠馬は答える。


「筋トレ」


那奈は驚いた。


「え」


悠馬は言う。


「家で」


那奈は笑った。


「意外」


悠馬は言う。


「そう」


那奈は続ける。


「なんで?」


悠馬は少しだけ考える。


理由はある。


でも、それを言う必要はない。


悠馬は言った。


「なんとなく」


那奈は少しだけ悠馬を見た。


その視線は、少し長かった。


でもすぐに笑った。


「そっか」


アイスをもう一口食べる。


那奈は言う。


「私は」


「……」


「音楽」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は答える。


「色々」


悠馬は言う。


「雑」


那奈は笑った。


「いいじゃん」


歩きながら、那奈は空を見上げた。


夕焼けが広がっている。


那奈は小さく言った。


「こういう時間好き」


悠馬は聞く。


「何が」


那奈は言う。


「帰り道」


「コンビニ」


「夕焼け」


少し笑う。


「普通の日」


悠馬はその言葉を聞いて思う。


普通の日。


その言葉は、悠馬には少し遠い。


普通というものが、どこから始まるのか分からないからだ。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「また寄ろ」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は笑った。


「意味ないから」


その言葉は、軽かった。


でも、どこか温かかった。


二人で歩く。


駅が近づいてくる。


夕方の空は、もう少し暗くなっていた。


悠馬は思う。


今まで、帰り道はただの移動だった。


学校から家までの時間。


それだけだった。


でも。


最近は少し違う。


隣に人がいる。


少し話す。


それだけのこと。


でも、それは。


少しだけ世界の色を変える。


悠馬はまだ、それを認めてはいない。


でも。


確実に、何かが変わり始めていた。


コンビニを出たあと、二人は駅へ向かって歩いていた。


春の夕方は、少しだけ長い。


昼の明るさがゆっくり溶けて、空がオレンジ色に変わっていく。


住宅街の屋根が、柔らかい光に染まっていた。


遠くで犬が吠える声が聞こえる。


自転車が通り過ぎる音。


どこにでもある帰り道。


それでも、今日は少しだけ違っていた。


那奈はアイスを食べ終えて、棒を袋にしまった。


「おいしかった」


悠馬は言う。


「よかったな」


那奈は笑った。


「悠馬くん」


「……」


「ほんと淡白」


悠馬は少し考える。


淡白。


そう言われることは、たまにある。


悠馬は答える。


「普通」


那奈は吹き出した。


「またそれ」


二人の間に、少し沈黙が流れる。


でも、その沈黙は重くない。


むしろ自然だった。


歩く音だけが、静かな住宅街に響く。


那奈は空を見上げた。


「きれい」


悠馬も空を見る。


夕焼けが広がっていた。


雲が赤く染まっている。


那奈は言う。


「この時間好き」


悠馬は聞く。


「なんで」


那奈は少し考えた。


「終わる感じ」


悠馬は意味が分からなかった。


那奈は続ける。


「一日が終わる感じ」


「……」


「ちょっと安心する」


悠馬はその言葉を聞きながら思う。


一日が終わる。


その感覚は、悠馬にもある。


ただ、それは安心というより。


どちらかというと、安堵だった。


何も起きなかった一日。


それが終わることへの安堵。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「帰ったら何するの?」


悠馬は答える。


「ご飯」


「……」


「勉強」


那奈は笑った。


「真面目」


悠馬は言う。


「普通」


那奈はまた笑った。


「ほんと普通好き」


少し間が空く。


那奈は言う。


「LINEする」


悠馬は聞く。


「何を」


那奈は少し考えてから言った。


「今日のこと」


悠馬は言う。


「今話してる」


那奈は笑う。


「夜は夜」


その言葉は、どこか楽しそうだった。


駅が近づいてくる。


人の数も増えてきた。


改札が見える。


那奈は少しだけ歩く速度を落とした。


「悠馬くん」


「……」


「さっきの」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は言う。


「筋トレ」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は少しだけ考えてから言った。


「なんか理由ありそう」


悠馬の足が、ほんの少しだけ止まりかけた。


でも、すぐに歩き続ける。


悠馬は言う。


「ない」


那奈は悠馬を見る。


その視線は、少し長かった。


でも、それ以上は聞かなかった。


ただ、小さく笑った。


「そっか」


改札の前に着く。


那奈は立ち止まる。


「じゃ」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は改札を通る前に言った。


「悠馬くん」


「……」


「またコンビニ行こ」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は笑った。


「意味ないの好き」


そう言って、改札を通った。


悠馬はその背中を少し見ていた。


小倉那奈。


明るい人。


よく笑う人。


よく話す人。


悠馬とは、正反対の人。


それでも。


最近、その存在が少しだけ気になる。


悠馬は自分のポケットの中のスマートフォンを取り出した。


画面を見る。


那奈からメッセージが届いていた。


那奈:今日はコンビニありがとう


悠馬は少しだけ考える。


ありがとう。


その言葉は、少しだけ不思議だった。


悠馬は特に何もしていない。


でも。


那奈はありがとうと言う。


悠馬は返信を打つ。


悠馬:何もしてない


送信する。


数秒後。


返信が来る。


那奈:一緒にいた


悠馬はその文字を見て、少しだけ止まった。


一緒にいた。


それだけのこと。


でも。


その言葉は、どこか温かかった。


悠馬はスマートフォンをしまう。


電車がホームに入ってくる音が聞こえた。


悠馬は思う。


高校生活は、たぶんこうやって進んでいく。


特別なことはない。


大きな事件もない。


ただ、少しずつ同じ時間を過ごす人が増えていく。


その中で。


隣の席の少女が。


少しずつ、自分の世界に入ってきている。


悠馬はまだ、それを認めてはいない。


でも。


確かに思った。


――少し、楽しいかもしれない。


その感情は、とても小さかった。


でも確かに、そこにあった。


そして。


その小さな感情が。


やがて悠馬の人生を、大きく揺らすことになる。


このときの悠馬は、まだ知らなかった。



第三章 明るい人の影


高校生活は、思っていたよりも静かに続いていた。


特別な事件が起きるわけでもない。

大きな出来事があるわけでもない。


ただ、毎日同じような時間が流れていく。


朝、学校に行く。

授業を受ける。

昼休みに弁当を食べる。


そして、帰る。


その繰り返し。


でも、人間というのは不思議なもので。


同じ時間を何度も過ごしていると、

その中に小さな変化が生まれてくる。


古賀悠馬の生活にも、少しずつ変化があった。


一つは。


隣の席の、小倉那奈だった。


朝の教室。


春の光が窓から入っている。


教室の空気は、もう完全に落ち着いていた。


クラスの中には、いつものグループが出来ている。


前の席では男子がゲームの話をしていた。

後ろでは女子が昨日のドラマの話をしている。


そんな中で。


悠馬はいつもの席に座っていた。


窓際。


三列目。


そして。


隣には、那奈。


「悠馬くん」


朝から声がした。


悠馬は少しだけ顔を向ける。


那奈は机に頬をつけていた。


「……何」


那奈は言う。


「眠い」


悠馬は言う。


「毎日」


那奈は笑った。


「毎日眠い」


悠馬は窓の外を見る。


空は青かった。


雲がゆっくり流れている。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「LINE見た?」


悠馬は答える。


「見た」


那奈は笑う。


「返信遅い」


悠馬は言う。


「寝てた」


那奈は言う。


「嘘」


悠馬は答える。


「本当」


那奈は少し笑った。


「まあいいや」


そのやり取りも、最近は当たり前になっていた。


那奈はよくLINEを送ってくる。


特別な内容ではない。


「おはよう」

「眠い」

「今日暑い」


そういう、意味のないメッセージ。


でも。


悠馬は全部返信していた。


短い言葉で。


それでも。


続いていた。


昼休み。


いつものように弁当を広げる。


悠馬の弁当は、いつも同じだった。


父が作ったもの。


卵焼き。

ウインナー。

唐揚げ。


那奈はそれを見ると、毎回同じことを言う。


「美味しそう」


悠馬は言う。


「普通」


那奈は笑う。


「普通じゃない」


机を寄せる。


それも、もう習慣だった。


「いただきます」


那奈は弁当を食べ始める。


今日はハンバーグだった。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「今日体育ある」


悠馬は頷く。


「知ってる」


那奈は顔をしかめた。


「バスケ」


悠馬は言う。


「嫌い」


那奈は言う。


「苦手」


悠馬は少しだけ思う。


那奈は明るい。


よく笑う。


よく話す。


でも。


運動が苦手だった。


それは、少し意外だった。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「助けて」


悠馬は答える。


「無理」


那奈は笑った。


「冷たい」


そのときだった。


教室の後ろから声がした。


「那奈」


那奈が振り向く。


そこに立っていたのは、高田麗奈だった。


落ち着いた雰囲気の女子。


那奈の中学の友達。


麗奈は言った。


「今日一緒に帰る?」


那奈は少し考えた。


「今日は」


悠馬を見る。


「悠馬くんと」


麗奈は悠馬を見る。


少しだけ微笑んだ。


「そっか」


それ以上は何も言わなかった。


ただ、小さく手を振って自分の席に戻る。


那奈は弁当を食べながら言った。


「麗奈さ」


「……」


「優しい」


悠馬は頷く。


那奈は言う。


「中学のとき」


少し間を置く。


「よく助けてくれた」


悠馬は聞く。


「何を」


那奈は少しだけ笑った。


「色々」


その言い方は、軽かった。


でも。


悠馬はほんの少しだけ違和感を覚えた。


色々。


その言葉の奥に、何かがある気がした。


悠馬は言う。


「仲いいんだな」


那奈は頷く。


「うん」


それから少しだけ言葉を止めた。


そして。


静かに言った。


「私さ」


悠馬は顔を向ける。


那奈は弁当を見ながら言った。


「中学」


「……」


「一年くらい学校行ってなかった」


悠馬の手が止まった。


那奈は言う。


「来てない時期あった」


その言葉は、軽かった。


でも。


教室の空気とは、少しだけ違う温度だった。


悠馬は聞く。


「なんで」


那奈は少し笑った。


「色々」


またその言葉だった。


色々。


それ以上、説明する気はないらしかった。


悠馬はそれ以上聞かなかった。


人には触れてほしくない時間がある。


それは悠馬も知っている。


だから。


何も言わない。


那奈は言う。


「でも」


「……」


「今は元気」


そして笑った。


その笑顔は、いつもの那奈だった。


明るくて。


軽くて。


太陽みたいな笑顔。


でも。


悠馬は思った。


人の笑顔というものは。


時々、隠すために使われることがある。


そのことを。


悠馬は知っていた。


その日の午後。


体育館でバスケットボールが始まる。


ボールの音が響く。


生徒たちの声。


那奈はコートの端で困っていた。


ドリブルが出来ない。


パスも少し遅い。


それでも。


笑っていた。


「難しい」


悠馬は少しだけ思う。


この人は。


どうしてこんなに明るいのだろう。


人は普通。


少し壊れる。


少し疲れる。


でも。


那奈は、ずっと笑っている。


それが少しだけ、不思議だった。




体育の授業が終わったあと、教室には少し湿った空気が残っていた。


春とはいえ、体育館の中はまだ少し暑い。


制服に着替えて席に戻ると、窓から入る風が心地よかった。


古賀悠馬は椅子に座り、机に肘をつく。


外では、運動部の声が聞こえていた。


ボールが地面を叩く音。

遠くで誰かが笑う声。


それらはすべて、どこか遠い場所の音みたいだった。


隣の席では、小倉那奈が髪を結び直していた。


「つかれた」


小さく言う。


悠馬は横を見る。


「運動してた」


那奈は笑った。


「バスケ苦手」


悠馬は言う。


「見てた」


那奈は少しだけ顔をしかめた。


「下手だった?」


悠馬は答える。


「普通」


那奈は笑う。


「悠馬くんの普通は信用できない」


そのときだった。


スマートフォンの振動音が教室のどこかで鳴る。


放課後まで、あと少し。


教室の空気はすっかり緩んでいた。


那奈は机に頬をつけながら言う。


「悠馬くん」


「……」


「さっきの話」


悠馬は少しだけ顔を向ける。


那奈は言った。


「中学」


悠馬は黙っている。


那奈は窓の外を見ながら言った。


「一年くらい」


「学校行ってなかった」


その言葉は、昼休みにも聞いたものだった。


でも、今は少し違う温度だった。


教室には他の生徒がいる。


でも、那奈の声はどこか静かだった。


悠馬は聞く。


「病気?」


那奈は少しだけ驚いた顔をした。


それから、笑った。


「半分正解」


悠馬は何も言わない。


那奈は言う。


「私じゃない」


「……」


「母」


悠馬の心臓が、ほんの少しだけ動いた。


母。


その言葉は、悠馬の中で特別な意味を持つ。


那奈は続ける。


「うつ病」


教室の空気は変わらない。


誰かが笑っている。

誰かがスマートフォンを見ている。


でも。


その言葉は、悠馬の中で静かに響いた。


うつ病。


その言葉は、悠馬の過去と重なっていた。


那奈は机の上の消しゴムを指で転がしながら言った。


「父がさ」


「……」


「死んだあと」


悠馬は少しだけ目を動かす。


那奈は言う。


「急に」


「母が壊れた」


その言葉は、軽く言われた。


でも。


悠馬には、その重さが分かった。


那奈は続ける。


「最初は」


「ただ元気ないだけだった」


「でも」


少し間を置く。


「だんだん変になって」


悠馬は何も言わない。


那奈は笑った。


「ご飯作らなくなって」


「泣いてばっかりで」


「部屋から出なくなって」


悠馬の胸の奥で、何かが動く。


その話は。


あまりにも、よく知っているものだった。


那奈は言う。


「だから」


「私」


「学校行けなくなった」


悠馬は窓の外を見る。


夕方の光が、校庭を少し赤くしていた。


那奈は続ける。


「家にいるとさ」


「母がずっと泣いてる」


「学校行くと」


「母が一人」


少し笑う。


「どっちも嫌だった」


悠馬は、その言葉を理解していた。


あまりにも。


那奈は言う。


「でも」


「麗奈がさ」


「よく家来てくれて」


悠馬は聞く。


「高田?」


那奈は頷く。


「うん」


少しだけ嬉しそうだった。


「いい人」


悠馬はその言葉を聞きながら思う。


人は。


壊れる。


ある日突然。


でも。


誰かがいると、少しだけ耐えられる。


それは悠馬も知っていた。


那奈はふと悠馬を見る。


「悠馬くん」


「……」


「似てるね」


悠馬は聞く。


「何が」


那奈は言う。


「私たち」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


那奈は言った。


「母」


その言葉のあと。


ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


悠馬は答えない。


答えられない。


でも。


那奈はそれ以上聞かなかった。


ただ、少しだけ笑った。


「変な共通点」


悠馬は思う。


本当に。


変な共通点だった。


そして。


それは。


これから二人の人生を、深く結びつけることになる。


でも。


そのときの悠馬は、まだ知らない。


那奈の話は、まだ終わっていないことを。


そして。


その話の先には。


もっと深い場所があることを。




放課後の教室は、昼とは違う静けさがある。


生徒の半分は部活へ向かい、

残りの半分は帰る準備をしている。


机を閉じる音。

椅子を引く音。

遠くで聞こえる笑い声。


それらが、ゆっくりと教室から外へ流れていく。


古賀悠馬は窓際の席で鞄をまとめていた。


隣では、小倉那奈が机に肘をついていた。


まだ帰る気配はない。


「悠馬くん」


那奈が言う。


「……」


「帰る?」


悠馬は答える。


「うん」


那奈は少し考えた。


それから、小さく言った。


「ちょっと話していい?」


悠馬は肩を止める。


その言葉の温度は、さっきまでの会話とは少し違った。


悠馬は言う。


「いい」


教室には、もうほとんど人がいなかった。


夕方の光が窓から差し込んでいる。


春の光はやわらかい。


でも。


その時間は、どこか少しだけ寂しい。


那奈は窓の外を見ながら言った。


「さっき言ったじゃん」


「……」


「母がうつ病って」


悠馬は頷く。


那奈は続ける。


「実はさ」


少し間を置く。


「私も入院してた」


悠馬の視線が、少しだけ動く。


那奈は言う。


「精神病院」


その言葉は、静かだった。


でも。


その重さは、十分に伝わる。


悠馬は何も言わない。


那奈は笑った。


「びっくりした?」


悠馬は答える。


「少し」


那奈は机の上の消しゴムを転がした。


「私さ」


「……」


「中学のとき」


「結構壊れてた」


その言い方は、冗談みたいだった。


でも。


悠馬には分かる。


冗談ではない。


那奈は言う。


「母がどんどん変になって」


「家がめちゃくちゃになって」


「学校も行けなくなって」


少し笑う。


「私もおかしくなった」


悠馬は窓の外を見る。


校庭には、もう人がほとんどいない。


夕方の光が、グラウンドを赤く染めていた。


那奈は言う。


「最初は」


「ただ泣いてるだけだった」


「でも」


少し間を置く。


「ある日」


那奈の声が少しだけ静かになった。


「外出られなくなった」


悠馬の胸の奥で、何かが小さく動く。


那奈は続ける。


「人が怖くなった」


「学校も」


「外も」


「全部」


悠馬はその言葉を聞きながら思う。


それは。


壊れ方の一つだった。


人は壊れると、外に出られなくなる。


悠馬は知っていた。


母がそうだったからだ。


那奈は言う。


「だから」


「病院」


悠馬は小さく聞く。


「一人?」


那奈は首を横に振った。


「母と」


その言葉に、悠馬は少しだけ目を動かす。


那奈は言う。


「母も」


「そのとき入院してた」


悠馬は言葉を探す。


でも、見つからない。


那奈は言った。


「精神病院ってさ」


少し笑う。


「思ったより普通」


悠馬は聞く。


「そう」


那奈は頷く。


「白い廊下」


「静か」


「変な匂い」


悠馬の胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


白い廊下。


その言葉に、何かが引っかかった。


那奈は続ける。


「待合室があって」


悠馬の呼吸が、少しだけ浅くなる。


待合室。


那奈は言う。


「そこで」


少し笑った。


「知らない男の子と話したことある」


その瞬間。


悠馬の頭の奥で、何かが揺れた。


ほんの一瞬。


ぼんやりした映像が浮かぶ。


白い壁。


硬い椅子。


静かな空気。


そして。


誰か。


悠馬はその感覚を振り払う。


ただの偶然だ。


那奈は言う。


「その子」


「……」


「静かな子だった」


悠馬の胸の奥で、何かが小さく動いた。


那奈は笑う。


「悠馬くんみたい」


悠馬は言う。


「違う」


那奈は言った。


「似てる」


その言葉は軽かった。


でも。


悠馬の頭の中では、さっきの映像がまだ残っていた。


白い廊下。


待合室。


そして。


泣いている誰か。


悠馬は思う。


それは。


どこかで見た景色だった。


でも。


まだ思い出せない。


記憶の奥に、何かがある。


でも。


それはまだ、はっきりした形を持っていない。


那奈は言った。


「その子さ」


少し間を置く。


「優しかった」


悠馬は黙っている。


那奈は続ける。


「私が泣いてたら」


「話しかけてくれて」


「大丈夫って」


夕方の光が、教室を赤く染めていた。


那奈は笑った。


「名前も知らないけど」


「覚えてる」


悠馬の胸の奥で、何かが動く。


それは。


まだ小さい。


でも確かに。


記憶が、少しだけ揺れ始めていた。





教室には、夕方の光だけが残っていた。


窓から入る光は、もう昼の明るさではない。

少し赤くて、少し寂しい。


机の影が長く伸びている。


古賀悠馬は窓際の席に座ったままだった。


隣には、小倉那奈。


教室にはもう二人しかいない。


那奈は、机に頬をつけていた。


さっきから、少し遠くを見るような目をしている。


悠馬は言う。


「帰らないの」


那奈は小さく笑った。


「帰る」


でも、すぐには立ち上がらない。


那奈は言った。


「さっきの話」


「……」


「病院」


悠馬は黙っている。


那奈は窓の外を見ながら言った。


「待合室」


その言葉を聞いた瞬間。


悠馬の胸の奥で、また何かが動いた。


那奈は言う。


「白い椅子」


悠馬の呼吸が少し浅くなる。


那奈は続ける。


「人があまりいなくて」


「すごく静かで」


悠馬の頭の奥に、ぼんやりした景色が浮かぶ。


白い壁。


消毒液の匂い。


そして。


静かな空間。


那奈は言う。


「私さ」


少し笑う。


「ずっと泣いてた」


悠馬は何も言わない。


那奈は続ける。


「怖くて」


「母も変で」


「どうしたらいいか分からなくて」


那奈の声は、少しだけ小さくなっていた。


でも。


泣いてはいなかった。


むしろ、どこか懐かしい思い出を話すみたいな声だった。


那奈は言う。


「そのとき」


「……」


「隣に座ってた男の子」


悠馬の心臓が、ほんの少しだけ強く鳴る。


那奈は笑った。


「静かな子だった」


悠馬は聞く。


「……」


那奈は言う。


「でも」


少し間を置く。


「優しかった」


その言葉は、ゆっくり教室に落ちた。


那奈は言った。


「私が泣いてたら」


「話しかけてくれて」


悠馬の胸の奥で、何かが強く揺れる。


那奈は続ける。


「その子さ」


少し空を見た。


そして言った。


「こう言ったの」


悠馬は息を止める。


那奈は静かに言った。


「大丈夫だよ」


教室の空気が、少しだけ止まった。


那奈は続ける。


「生きてれば」


少し笑う。


「いいことある」


悠馬の頭の奥で。


何かが、はっきり動いた。


その言葉。


その言葉を。


悠馬は。


知っていた。


那奈は言う。


「その子」


「……」


「変なこと言うなって思った」


少し笑う。


「でも」


那奈は窓の外を見た。


夕焼けが広がっている。


那奈は言う。


「その言葉」


「ずっと覚えてる」


悠馬の胸の奥が、ゆっくり締めつけられる。


那奈は続ける。


「私さ」


「……」


「そのあと」


「少しだけ頑張れた」


教室は静かだった。


誰もいない。


夕方の光だけが、机の上を照らしている。


那奈は笑った。


「名前も知らないけど」


「顔もぼんやりだけど」


「覚えてる」


悠馬の頭の中で。


白い廊下の記憶が、少しずつ形を持ち始めていた。


静かな待合室。


泣いている女の子。


そして。


自分。


悠馬は思う。


それは。


もしかしたら。


那奈は立ち上がった。


「帰ろ」


悠馬はまだ動けなかった。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「どうしたの?」


悠馬は少しだけ首を振る。


「なんでもない」


那奈は少し不思議そうな顔をした。


でも、すぐに笑った。


「じゃ」


「コンビニ寄る?」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は笑った。


「意味ないの好き」


二人で教室を出る。


廊下には、夕方の光が広がっていた。


悠馬の頭の中では、さっきの言葉が何度も繰り返されていた。


生きてればいいことある


それは。


昔。


自分が。


誰かに言った言葉だった気がする。


でも。


まだ。


はっきり思い出せない。


ただ。


確かに。


何かが、つながり始めていた。



第四章 知っている人


四月の終わりが近づくと、春の空気は少し変わる。


入学式の頃に感じた柔らかい緊張は消え、

学校の時間はゆっくりと日常になっていく。


教室の空気も、もう完全に落ち着いていた。


朝のホームルーム前。


生徒たちはそれぞれの席で話している。


笑い声。

机を叩く音。

スマートフォンの振動。


その中で。


古賀悠馬は、いつもの窓際の席に座っていた。


隣には、小倉那奈。


そして。


少し離れた席には、高田麗奈。


麗奈は、二人の様子を静かに見ていた。


那奈はいつものように机に頬をつけている。


「悠馬くん」


「……」


「眠い」


悠馬は言う。


「毎日」


那奈は笑った。


「毎日眠い」


その会話は、最近よく聞くものだった。


麗奈はそれを見ながら思う。


――那奈、元気そうだな。


それは、安心でもあり。


少しだけ、心配でもあった。


那奈は昔から、明るい人だった。


でも。


それはいつも「本当の明るさ」ではなかった。


時々。


無理をして笑っていることがある。


それを、麗奈は知っている。


中学の頃。


那奈は、一年間学校に来なかった。


最初は、ただの噂だった。


「休んでるらしい」


「体調悪いらしい」


でも。


それは違った。


麗奈が知ったのは、夏の終わりだった。


那奈の家に行ったとき。


カーテンの閉まった部屋。


暗い空気。


そして。


那奈の母。


麗奈は、そのとき初めて知った。


――うつ病。


その言葉を。


那奈は母の隣に座っていた。


何も言わず。


ただ、静かにしていた。


あのときの那奈の顔を、麗奈は今でも覚えている。


笑っていなかった。


目が、空っぽだった。


まるで。


どこにも居場所がないみたいな顔だった。


そのあと。


那奈も入院した。


精神病院。


麗奈は一度だけ、見舞いに行ったことがある。


白い廊下。


静かな待合室。


そして。


那奈は言った。


「大丈夫」


でも。


全然大丈夫じゃなかった。


それを麗奈は知っていた。


だから。


那奈が高校に入って、笑うようになったとき。


麗奈は嬉しかった。


でも。


同時に、少し怖かった。


人は。


無理して元気になると。


突然壊れることがある。


そして。


最近。


一つ、気になることがあった。


那奈の隣の席。


古賀悠馬。


静かな男の子。


話はあまりしない。


でも。


那奈は、よく話しかけている。


楽しそうに。


麗奈はそれを見ながら思う。


――那奈、あの人のこと好きなのかな。


でも。


それはただの恋ではない気がした。


もっと、深い何か。


何か。


昔とつながっているような気がした。


そのとき。


那奈が振り向いた。


「麗奈」


麗奈は顔を上げる。


那奈は笑った。


「今日帰り」


「……」


「一緒?」


麗奈は少し考える。


そして言った。


「うん」


那奈は嬉しそうに笑った。


「やった」


悠馬はその会話を静かに聞いていた。


麗奈はふと悠馬を見る。


目が合う。


悠馬は軽く頭を下げた。


麗奈も小さく会釈する。


その瞬間。


麗奈は思った。


――この人、どこかで見たことある。


でも。


思い出せない。


ただ。


どこかで。


何かで。


会ったことがあるような気がする。


それは、とてもぼんやりした記憶だった。


でも。


確かに。


引っかかっていた。


そして。


その違和感が。


これからの出来事の中で、少しずつ形を持っていくことになる。




放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気はゆっくりほどけていく。


机を閉じる音。

鞄のファスナーの音。

「また明日」という声。


いつもの放課後だった。


古賀悠馬は鞄を肩にかけ、席を立つ。


隣では、小倉那奈がスマートフォンを見ていた。


「悠馬くん」


「……」


「今日コンビニ」


悠馬は言う。


「意味ない」


那奈は笑った。


「意味ないの好き」


そのときだった。


「那奈」


後ろから声がする。


振り返ると、高田麗奈が立っていた。


「先生呼んでた」


那奈は少し驚いた顔をした。


「え」


麗奈は言う。


「進路調査」


那奈はため息をつく。


「まだ早い」


それでも、立ち上がった。


「すぐ戻る」


そう言って教室を出ていく。


教室には、悠馬と麗奈だけが残った。


窓から夕方の光が入っている。


少しだけ静かだった。


麗奈は、少し迷うように立っていた。


悠馬は言う。


「帰らないの」


麗奈は答える。


「那奈待つ」


悠馬は頷く。


「そう」


少し沈黙が流れる。


麗奈は窓の外を見る。


それから、静かに言った。


「古賀くん」


悠馬は顔を向ける。


「……」


麗奈は言う。


「那奈と仲いいね」


悠馬は少し考える。


仲がいい。


その言葉は、少し曖昧だった。


悠馬は答える。


「普通」


麗奈は小さく笑った。


「普通好きなんだ」


悠馬は何も言わない。


麗奈は続ける。


「那奈」


少し間を置く。


「楽しそう」


悠馬は言う。


「いつも」


麗奈は小さく頷いた。


「うん」


でも。


そのあと、少しだけ言葉が止まる。


麗奈は机の端に手を置いた。


「でも」


悠馬は聞く。


「何」


麗奈は少しだけ迷った。


それから言った。


「那奈」


「……」


「中学のとき」


悠馬の視線が少し動く。


麗奈は言う。


「大変だった」


悠馬は黙っている。


麗奈は続ける。


「母親」


「うつ病」


悠馬は頷く。


「聞いた」


麗奈は少し驚いた。


「話したんだ」


悠馬は言う。


「少し」


麗奈は窓の外を見る。


夕焼けが広がっている。


麗奈は静かに言った。


「那奈さ」


「……」


「強い人じゃない」


悠馬は答える。


「そう見える」


麗奈は小さく笑った。


「うん」


少し間を置く。


「そう見える」


そして、続けた。


「でも」


麗奈の声が少し低くなる。


「本当は」


「……」


「結構ギリギリ」


悠馬は何も言わない。


麗奈は言う。


「那奈」


「母のこと」


「ずっと一人で抱えてた」


悠馬は窓の外を見る。


グラウンドにはもう誰もいない。


麗奈は続ける。


「ご飯作ったり」


「家のこと全部やって」


「母の様子見て」


「学校も行けなくなって」


悠馬の胸の奥で、何かが静かに動く。


それは。


自分の過去に似ていた。


麗奈は言う。


「それで」


「那奈も壊れた」


その言葉は、重かった。


麗奈は続ける。


「入院」


悠馬は小さく頷く。


「聞いた」


麗奈は少しだけ安心したような顔をした。


「そっか」


そして言った。


「でも」


悠馬は聞く。


「何」


麗奈は言う。


「那奈」


「……」


「古賀くんのこと」


悠馬の視線が動く。


麗奈は続ける。


「ずっと知ってた」


悠馬の心臓が、ほんの少し強く鳴る。


麗奈は言った。


「那奈」


「病院で」


「古賀くんのお母さんに会ってる」


その言葉は。


静かだった。


でも。


悠馬の世界を、ほんの少し揺らした。


麗奈は続ける。


「だから」


「……」


「知ってた」


悠馬は言う。


「何を」


麗奈は答える。


「名前」


「顔」


「高校」


悠馬の頭の中で、何かがつながり始める。


麗奈は言った。


「那奈」


少し笑った。


「会いたかったんだと思う」


教室のドアが開いた。


「ただいま」


那奈が戻ってきた。


麗奈はそれ以上何も言わなかった。


ただ、いつもの顔に戻る。


那奈は言う。


「長かった」


そして悠馬を見る。


「帰ろ」


悠馬は頷く。


でも。


頭の中では、さっきの言葉が残っていた。


那奈は、ずっと知っていた。


その意味を。


悠馬はまだ、完全には理解していなかった。



教室を出ると、廊下には夕方の光が伸びていた。


春の終わりの光は、少し柔らかくて少し寂しい。


窓から見える校庭は、もう静かだった。

部活動の声だけが遠くで響いている。


古賀悠馬、小倉那奈、高田麗奈の三人は並んで歩いていた。


那奈が先頭だった。


「お腹すいた」


振り向きながら言う。


悠馬は言う。


「コンビニ」


那奈は笑った。


「行く」


麗奈も小さく笑った。


「結局」


三人で校門を出る。


住宅街の道を歩く。


夕焼けが街を赤く染めていた。


那奈はいつものように話している。


今日の授業のこと。

体育のこと。

先生のこと。


楽しそうだった。


その様子を、麗奈は横から見ていた。


――那奈、ほんと元気になったな。


中学の頃の那奈を知っている麗奈にとって。


この姿は、少し奇跡みたいなものだった。


あの頃の那奈は、ほとんど笑わなかった。


部屋に閉じこもっていた。


声も小さくなっていた。


でも。


今は違う。


よく笑う。


よく話す。


そして。


悠馬の隣にいるとき、特に楽しそうだった。


那奈はコンビニの前で立ち止まる。


「アイス」


悠馬は言う。


「また」


那奈は笑う。


「好き」


店に入る。


冷たい空気が流れてくる。


蛍光灯の光。


いつものコンビニだった。


那奈はアイスコーナーの前でしゃがむ。


「どれにしよ」


真剣な顔だった。


悠馬は少し離れて棚を見ていた。


麗奈はその二人を見ていた。


――那奈。


本当に。


会いたかったんだね。


麗奈は知っている。


那奈が、何度も言っていたことを。


「あの子に会いたい」


精神病院の白い廊下。


待合室の硬い椅子。


那奈はそこに座って、ずっと泣いていた。


そのとき。


隣に座っていた男の子。


静かな男の子。


でも。


優しかった男の子。


その子が言った言葉。


「生きてればいいことある」


那奈は、その言葉を何度も思い出していた。


苦しいとき。


泣きたいとき。


逃げたくなったとき。


その言葉を思い出していた。


そして。


退院したあと。


那奈は一つのことを決めた。


――あの子に、もう一度会いたい。


名前は知らない。


でも。


覚えているものがある。


顔。


声。


そして。


名字。


古賀。


それは。


那奈が病院で聞いた名前だった。


古賀美紀。


悠馬の母。


那奈は、その名前を覚えていた。


だから。


高校を選んだ。


同じ町の高校。


もしかしたら。


会えるかもしれない。


その可能性だけで、進学先を決めた。


そして。


入学式の日。


教室で。


那奈は見つけた。


窓際の席。


静かに座っている男の子。


那奈はすぐに分かった。


――あの子だ。


顔は少し変わっていた。


背も伸びていた。


でも。


目は同じだった。


静かな目。


優しい目。


那奈は、迷わず話しかけた。


「古賀悠馬くん?」


あの日。


待合室で会った男の子。


その人が。


目の前にいた。


那奈はアイスを手に取りながら言う。


「バニラ」


悠馬は言う。


「毎回」


那奈は笑った。


「好き」


レジに並ぶ。


外に出る。


夕焼けが広がっていた。


那奈はアイスを食べながら言った。


「悠馬くん」


「……」


「覚えてる?」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は少し笑った。


「なんでもない」


その言葉は、軽かった。


でも。


那奈の胸の中には、ずっと同じ気持ちがあった。


――ありがとう。


あの日。


あの言葉をくれて。


あの日。


あの場所で。


一人じゃなくしてくれて。


那奈は夕焼けを見上げた。


そして思った。


――やっと会えた。


でも。


悠馬はまだ知らない。


那奈が。


どれだけ前から。


自分のことを覚えていたのかを。




コンビニを出た頃には、空の色はもう夕焼けの終わりに近づいていた。


オレンジ色だった空は、ゆっくり青に戻り始めている。


夜になる前の、少し静かな時間。


三人は駅へ向かって歩いていた。


小倉那奈は、いつものように前を歩いている。


アイスの棒を袋にしまいながら、楽しそうに話していた。


「今日さ」


振り向きながら言う。


「体育つかれた」


悠馬は言う。


「見てた」


那奈は笑う。


「下手だった?」


悠馬は答える。


「普通」


那奈は笑った。


「悠馬くんの普通は信用できない」


その会話は、いつものものだった。


軽くて。


明るくて。


どこにでもある高校生の会話。


でも。


悠馬は、少しだけ那奈を見ていた。


那奈は、よく笑う。


本当によく笑う。


笑い方も自然だ。


作っているようには見えない。


それでも。


ほんの時々。


その笑顔が、少しだけ遠くなる瞬間がある。


悠馬はそれに気づき始めていた。


麗奈は少し後ろを歩いていた。


二人の背中を見ながら。


麗奈は思う。


――那奈、無理してないかな。


那奈は強い人ではない。


むしろ、弱い方だ。


だから。


強く見せようとする。


それを麗奈は知っている。


駅が見えてくる。


人の数も増えてきた。


那奈は改札の前で立ち止まった。


「じゃ」


悠馬は頷く。


「うん」


麗奈も言う。


「また明日」


那奈は笑った。


「また明日」


その笑顔は、やっぱり明るかった。


那奈は改札を通る。


背中が人混みに消えていく。


悠馬はその姿を少し見ていた。


麗奈が横に立つ。


少し沈黙が流れる。


麗奈は言った。


「古賀くん」


悠馬は顔を向ける。


「……」


麗奈は少し迷うように言った。


「那奈」


悠馬は静かに聞く。


麗奈は続けた。


「明るいでしょ」


悠馬は頷く。


「そう」


麗奈は小さく笑った。


「昔は」


少し間を置く。


「全然笑わなかった」


悠馬の視線が、ほんの少し動く。


麗奈は言う。


「那奈さ」


「……」


「たまに」


言葉を探す。


そして。


静かに言った。


「急に元気なくなるときある」


悠馬は何も言わない。


麗奈は続ける。


「ほんとたまにだけど」


「急に」


「何も話さなくなる」


悠馬の胸の奥で、何かが小さく動いた。


麗奈は言った。


「でも」


少し笑う。


「すぐ元気になる」


悠馬は聞く。


「なんで」


麗奈は肩をすくめた。


「わからない」


そして言った。


「でも」


「……」


「那奈、昔うつだったから」


その言葉は、静かだった。


でも。


悠馬の胸の奥に、はっきり落ちた。


麗奈は言う。


「今は大丈夫だと思う」


「たぶん」


少し間を置く。


「でも」


「……」


「時々、怖い」


悠馬は聞く。


「何が」


麗奈は答える。


「壊れるの」


その言葉は、どこか現実的だった。


悠馬は空を見上げる。


夜の色が、少しずつ広がっていた。


麗奈は言う。


「古賀くん」


「……」


「那奈のこと」


悠馬は顔を向ける。


麗奈は少し笑った。


「よろしくね」


それだけ言って、改札を通った。


悠馬は一人、ホームに立つ。


電車が来る音が聞こえる。


頭の中では、いくつかの言葉が重なっていた。


うつ病


精神病院


生きてればいいことある


そして。


那奈の笑顔


悠馬は思う。


人は。


笑っているからといって。


元気とは限らない。


そのことを。


悠馬はよく知っている。


電車がホームに入ってきた。


ドアが開く。


悠馬は乗り込む。


窓の外を見る。


街の灯りが、少しずつ増えていく。


悠馬の胸の奥に、ひとつの感情が生まれていた。


それは。


心配だった。


ただ。


隣の席の少女が。


本当に大丈夫なのか。


それだけが。


少しだけ気になっていた。


そして。


その気持ちが。


やがて。


悠馬の人生を、大きく変えていくことになる。



第五章 少しだけ違う朝


五月の朝は、春よりも少しだけ現実に近い。


四月の空気には、新しい生活の匂いがある。

まだ何も決まっていない、不安と期待が混ざった匂い。


でも五月になると、それは消える。


学校はもう「日常」になる。


制服を着ることも。

教室に座ることも。

チャイムの音を聞くことも。


すべてが、普通のことになる。


古賀悠馬は駅から学校へ向かう坂道を歩いていた。


朝の光は少し強くなっている。


空は高く、雲はゆっくり流れていた。


坂道には、同じ制服の生徒たちが歩いている。


友達と話している者。

スマートフォンを見ながら歩く者。

眠そうに欠伸をしている者。


どこにでもある高校の朝だった。


悠馬はその流れの中にいる。


でも、少しだけ距離がある。


それは昔からだった。


人の輪の中には入れる。


でも。


完全には混ざらない。


悠馬はそれでいいと思っていた。


坂道の途中で、ふとスマートフォンが震える。


ポケットから取り出す。


LINE。


小倉那奈からだった。


那奈:おはよ


悠馬は画面を見る。


それは、いつものメッセージだった。


那奈はよく朝LINEを送ってくる。


内容は大体同じだ。


おはよ

眠い

今日暑い


意味はない。


でも。


悠馬は返信していた。


指を動かす。


悠馬:おはよう


送信する。


それだけのやり取り。


でも。


悠馬は最近、それを当たり前のこととして受け取っていた。


学校に着く。


校門をくぐる。


校庭には体育の準備をしているクラスがあった。


ボールの音が響いている。


悠馬は校舎に入る。


階段を上る。


三階。


一年三組。


ドアを開ける。


教室にはまだ半分くらいしか人がいなかった。


窓際の席に座る。


鞄を机に置く。


そして。


横を見る。


隣の席。


小倉那奈の席。


そこはまだ空いていた。


悠馬は窓の外を見る。


特に何も思わない。


那奈は遅刻するタイプではない。


たぶん、もうすぐ来る。


数分後。


教室のドアが開く。


「おはよー」


那奈だった。


でも。


悠馬はほんの少しだけ違和感を覚えた。


声が、少し小さい。


那奈は席に座る。


机に鞄を置く。


そして。


机に頬をついた。


「眠い」


悠馬は言う。


「毎日」


那奈は笑った。


「毎日眠い」


その笑い方は、いつもの那奈だった。


でも。


どこか少しだけ、力が弱い気がした。


悠馬はそれ以上気にしなかった。


朝は誰でも眠い。


それだけだ。


チャイムが鳴る。


ホームルームが始まる。


担任の佐々木が教室に入ってくる。


「おはよう」


「おはようございます」


授業が始まる。


数学。


黒板に式が並ぶ。


悠馬はノートを取る。


横を見る。


那奈は、ぼんやり黒板を見ていた。


ペンは動いていない。


悠馬は小さく言った。


「書かないの」


那奈は少し遅れて反応する。


「あとで」


悠馬は言う。


「忘れる」


那奈は笑った。


「そのときは」


少し間を置く。


「見せて」


悠馬は答える。


「断る」


那奈は小さく笑った。


でも。


すぐに視線を落とした。


それはほんの一瞬だった。


でも。


悠馬は、ほんの少しだけ気づいた。


那奈の目が。


少しだけ、疲れているように見えた。


昼休み。


教室はいつものように賑やかだった。


机を寄せて話すグループ。

スマートフォンを見ているグループ。


いつもの昼休み。


悠馬は弁当を取り出す。


父が作った弁当。


卵焼き。

ウインナー。

唐揚げ。


横を見る。


那奈も弁当を出していた。


でも。


少しだけ手が止まっている。


「食べないの」


悠馬は聞く。


那奈は少し驚いた顔をした。


「あ」


それから笑う。


「食べる」


弁当を開く。


ハンバーグだった。


那奈は一口食べる。


「おいしい」


悠馬は頷く。


でも。


それから、那奈はあまり食べなかった。


箸を動かす回数が少ない。


悠馬は少しだけ思う。


那奈は、いつもよく食べる。


アイスも好きだ。


コンビニにもよく行く。


でも。


今日は少し違う。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「今日」


少し間を置く。


「帰り」


悠馬は言う。


「コンビニ」


那奈は小さく笑った。


「うん」


でも。


その笑顔は、やっぱり少し弱かった。


悠馬はその理由をまだ知らない。


ただ。


胸の奥に、ほんの小さな違和感が残っていた。


それは。


まだ名前のない感情だった。


でも。


その小さな違和感は。


これから少しずつ大きくなっていく。


そして。


悠馬の人生を、再び大きく揺らすことになる。



その日の帰り道は、いつもより静かだった。


学校の校門を出ると、夕方の光が街を柔らかく包んでいた。


五月の風は、春より少しだけ温度が高い。

でもまだ夏ほど重くない。


住宅街の道には、部活帰りの生徒がちらほら歩いている。


古賀悠馬と小倉那奈は、いつものように並んで歩いていた。


でも。


会話は、ほとんどなかった。


那奈が静かだった。


それは珍しいことだった。


那奈は普段、よく話す。


本当にどうでもいいことでも話す。


授業のこと。

テレビのこと。

コンビニのアイスのこと。


それなのに。


今日は。


那奈はほとんど話さない。


悠馬は歩きながら、横を見る。


那奈は前を見ていた。


夕焼けの色が、その横顔に少しだけ影を作っている。


「那奈」


悠馬は小さく呼んだ。


那奈は少し遅れて振り向く。


「ん?」


声は、いつも通りだった。


悠馬は言う。


「コンビニ」


那奈は少しだけ考える。


それから、小さく笑った。


「今日はいいや」


悠馬は言う。


「珍しい」


那奈は肩をすくめた。


「ちょっと疲れた」


その言葉は、軽かった。


でも。


悠馬は、少しだけ違和感を覚える。


那奈は疲れていてもコンビニには寄る。


それは、今までの経験で分かっている。


それなのに。


今日は寄らない。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「帰ったら何する?」


悠馬は答える。


「勉強」


那奈は小さく笑った。


「真面目」


悠馬は言う。


「普通」


那奈は少し笑った。


でも。


その笑いは、すぐに消えた。


駅が近づく。


改札の前で、那奈は立ち止まる。


「じゃ」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は改札を通る。


その背中を、悠馬は少し見ていた。


そして思う。


――疲れてるだけか。


それだけだ。


そう思うことにした。


夜。


悠馬は自分の部屋にいた。


机の上には教科書が広がっている。


数学の問題。


シャープペンを動かす。


でも。


少し集中できなかった。


スマートフォンが机の横に置いてある。


いつもなら。


この時間。


LINEが来る。


那奈から。


「今日つかれた」

「体育だるい」

「コンビニ行きたい」


そういう、意味のないメッセージ。


でも。


今日は来ていない。


悠馬は時計を見る。


22時。


普段なら、もう来ている時間だった。


悠馬は少し考える。


それから、スマートフォンを手に取る。


LINEを開く。


トーク画面。


最後のメッセージは昨日。


那奈:今日アイス食べすぎた


悠馬は少し迷う。


そして。


短く打つ。


悠馬:大丈夫?


送信する。


既読はつかない。


悠馬はスマートフォンを置く。


勉強に戻る。


でも。


少しだけ気になった。


翌朝。


教室に入ると、那奈はもう席に座っていた。


机に頬をつけている。


「おはよ」


那奈は言う。


悠馬は言う。


「おはよう」


那奈は少しだけ笑った。


でも。


その目の下には、少しだけ影があった。


「寝てないの」


悠馬は聞く。


那奈は言う。


「ちょっと」


悠馬はそれ以上聞かなかった。


朝のホームルームが始まる。


授業が始まる。


数学。


英語。


現代文。


その間。


那奈は、ほとんどノートを取らなかった。


黒板を見ている。


でも。


目の焦点が、少し遠い。


悠馬はそれに気づいていた。


昼休み。


弁当を開く。


悠馬は唐揚げを食べる。


横を見る。


那奈は、まだ弁当を開いていなかった。


「食べないの」


悠馬が聞く。


那奈は少し遅れて反応する。


「あ」


それから笑う。


「食べる」


弁当を開く。


でも。


二口くらい食べて、箸が止まる。


悠馬は少し考える。


そして言う。


「食べないと」


那奈は言う。


「お腹すいてない」


その声は、どこか遠かった。


そのときだった。


「那奈」


後ろから声がする。


高田麗奈だった。


麗奈は那奈を見て、少しだけ眉を動かした。


「大丈夫?」


那奈は笑った。


「大丈夫」


麗奈は少し黙る。


それから言った。


「ほんと?」


那奈は笑う。


「ほんと」


でも。


麗奈はその顔を、少し長く見ていた。


麗奈は知っている。


那奈が壊れかけているときの顔を。


中学のとき。


那奈は、こういう顔をしていた。


笑っている。


でも。


目が笑っていない。


麗奈は言う。


「那奈」


「……」


「ちゃんと寝てる?」


那奈は言う。


「寝てる」


麗奈は何も言わない。


ただ。


小さくため息をついた。


悠馬はそのやり取りを見ていた。


そして。


胸の奥で、同じ感覚が広がる。


違和感。


昨日から感じているもの。


それは。


少しずつ形を持ち始めていた。


その日の帰り道。


那奈はまた言った。


「今日は帰る」


コンビニには寄らない。


悠馬は何も言わなかった。


駅で別れる。


那奈は笑う。


「また明日」


その笑顔は、やっぱり明るかった。


でも。


悠馬は思う。


人は。


笑っているからといって。


元気とは限らない。


そのことを。


悠馬はよく知っている。


そして。


その夜。


悠馬のスマートフォンに、ようやくLINEが届く。


画面を見る。


那奈だった。


短いメッセージ。


那奈:ごめん


悠馬は少し眉を動かす。


続けて届く。


那奈:今日ちょっと変だったよね


悠馬は返信を打つ。


悠馬:少し


既読がつく。


数秒後。


もう一つメッセージが届いた。


那奈:大丈夫だから


その言葉を見て。


悠馬は思った。


――大丈夫じゃない人ほど。


そう言う。



その週の月曜日。


朝の空気は、少しだけ重かった。


五月の終わりが近づくと、春の柔らかさは消え始める。

風は温度を持ち始め、空気は少しだけ湿る。


教室に入ると、いつものざわめきがあった。


友達と話す声。

机を引く音。

笑い声。


普通の朝だった。


でも。


古賀悠馬は、すぐに気づいた。


隣の席。


小倉那奈の席が空いていた。


悠馬は席に座る。


窓の外を見る。


特に何も思わないようにする。


那奈が遅れることは、今までほとんどなかった。


でも。


たまたまだろう。


チャイムが鳴る。


ホームルームが始まる。


担任の佐々木が教室に入ってくる。


出席を取り始める。


「古賀」


「はい」


「小倉」


一瞬、間が空く。


「欠席」


教師はそう言った。


悠馬の視線が、ほんの少しだけ動いた。


それだけだった。


昼休み。


教室はいつものように賑やかだった。


でも。


悠馬の机の横は空いている。


弁当を広げる。


卵焼き。

ウインナー。

唐揚げ。


父が作った弁当。


悠馬は箸を動かす。


でも。


いつもより少しだけ味が分からなかった。


そのとき。


「古賀くん」


声がする。


高田麗奈だった。


悠馬は顔を上げる。


麗奈は言う。


「那奈」


「……」


「休んだね」


悠馬は頷く。


「そう」


麗奈は少し迷う。


それから言った。


「昨日」


悠馬は聞く。


「何」


麗奈は言う。


「LINE来た?」


悠馬は答える。


「来た」


麗奈は小さく息を吐いた。


「そっか」


悠馬は聞く。


「何かあるの」


麗奈は少し黙る。


それから言った。


「那奈」


「……」


「調子落ちてるかも」


その言葉は、静かだった。


でも。


悠馬の胸の奥に落ちた。


悠馬は聞く。


「うつ?」


麗奈は小さく頷いた。


「たぶん」


教室の音は変わらない。


誰かが笑っている。

誰かがスマートフォンを見ている。


でも。


悠馬の世界だけ、少し静かになった。


麗奈は言う。


「那奈さ」


「……」


「元気なとき」


「すごく元気」


悠馬は言う。


「知ってる」


麗奈は続ける。


「でも」


「……」


「落ちるとき」


少し間を置く。


「急に落ちる」


悠馬は何も言わない。


麗奈は言う。


「中学のとき」


「それで」


「入院した」


悠馬は弁当を見る。


箸が止まっていた。


麗奈は言った。


「古賀くん」


「……」


「那奈」


少し迷う。


「気にしてると思う」


悠馬は聞く。


「何を」


麗奈は答える。


「古賀くん」


悠馬の胸の奥で、何かが動いた。


麗奈は言う。


「那奈」


「……」


「古賀くんのこと」


「大事に思ってる」


その言葉は、まっすぐだった。


麗奈は続ける。


「だから」


「無理する」


悠馬は窓の外を見る。


グラウンドには、体育のクラスがいた。


ボールが転がる。


誰かが笑う。


普通の学校の昼だった。


でも。


悠馬の胸の中では、昔の記憶が少しずつ動き始めていた。


母。


古賀美紀。


笑っていたとき。


そして。


壊れていったとき。


悠馬は知っている。


うつ病は。


ある日突然、始まるわけではない。


ゆっくり壊れる。


でも。


外からは分からない。


笑っている。


普通に話す。


でも。


中では。


少しずつ崩れている。


悠馬は弁当を閉じる。


食べ終わっていなかった。


でも。


もう食べる気がしなかった。


その日の夜。


悠馬は部屋にいた。


机の上にスマートフォンを置く。


LINEを開く。


那奈とのトーク画面。


昨日のメッセージ。


那奈:大丈夫だから


悠馬は少し考える。


そして。


メッセージを打つ。


悠馬:学校休んだな


送信。


既読はつかない。


数分。


何も来ない。


悠馬はスマートフォンを置く。


でも。


少しして、震えた。


LINE。


画面を見る。


那奈だった。


那奈:ごめん


悠馬はすぐに打つ。


悠馬:大丈夫?


既読。


少し時間が空く。


それから。


メッセージが届く。


那奈:大丈夫


悠馬は画面を見る。


そして。


ゆっくり打つ。


悠馬:嘘


既読。


少し長い沈黙。


そのあと。


那奈からメッセージが届く。


那奈:ちょっとだけ


悠馬の胸の奥が、静かに締まる。


続けて届く。


那奈:疲れただけ


悠馬は返信を打つ。


悠馬:明日行く


数秒。


そして。


返信。


那奈:来なくていい


悠馬は打つ。


悠馬:行く


既読。


そのあと。


しばらくメッセージは来なかった。


悠馬はスマートフォンを見ていた。


そして。


やっと届いた。


那奈:…うん


その小さな返事が。


悠馬の胸の奥を、強く揺らした。


悠馬は思う。


昔。


自分は。


母を助けられなかった。


何も出来なかった。


ただ。


泣いていただけだった。


でも。


今は違う。


悠馬はスマートフォンを握る。


そして。


静かに思う。


――今度は。


逃げない。



その日の夜、空気は妙に静かだった。


窓の外では、風が弱く吹いている。

遠くで車の音が聞こえる。


それ以外の音は、ほとんどない。


古賀悠馬は部屋のベッドに座っていた。


机の上には、開きっぱなしの教科書。


数学の問題集。


でも。


一文字も頭に入っていなかった。


視線はずっとスマートフォンに落ちている。


LINEの画面。


小倉那奈とのトーク。


最後のメッセージ。


那奈:…うん


それだけだった。


それから、何も送られていない。


悠馬は時計を見る。


22時43分。


普段なら。


那奈は、もう何度かLINEを送ってくる時間だった。


「眠い」

「お腹すいた」

「今日疲れた」


そういう、どうでもいいメッセージ。


でも。


今日は来ない。


悠馬は少し考える。


そして。


スマートフォンを握り直した。


悠馬:今起きてる?


送信。


既読はつかない。


数分。


何も来ない。


悠馬はスマートフォンを置く。


そして。


立ち上がった。


部屋を出る。


階段を降りる。


リビングでは父がテレビを見ていた。


「出かける」


悠馬は言う。


父は少し驚いた顔をした。


「こんな時間に?」


悠馬は言う。


「すぐ戻る」


父は少し考えたが、それ以上何も言わなかった。


「気をつけろ」


悠馬は頷く。


家を出る。


夜の空気は、少し冷えていた。


五月の夜はまだ完全に暖かくない。


住宅街の道は静かだった。


街灯の光が、アスファルトを照らしている。


悠馬は歩き出す。


那奈の家は知っている。


一度、帰り道で聞いたことがある。


歩いて十五分くらいの距離。


足は自然に速くなる。


胸の奥が少しだけ騒いでいた。


それは。


不安だった。


理由は分からない。


でも。


胸の奥で、何かが警告している。


――遅れるな。


その感覚は。


昔、感じたものと似ていた。


小学生の頃。


学校から帰った日。


玄関のドアを開けたとき。


家の中が妙に静かだった。


あの日の空気。


あの違和感。


それに似ていた。


悠馬は足を速める。


角を曲がる。


住宅街の奥。


那奈の家は、小さなアパートだった。


二階建て。


外灯が少し暗い。


悠馬は階段を上る。


二階。


廊下。


部屋番号。


那奈の部屋。


ドアの前に立つ。


悠馬は少しだけ息を整える。


そして。


ノックする。


コンコン。


返事はない。


悠馬はもう一度叩く。


コンコン。


静かだった。


悠馬はドアノブに手をかける。


回す。


鍵はかかっていなかった。


ドアを開ける。


部屋の中は暗かった。


カーテンが閉まっている。


電気もついていない。


「那奈」


悠馬は呼ぶ。


返事はない。


悠馬は靴を脱ぎ、部屋に入る。


ワンルームの小さな部屋。


机。


ベッド。


そして。


床。


そこに。


那奈が座っていた。


壁にもたれている。


膝を抱えていた。


悠馬の胸の奥が強く鳴る。


那奈は顔を上げる。


目が合う。


那奈は、少し驚いた顔をした。


「悠馬くん」


声は小さかった。


悠馬は言う。


「電気」


那奈は小さく首を振る。


「いい」


部屋は暗いままだった。


カーテンの隙間から、街灯の光が少し入っている。


那奈の顔は、その光でぼんやり見えた。


悠馬はゆっくり近づく。


那奈の前に座る。


那奈は少し笑った。


「来なくていいって言ったのに」


悠馬は言う。


「来た」


那奈は小さく笑う。


「そうだね」


少し沈黙が流れる。


悠馬は那奈を見る。


顔色は悪かった。


目の下に影がある。


そして。


目が、どこか遠い。


悠馬は聞く。


「寝てないの」


那奈は答える。


「少し」


悠馬は言う。


「嘘」


那奈は笑った。


でも。


すぐに視線を落とした。


那奈は言う。


「ねえ」


「……」


「悠馬くん」


悠馬は答える。


「何」


那奈は少し考える。


そして言った。


「私さ」


声が少し震えていた。


「また」


少し間を置く。


「おかしくなってるかも」


悠馬の胸の奥が締まる。


那奈は言う。


「なんか」


「……」


「何もしたくない」


「何も考えたくない」


「学校も」


「外も」


少し笑う。


「全部疲れる」


悠馬は何も言わない。


那奈は続ける。


「でも」


「……」


「悠馬くんに」


「迷惑かけたくない」


その言葉は、弱かった。


那奈は言う。


「だから」


「来ないでって言った」


悠馬は少し息を吐く。


そして。


静かに言う。


「迷惑じゃない」


那奈は顔を上げる。


悠馬は続ける。


「そういうの」


「……」


「慣れてる」


那奈は少し驚いた顔をした。


悠馬は言う。


「母」


その一言で。


部屋の空気が少し変わる。


悠馬は続ける。


「うつ病だった」


那奈は小さく頷く。


「知ってる」


悠馬は言う。


「壊れるとき」


「分かる」


那奈の目が少し揺れた。


悠馬は静かに言う。


「一人にする方が」


「危ない」


那奈は何も言わない。


ただ。


少しだけ目が潤んだ。


那奈は小さく言った。


「怖い」


悠馬は答える。


「うん」


那奈は続ける。


「また」


「前みたいになるの」


悠馬は少し考える。


そして。


ゆっくり言う。


「なってもいい」


那奈の目が大きくなる。


悠馬は言う。


「壊れても」


「……」


「また戻る」


那奈の目から、涙が落ちた。


悠馬は続ける。


「生きてれば」


少し間を置く。


「いいことある」


その言葉を聞いた瞬間。


那奈は泣いた。


静かに。


でも。


止まらなかった。


那奈は泣きながら言う。


「それ」


「……」


「昔」


悠馬を見る。


「病院で」


悠馬の胸の奥が、強く揺れた。


那奈は言う。


「言ってくれた」


悠馬は黙っていた。


那奈は涙を拭きながら言う。


「覚えてない?」


悠馬は答えない。


でも。


胸の奥では。


記憶が、少しずつ形を持ち始めていた。


第六章 夜のあと


夜は、ゆっくり終わっていった。


小倉那奈の部屋には、相変わらず電気がついていない。


カーテンの隙間から、街灯の光が細く入っているだけだった。


その光は、部屋の床に細い線を作っていた。


那奈は床に座っていた。


壁にもたれたまま。


膝を抱えている。


泣いたあとの顔は、まだ少し赤かった。


古賀悠馬はその前に座っている。


部屋は静かだった。


外では、遠くで車の音がする。


それ以外の音はない。


那奈が、先に口を開いた。


「ごめん」


声は小さかった。


悠馬は言う。


「何が」


那奈は少し笑った。


「こんなの」


少し間を置く。


「見せちゃって」


悠馬は答える。


「別に」


那奈は俯いた。


「悠馬くん」


「……」


「ほんとは」


言葉を探す。


「こういうとき」


「誰にも会いたくない」


悠馬は黙って聞いていた。


那奈は続ける。


「人と話すのも」


「外に出るのも」


「全部」


「しんどい」


その言葉は、ゆっくり出てきた。


悠馬は頷く。


「知ってる」


那奈は少し顔を上げる。


「え」


悠馬は言う。


「母」


その一言で、那奈の目が少し揺れた。


悠馬は続ける。


「壊れたとき」


「同じだった」


那奈は黙る。


悠馬は言う。


「何も出来ない」


「何もしたくない」


「人も嫌」


那奈は静かに聞いていた。


悠馬は少し窓の方を見る。


夜の街灯が、カーテンの隙間から見えている。


悠馬は言う。


「でも」


少し間を置く。


「一人にすると」


那奈の目が少し動く。


悠馬は言った。


「危ない」


その言葉は、静かだった。


でも。


重かった。


那奈はゆっくり言う。


「悠馬くん」


「……」


「怖くないの?」


悠馬は聞く。


「何が」


那奈は言う。


「私」


その言葉は、真っ直ぐだった。


那奈は続ける。


「また」


「壊れるかも」


悠馬は少し考える。


そして。


答えた。


「怖い」


那奈は少し驚いた顔をした。


悠馬は続ける。


「でも」


「……」


「逃げない」


その言葉は、短かった。


でも。


迷いはなかった。


那奈の目が、また少し潤んだ。


那奈は小さく言う。


「優しい」


悠馬は首を振る。


「違う」


那奈は聞く。


「じゃあ何」


悠馬は少しだけ笑った。


「後悔」


那奈はその言葉の意味を理解した。


悠馬は静かに言う。


「昔」


「母」


「助けられなかった」


那奈は何も言わない。


悠馬は続ける。


「だから」


少し間を置く。


「もう逃げない」


部屋は静かだった。


那奈は涙を拭いた。


そして。


小さく言った。


「ありがとう」


悠馬は何も言わない。


でも。


その空気は、少しだけ柔らかくなっていた。


しばらくして。


那奈はベッドに座り直した。


「ねえ」


悠馬を見る。


「……」


「覚えてる?」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は言う。


「病院」


悠馬の胸の奥が少し動く。


那奈は続ける。


「待合室」


「泣いてた私」


悠馬は黙っている。


那奈は笑った。


「隣にいた男の子」


悠馬はまだ答えない。


那奈は言う。


「大丈夫だよ」


その言葉は、ゆっくり出てきた。


那奈は続ける。


「生きてれば」


少し笑う。


「いいことある」


悠馬の胸の奥が強く鳴る。


那奈は言う。


「悠馬くん」


悠馬を見る。


那奈は笑った。


涙の残る笑顔だった。


「やっと」


少し間を置く。


「会えた」


その言葉は、静かだった。


でも。


とても重かった。


悠馬はまだ完全には思い出していない。


でも。


記憶の奥で、何かが確かにつながり始めていた。


白い廊下。


待合室。


泣いている女の子。


そして。


自分。


那奈は言う。


「私」


「……」


「ずっと覚えてた」


悠馬は静かに聞いていた。


那奈は続ける。


「悠馬くんの言葉」


少し笑う。


「何回も思い出した」


悠馬は何も言えなかった。


那奈は言う。


「だから」


「……」


「生きてこれた」


その言葉は。


悠馬の胸の奥に、強く落ちた。


夜は、ゆっくり深くなっていく。


外では風が少し強くなっていた。


でも。


那奈の部屋の空気は、少しだけ落ち着いていた。


壊れかけていた夜は。


少しだけ、形を取り戻していた。


そして。


悠馬はまだ知らない。


この先に。


もっと大きな真実が待っていることを。


母。


古賀美紀。


あの日。


首を吊った理由。


それが。


すぐそこまで、近づいていることを。




夜は、少しずつ静かになっていった。


小倉那奈の部屋には、相変わらず灯りがない。


カーテンの隙間から入る街灯の光だけが、床に細い影を落としている。


部屋は、まだ少し冷えていた。


那奈はベッドの端に座っている。


さっきまで泣いていた顔は、少し落ち着いていた。


古賀悠馬は床に座ったままだった。


二人の間には、少しだけ沈黙がある。


でも。


それはさっきまでの重い沈黙とは違っていた。


那奈が、先に口を開いた。


「悠馬くん」


悠馬は顔を上げる。


「……」


那奈は少しだけ迷うような顔をした。


それから言う。


「聞きたいことある」


悠馬は言う。


「何」


那奈は少しだけ視線を落とす。


そして、静かに言った。


「お母さん」


その言葉で。


悠馬の胸の奥が、少しだけ硬くなる。


那奈は続ける。


「古賀美紀さん」


悠馬は黙っていた。


その名前を、他人の口から聞くのは久しぶりだった。


那奈は言う。


「病院で」


「……」


「会ったことある」


悠馬は小さく頷く。


「知ってる」


那奈は少し驚いた顔をする。


「知ってた?」


悠馬は言う。


「麗奈から聞いた」


那奈は小さく息を吐く。


「そっか」


少し沈黙が落ちる。


悠馬は窓の方を見る。


夜の街灯が、少し揺れていた。


那奈は静かに言う。


「悠馬くん」


「……」


「覚えてる?」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は答える。


「お母さんが」


少し間を置く。


「首を吊った日」


その言葉で。


悠馬の呼吸が、ほんの少しだけ止まった。


那奈は続ける。


「悠馬くん」


「……」


「自分のせいだって思ってる?」


悠馬は答えなかった。


でも。


それが答えだった。


那奈はゆっくり言う。


「違うよ」


悠馬の視線が、少しだけ動く。


那奈は言った。


「悠馬くんのせいじゃない」


その言葉は、静かだった。


でも。


はっきりしていた。


悠馬は少し眉を動かす。


「なんで」


那奈は少しだけ息を吐く。


そして言う。


「聞いたことある」


悠馬は聞く。


「誰から」


那奈は答える。


「お母さん」


悠馬の胸の奥が、強く鳴った。


那奈は続ける。


「病院で」


「……」


「話してくれた」


悠馬は何も言えなかった。


那奈はゆっくり話す。


「ある日」


「病院の廊下で」


「偶然会って」


「少し話した」


那奈の声は、とても静かだった。


「美紀さん」


「泣いてた」


悠馬の胸の奥が、少し締めつけられる。


那奈は続ける。


「ずっと」


「悠馬くんの話してた」


悠馬は息を止めていた。


那奈は言う。


「ごめんって」


少し間を置く。


「何回も言ってた」


悠馬の頭の奥で、何かが揺れる。


那奈は言う。


「首を絞めたこと」


「……」


「覚えてた」


悠馬の手が、ほんの少しだけ震えた。


那奈は続ける。


「泣きながら言ってた」


「私」


「悠馬を」


「壊す」


その言葉は、重かった。


那奈は言う。


「だから」


「……」


「怖くなった」


悠馬の胸の奥が、強く締まる。


那奈は続ける。


「ある日」


「また」


「悠馬くんの部屋に行った」


悠馬の呼吸が浅くなる。


那奈は言った。


「首を」


少し間を置く。


「絞めようとして」


悠馬の視界が少し揺れる。


那奈は静かに言う。


「そのとき」


「正気に戻った」


悠馬は動けなかった。


那奈は続ける。


「このままだと」


「悠馬が危ない」


その言葉は、ゆっくり落ちた。


那奈は言う。


「だから」


「……」


「自分が死のうと思った」


悠馬の胸の奥で。


何かが崩れた。


那奈は続ける。


「悠馬くん」


涙が少しだけ浮かぶ。


「守ろうとしたんだよ」


その言葉は。


とても静かだった。


でも。


とても重かった。


悠馬の視界が、少しだけぼやける。


今まで。


ずっと。


思っていた。


母は。


自分が嫌いだった。


だから。


あんなことをした。


そう思っていた。


でも。


違った。


那奈は言う。


「美紀さん」


「最後まで」


「悠馬くんのこと」


「大好きだった」


悠馬は何も言えなかった。


胸の奥で。


長い間、固まっていた何かが。


少しずつ崩れていく。


那奈は小さく言った。


「ごめんね」


悠馬は顔を上げる。


那奈は言う。


「言うか迷った」


少し笑う。


「でも」


「悠馬くん」


「知った方がいいと思った」


悠馬は少し息を吐いた。


そして。


初めて言った。


「ありがとう」


その声は、少し震えていた。


でも。


確かに。


そこにあった。


夜の空気は、少しだけ変わっていた。


部屋はまだ暗い。


でも。


何かが、確実に変わっていた。


悠馬の胸の奥にあった。


長い間の痛み。


それが。


少しだけ形を変え始めていた。


そして。


悠馬は思う。


今度は。


自分が守る番だ。




夜は、少しずつ深くなっていく。


小倉那奈の部屋には、まだ灯りがついていない。


カーテンの隙間から、街灯の光だけが細く差し込んでいる。


その光は、床を淡く照らしていた。


さっきまでの言葉が、まだ空気の中に残っている。


古賀美紀。


母。


首を吊った理由。


その真実。


古賀悠馬は、まだ床に座っていた。


那奈はベッドの端に座っている。


しばらく、二人は何も話さなかった。


でも。


その沈黙は、さっきまでとは違っていた。


重さはある。


でも。


どこか、穏やかだった。


那奈が、小さく言った。


「悠馬くん」


悠馬は顔を上げる。


「……」


那奈は言う。


「怒らないの?」


悠馬は少しだけ眉を動かした。


「何を」


那奈は言う。


「勝手に」


「……」


「話聞いたこと」


悠馬は少し考える。


それから、静かに言った。


「怒る理由ない」


那奈は少し笑った。


「優しい」


悠馬は首を振る。


「違う」


那奈は聞く。


「じゃあ?」


悠馬は少しだけ息を吐いた。


「知れてよかった」


その言葉は、静かだった。


でも。


本心だった。


那奈は、少しだけ目を潤ませる。


那奈は言う。


「私さ」


「……」


「ずっと迷ってた」


悠馬は黙って聞く。


那奈は続ける。


「言うか」


「言わないか」


那奈は小さく笑う。


「余計なことかもしれないって」


悠馬は言う。


「余計じゃない」


那奈は顔を上げる。


悠馬は続けた。


「ずっと」


少し間を置く。


「自分のせいだと思ってた」


那奈は何も言わない。


悠馬は言う。


「母」


「……」


「壊れたの」


「俺のせいだって」


那奈の目が、少し揺れた。


悠馬は続ける。


「だから」


「……」


「知れてよかった」


その言葉は、ゆっくり落ちた。


那奈は涙を拭く。


そして、少し笑った。


「よかった」


部屋の空気は、少しだけ柔らかくなっていた。


しばらくして。


那奈は、ゆっくりベッドに横になった。


「ちょっと」


「……」


「疲れた」


悠馬は頷く。


「寝ろ」


那奈は小さく笑う。


「命令」


悠馬は言う。


「そう」


那奈は目を閉じた。


でも。


すぐに目を開ける。


「悠馬くん」


「……」


「帰らないの?」


悠馬は言う。


「もう少し」


那奈は聞く。


「なんで」


悠馬は少し考える。


そして言った。


「見てる」


那奈は小さく笑った。


「変」


悠馬は言う。


「知ってる」


那奈は、少しだけ安心した顔をした。


そして。


また目を閉じた。


部屋は静かだった。


那奈の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


悠馬は床に座ったまま、窓の方を見ていた。


夜の街灯が、揺れている。


悠馬は思う。


昔。


母を。


助けられなかった。


何も出来なかった。


ただ。


泣いていただけだった。


でも。


今は違う。


悠馬は静かに思う。


――逃げない。


その気持ちは、はっきりしていた。


少しして。


那奈が小さく声を出した。


「悠馬くん」


悠馬は振り向く。


那奈はまだ目を閉じている。


でも。


言葉は続いた。


「ありがとう」


悠馬は何も言わない。


那奈は言う。


「私」


「……」


「怖かった」


悠馬は聞く。


「何が」


那奈は言う。


「また」


少し間を置く。


「一人になるの」


悠馬の胸の奥が、少しだけ締まる。


那奈は続ける。


「前」


「壊れたとき」


「みんな離れてった」


悠馬は黙っていた。


那奈は言う。


「友達」


「学校」


「全部」


少し笑う。


「怖かった」


悠馬はゆっくり言う。


「離れない」


那奈は目を開ける。


悠馬を見る。


「ほんと?」


悠馬は頷く。


「ほんと」


那奈は、少しだけ涙をこぼした。


那奈は小さく言った。


「悠馬くん」


悠馬は答える。


「何」


那奈は少しだけ笑った。


「好き」


その言葉は、突然だった。


でも。


とても自然だった。


悠馬は少しだけ驚いた。


那奈は続ける。


「ずっと」


「……」


「好きだった」


悠馬は何も言えなかった。


那奈は笑った。


「変でしょ」


悠馬は少しだけ息を吐く。


それから言う。


「知ってる」


那奈は驚いた。


「え」


悠馬は言う。


「なんとなく」


那奈は少し笑った。


そして。


静かに言う。


「よかった」


那奈は、ゆっくり目を閉じた。


そのまま。


眠りに落ちていく。


悠馬はその様子を見ていた。


胸の奥で。


静かに思う。


――守る。


その気持ちは、もう迷いがなかった。


夜は、静かに流れていく。


そして。


物語は、ゆっくり最終章へ向かっていく。




夜は、思っていたより静かに過ぎていった。


小倉那奈の部屋には、まだ灯りがついていない。


カーテンの隙間から入る街灯の光が、床に細く伸びている。


その光は、少しずつ色を変えていた。


夜の深い青から。


少しずつ。


朝の灰色へ。


古賀悠馬は、床に座ったままだった。


壁に背をつけている。


眠っていない。


でも。


疲れている感じもなかった。


ただ。


那奈の呼吸を聞いていた。


ベッドの上。


那奈は静かに眠っている。


呼吸は、ゆっくり。


少しずつ落ち着いていた。


悠馬は思う。


昨日の夜。


ここに来なかったら。


那奈は、どうしていただろう。


それは。


考えないようにした。


窓の外が、少し明るくなる。


鳥の声が聞こえ始める。


朝だった。


悠馬はゆっくり立ち上がる。


体を軽く伸ばす。


そのとき。


「……悠馬くん」


小さな声。


振り向く。


那奈が、目を開けていた。


少し寝ぼけた顔だった。


悠馬は言う。


「起きたか」


那奈は少し笑った。


「ほんとにいる」


悠馬は答える。


「いる」


那奈は少しだけ体を起こす。


髪が少し乱れている。


「帰らなかったの?」


悠馬は言う。


「帰る理由ない」


那奈は小さく笑った。


「変」


悠馬は肩をすくめる。


「知ってる」


那奈は窓の方を見る。


カーテンの隙間から、朝の光が少し入っている。


那奈は言った。


「朝だ」


悠馬は頷く。


「そう」


少し沈黙が落ちる。


でも。


それは穏やかな沈黙だった。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「昨日」


悠馬は聞く。


「何」


那奈は少しだけ照れた顔をした。


「好きって言った」


悠馬は少しだけ目を細める。


「覚えてる」


那奈は枕を抱える。


「忘れてほしかった」


悠馬は言う。


「無理」


那奈は小さく笑った。


「そっか」


少しだけ間が空く。


那奈は言った。


「返事」


悠馬は少し考える。


そして。


静かに言った。


「俺も」


那奈は目を上げる。


悠馬は続ける。


「好き」


その言葉は、短かった。


でも。


はっきりしていた。


那奈の目が、少し大きくなる。


それから。


少しずつ、笑顔になる。


「ほんと?」


悠馬は頷く。


「ほんと」


那奈は少しだけ涙をこぼした。


でも。


笑っていた。


那奈は言う。


「よかった」


悠馬は聞く。


「何が」


那奈は笑った。


「全部」


その言葉は、柔らかかった。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「これから」


少し間を置く。


「めんどくさいよ」


悠馬は言う。


「知ってる」


那奈は続ける。


「急に落ちる」


「何も出来なくなる」


「外出たくなくなる」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は言う。


「それでも」


「……」


「いいの?」


悠馬は迷わなかった。


「いい」


那奈は少し笑った。


「なんで」


悠馬は少し考える。


そして言う。


「昔」


「……」


「母」


那奈は静かに聞く。


悠馬は続ける。


「一人だった」


那奈の目が揺れる。


悠馬は言う。


「だから」


少し間を置く。


「一人にしない」


那奈は泣いた。


でも。


それは昨日の涙とは違っていた。


少しだけ。


温かい涙だった。


那奈は小さく言う。


「ありがとう」


悠馬は何も言わない。


でも。


その空気は、確かに変わっていた。


そのあと。


二人はゆっくり外に出た。


朝の空気は、少し冷たかった。


でも。


太陽はもう昇っている。


住宅街は、まだ静かだった。


那奈は言う。


「学校」


悠馬は聞く。


「行くか」


那奈は少し考える。


そして笑う。


「行く」


悠馬は頷く。


「そうか」


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「手」


悠馬は見る。


那奈が手を差し出していた。


少し恥ずかしそうな顔だった。


悠馬はその手を取る。


少しだけ冷たい手だった。


でも。


しっかり握り返した。


那奈は笑った。


「彼氏」


悠馬は言う。


「彼女」


那奈はまた笑う。


朝の光は、少しずつ強くなっていた。


昨日の夜。


壊れそうだった世界は。


少しだけ。


形を取り戻していた。




第七章


それでも、明日は来る


六月の空は、少しだけ重かった。


梅雨が近づくと、空は低くなる。

雲が厚くなり、光は柔らかくぼやける。


でも。


その空の下でも、学校の時間は変わらず流れていく。


朝。


校門の前。


制服の生徒たちが、ゆっくりと坂を登っている。


その中に。


古賀悠馬と、小倉那奈がいた。


二人は並んで歩いている。


それはもう、特別なことではなかった。


那奈は少しだけ伸びをする。


「眠い」


悠馬は言う。


「毎日」


那奈は笑う。


「毎日眠い」


そのやり取りも、もう当たり前だった。


でも。


少しだけ変わったことがある。


那奈の歩く速度。


昔より少しだけ、ゆっくりになった。


無理をしなくなった。


悠馬も、それに合わせて歩く。


坂道を登る。


学校が見える。


那奈は言う。


「悠馬くん」


「……」


「今日」


少し考える。


「雨かも」


悠馬は空を見る。


雲は確かに厚かった。


悠馬は言う。


「傘ある」


那奈は笑う。


「優しい」


悠馬は言う。


「普通」


那奈はまた笑った。


その笑顔は。


前より、少しだけ穏やかだった。


教室。


一年三組。


窓際の席。


悠馬が座る。


その隣。


那奈の席。


那奈は机に頬をつく。


「眠い」


悠馬は言う。


「三回目」


那奈は笑う。


「ほんと?」


悠馬はノートを開く。


授業が始まる。


数学。


英語。


現代文。


時間はいつも通り流れていく。


でも。


那奈は、時々ぼんやりする。


ペンが止まる。


窓の外を見る。


そんなとき。


悠馬は何も言わない。


ただ。


少しだけ様子を見る。


そして。


小さく言う。


「水」


那奈は頷く。


ペットボトルを飲む。


それだけのこと。


でも。


それで少し落ち着く。


那奈は言う。


「ありがとう」


悠馬は言う。


「うん」


それだけだった。


昼休み。


教室は賑やかだった。


机を寄せて話すグループ。


スマートフォンを見るグループ。


いつもの昼。


悠馬は弁当を開く。


卵焼き。

ウインナー。

唐揚げ。


父の弁当。


那奈は言う。


「美味しそう」


悠馬は言う。


「普通」


那奈は笑う。


「普通じゃない」


那奈も弁当を開く。


今日はちゃんと食べている。


全部は食べない。


でも。


半分くらいは食べる。


それでいい。


麗奈も机を寄せてきた。


「元気?」


那奈は笑う。


「まあまあ」


麗奈は頷く。


それ以上は聞かない。


それが優しさだった。


放課後。


帰り道。


三人で歩く。


コンビニの前。


那奈は立ち止まる。


「アイス」


悠馬は言う。


「また」


那奈は笑う。


「好き」


三人で店に入る。


那奈はいつも通り、バニラアイスを取る。


外に出る。


夕方の空は、少し暗くなり始めていた。


那奈はアイスを食べながら言う。


「悠馬くん」


「……」


「私さ」


少し間を置く。


「完全に治るわけじゃないと思う」


悠馬は言う。


「うん」


那奈は続ける。


「また落ちる」


「またしんどくなる」


悠馬は頷く。


「うん」


那奈は聞く。


「それでも」


少し笑う。


「一緒にいる?」


悠馬は迷わなかった。


「いる」


那奈は泣きそうな顔で笑った。


「よかった」


その日の夜。


悠馬は部屋にいた。


机の上にスマートフォン。


LINE。


那奈からメッセージが届く。


那奈:今日楽しかった


悠馬は少し考える。


それから打つ。


悠馬:うん


那奈からすぐ返信。


那奈:ねえ


悠馬は待つ。


那奈:生きてればいいことあるね


悠馬は画面を見る。


その言葉。


昔。


待合室で。


泣いていた女の子に言った言葉。


それが。


今。


自分に返ってきている。


悠馬は返信する。


悠馬:ある


少しして。


那奈から。


那奈:うん


夜の空。


雲の隙間から、少しだけ星が見えていた。


人生は。


きっと簡単じゃない。


うつ病も。


痛みも。


消えるわけじゃない。


それでも。


人は。


誰かと生きることが出来る。


支え合って。


少しずつ。


歩いていくことが出来る。


そして。


それだけで。


人生は、少しだけ優しくなる。


古賀悠馬は思う。


あの日。


待合室で。


泣いていた女の子に言った言葉。


生きてればいいことある


それは。


間違いじゃなかった。


なぜなら。


今。


その「いいこと」は。


隣を歩いているからだ。


それでも。


明日は来る。


そして。


二人は。


その明日を。


一緒に歩いていく。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語を読みながら、もし誰かの顔が浮かんだなら。


それはきっと、あなたにとって大切な人なのだと思います。


うつ病は、とてもつらいものです。

そして、それを支える人たちもまた、同じように苦しむことがあります。


それでも人は、誰かと生きていくことができる。


この物語が、誰かを思い出すきっかけになったなら、とても嬉しいです。


本当にありがとうございました。

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