12
「ひっ!」
何度目か分からないアシア様の怯えた声。彼女の前にはヨルグ副師団長が立っている。
「......申し訳ありません、アシア様」
「い、いえ!私が悪いのよ、ごめんなさいね」
アシア様は誰に対しても平等な態度を取る。貴族だろうが、元平民の騎士に対してもだ。
だがヨルグ副師団長にだけはその見た目に慣れるのに時間がかかる様で、近くに立たれると無意識に恐怖で体が固まってしまうようだった。
心なしか落ち込んだ表情の副師団長が私の居る定位置へとやって来た。
「そんなに凹まないでください、副師団長」
「......凹んで無い」
明らかに声に元気が無い。私は彼のことを怖いと思ったことは無いが、周りの人はそうでも無いらしい、と学生の時に気づいた。
「そんなに気になるなら訓練します?」
「なんだ、訓練って」
「怖がられない様にする訓練ですよ〜。そしたら副師団長も女性や子供に大人気!なーんて……冗談です」
言いながら思ったが、彼が女性や子供に好かれたいのか分からないし、余計なお世話だったか、と冗談で済まそうとしたが、彼から返ってきたのは予想外の反応だった。
「......頼む」
「へっ?」
彼の言葉に思考が追いつかない。本気なのか、冗談なのか。
横に立つ副師団長を見るが、こちらを見もせず真面目な顔でアシア様を見守っていた。
きっと彼も冗談のつもりだったのだろう。
*****
その日も仕事を終え部屋で休んでいると、コンコンと扉がノックされた。もちろん来客の予定は無い。
「はーい」
濡れた髪をガシガシと拭きながら扉を開けると、立っていたのはヨルグ副師団長だ。
「......いきなりすまない。朝話していた事なんだが...」
朝?何の事だろう。必死に考えるが思考が鈍い。1人になると、世界を包んでいる膜が更に厚くなっていきそこから抜け出すのに時間がかかる。
「あっ、え、あれって本気だったんですね......」
彼が言っているのは私が提案した恐怖減退訓練(仮)の事だ。
本気だったのか、と言ってしまってから後悔した。彼が、やってしまった、と目元を手で覆ったのだ。
「いや、すまない。そうだよな......邪魔したな」
私の言葉を待たずに彼は今来た道を引き返そうと身を翻した。
「あ!ちょっと待ってください!」
部屋から走り出て彼の服を掴む。
「やります!一緒にがんばりましょ!ね?」
彼の背中があまりにもしょんぼりして見えたので思わず子供を諭す様な言い方になってしまった。
「あ、すみませんこんな言い方......」
まだ服を掴んだままな事にも気づきパッと手を離す。
「......構わない。お前が良いなら、よろしく頼む」
「ふふっ、はい。よろしくお願いします」
なんだか彼が幼い子供の様に見え、思わず笑いながら返す。その日は2人とも自分の部屋に戻り、後日予定を合わせて訓練を始める事になった。
*****
日が暮れた頃、私とヨルグ副師団長は中庭の小さいガゼボに向かい合って座っていた。夕食の前に時間があったので数十分ではあるが訓練を始める事で話が纏まったのだ。
陽が落ちて時間が経ったが、空は夕陽の様相を残していてオレンジと紫のグラデーションが美しい。そのせいかまるで物語の中に居るようで現実感がない。
「じゃあまずは笑顔の練習ですかね?」
向かいに座る副師団長に笑って見せる。
「......」
「あ、もちろん!やりたくなかったらやらなくても......」
副師団長が笑顔と聞いた途端難しい顔をしたので私は慌てて両手を胸の前で振った。
「いや、やる」
何だか意地になっているようだ。彼が無理やり口の両端をグニ、と上げる。
「はい、他の訓練にしましょうか」
私は何も見ませんでした、と目を逸らしすぐに次の手を考えた。今の顔はきっと女性や子供じゃなくとも泣き出す可能性がある。
「だ、ダメだったか......」
彼が肩を落とす。
「そうですね、笑顔の練習はもうちょっと緊張がほぐれてからにしましょう」
また後で笑顔の練習をする事があるとは思えなかったが、今は見送った方が賢明だろう。
「今日は話し方の練習をしましょう!」
私は手を軽くパンと叩いて空気を入れ替えた。
「話し方?」
「はい!話し方でかなり印象は変わるんですよ?」
「なるほど。例えば?」
「まずは挨拶ですね。これは1日の中で最初の印象を決めるので、かなり大事ですよ〜」
副師団長の方を向き、姿勢を正す。
「副師団長は普段皆んなになんて挨拶してますか?」
「おはよう。とかだな」
「ふんふん。言葉は今更変えたら不自然ですけど、こう、低い声でおはよう。って一辺倒に言ったらちょっと怖いと思うんですよ」
おはよう、の所で顔を顰めて副師団長の声真似をしてみせた。彼の口元がフッと緩んだ気がしたが、すぐにそれも戻ってしまった。
「明るすぎなくても良いんですけど、今俺は不機嫌じゃないぞーって表現出来るように、抑揚を付ける練習をしましょう!」
「......いつも俺はそんな風か?」
自分の印象を他人から聞いたことなど無いのだろう。私が見せたモノマネが少々心外だったようだ。
「副師団長背が高いですからね〜、普通通りにしてても威圧感?と言うか、圧があるんですよたぶん」
「なんだ、たぶんて」
「だって私、副師団長の事怖いと思った事ないんですもん」
笑いながら返す。副師団長はこちらを見つめて何か言いたげにしていたが、口を一度開いてそのまま何も言う事なく閉じてしまった。
その後は何度も挨拶の練習をして、今日の訓練は終了となった。
「じゃあ、おやすみなさい副師団長」
「......ヨルグで良い」
私は彼の言っている事が分からず首を傾げた。
「俺を呼ぶのに副師団長だと長いだろう。ヨルグで良い」
副師団長を名前で呼んでも良いのだろうか?だが本人がそう望んでいる。
「え......じゃあヨルグさん、て呼んでも良いですか?」
恐る恐る尋ねれば、彼は目を逸らしコクリと頷いたのだった。
*****
「今日も可愛いね、まるで春に咲いた桃の花のようだ」
「あら、ありがとう」
クレイグとアシア様の会話が聞こえてくる。
今日は珍しく昼から非番で、手にした給金でバリーにお礼を買おうと街に出ようとしていたのだが偶々彼らが庭で談笑している現場に遭遇してしまった。
彼らは大きい方のガゼボで座りながら話しているので私の姿は見えていない様だが、私は生垣から頭を少しだけ覗かせて彼らを見ることができる。
覗き見しているようで申し訳ないが、クレイグとアシア様がどんな会話をしているのかが気になってしまう。
遠目にこちらを見ている見張りの騎士からは、何してんだ?と言いたげな目線を感じるが別に仕事をサボっている訳ではないので別に良いだろう。
「今まで一体何人の女の子にそう言ってきたのかしら?」
「勘弁してよアシー。俺が何であんなキャラやってたか知ってるだろ?」
「今のあなたも演技をしていないって証明してもらえる?」
「いくらでも出来るよ」
ここまで聞いて2人の関係性を疑った自分が愚かに思えた。客観的に見ても2人は充分想い合っているようだった。クレイグは正真正銘アシア様の婚約者なのだ。自分は学生の時の彼を見ているので、現在の彼の言動は胡散臭く見えるが、今の彼も素なのだろう。他人と恋人に向ける態度が全く同じと言う人の方が少ないか。
アシア様が選んだのなら私が口を出すことでは無い。私は2人の掛け合いをボーッと眺めていた。
「スウェイル?」
2人を見続けて何分が経っていたのだろうか、声を掛けられてハッとそちらを振り返ると、ヨルグ副師団長が驚いた様な顔で立っていた。
「ふくし、ヨルグさん!」
小声で叫ぶ。大声を出すと2人に気付かれてしまう。私は人差し指を口元に当てつつ、ヨルグさんに屈むように促した。彼の身長では生垣からかなり頭が飛び出してしまっている。彼は大人しく指示に従ってくれた。
「何をしてたんだ?」
彼も一応小声で話してくれているが、何と返したものか。
「その〜、街に行こうとしてたんですが、2人を偶然見かけまして......ついつい見入ってしまったと言うか何というか」
我ながら意味が分からない言い分だ。ただ勘違いしていた事が恥ずかしくて全てを言う気にはなれなかった。
私は戸惑っているヨルグさんに短く分かれを告げ、街へと走ったのだった。
*****
「そんなに気になるなら訓練します?」
そう声を掛けられて、一体何の話をしているのかが分からなかった。
彼女は怖がられないように訓練をするかと俺に尋ねたのだ。
アシア様に怯えられた俺に同情したのだろう。きっと俺のためと言うよりはアシア様のために提案したのだと分かっていたが、少し逡巡し俺は承諾の返事をしたのだった。
「あっ、え、あれって本気だったんですね......」
濡れた髪の彼女を見て少しだけ昇っていた血が一気に下降していくような気がした。
俺はなんて馬鹿なんだ。今までこんな行動を起こした事なんて無いのに。彼女の言葉を本気にして部屋まで訪ねてしまうとは。
もう数秒でも彼女の視界に入っていたくなくて、俺はすぐに廊下を引き返そうと足を踏み出した。
「あ!ちょっと待ってください!」
彼女が俺の服を掴んだ。心臓が少しだけ強く鼓動を打つ。服から手が離れてしまった時に寂しいと感じたのはきっと気のせいだ。
訓練をする、と言った彼女はまるで我儘を言う子供を諭すように俺に笑いかけた。
時間が合う日に訓練を始めよう、と決めてその日は各々部屋は戻ることに。
「ふんふん。言葉は今更変えたら不自然ですけど、こう、低い声でおはよう。って一辺倒に言ったらちょっと怖いと思うんですよ」
俺の真似なのか、彼女が低い声でおはよう、と言う姿が何故か可愛く見える。
先ほど笑顔を作るのはやめた方が良いと言われたので我慢するが、思わず口角が上がりそうになった。
俺に威圧感があると話す彼女が何故か自信なさげだ。不思議に思い問うと、彼女は俺の事を怖いと思った事がないと。
彼女の目を見つめたが、嘘を言っているようには思えなかった。
誰かに怖がられなかったのはいつぶりだろうか。家族以外にそう言う存在は本当に一握りだ。
自分でもその事がよっぽど嬉しかったのか彼女との別れ際、自分の事を名前で呼んでも良いと言ってしまった。何でそんな事を言ってしまったのか、自分でも驚きだ。ただ彼女から"副師団長"と敬称だけで呼ばれるのが、彼女との距離を感じてしまって我慢出来なくなってしまったのだ。
彼女が俺の名前を呼んでくれた時の事が忘れられない。さん、なんて付けなくても良いのだがあれはあれで、と思っている自分がとても気持ち悪く感じた。
「いや、それ恋だよ」
仕事で王城に来ていたウィルフリッドがあっけらかんと言い放つ。
「はっ......こ、恋???」
こい、恋?言葉の意味が上手く飲み込めず心の中で何度も言葉を反芻する。
「へぇ〜ヨルグがね〜〜。でもあの子良い子そうだもんね、良いんじゃないの?」
ウィルフリッドが紅茶を飲みながら俺をニコニコと見る。彼はもうすっかり納得したようだが、当の本人が何も理解出来ていない。
これが恋?こんな気持ちになるのが初めてで、何も分からない。
「まぁゆっくり考えたらいいんじゃない?ヨルグがどう感じてるかも大事だけど、相手の気持ちも大事だからね」
心なしか真剣な声でそう言われてハッとした。もし仮に、仮にだが俺が彼女の事を好きだとして、彼女は俺の事をどう思っているのだろう。それが1番大事だ。
春だね〜と面白そうに笑っているウィルフリッドを部屋から追い出し、俺は1人でモヤモヤする気持ちをどうにか整理しようと部屋の中をウロウロと歩き続けた。
次の日、俺は次の警護担当と交代するために中庭を通ろうとしたのだが、生垣の側に見知った顔を見つけた。
スウェイルが生垣の向こうを覗き見しているのだ。いったい何を見ているのだろう?
俺は興味本意で足音を忍ばせ彼女に近づいた。彼女が頭を少し覗かせて見ているものが、俺には少し離れても容易に確認する事ができた。
彼女の視線の向こうにはアシア様と婚約者のクレイグ様が。警護の途中だろうか、と思ったが彼女は私服を着ている。
近づけば近づくほど、彼女が誰を見つめているのかが分かってしまった。彼女はクレイグ様を見ているのだ。とても真剣な目つきで。
俺は嫌な考えを振り払う事が出来なかった。そう言えば彼女はクレイグ様と親密そうに話していたではないか。あれが彼女の素の表情だったとしたら?いつも俺に向けている笑顔は気を遣って作っているものだとしたら?
「スウェイル?」
我慢ができなくて声をかけた。
驚いた彼女は俺を見て、俺にも屈む様にと指示を出した。
彼女に何をしていたのか問うたが、答えは曖昧なもので、彼女は焦った様にその場を後にしたのだった。