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第6話:夏の終わり

夏の終わりが近づくにつれ、ユカリの心には少しずつ変化が訪れていた。

クジラとの出会いから始まったこの不思議な夏は、彼女にとってただの休暇ではなかった。


****


その日、ユカリは裏山へ行くのではなく、家の近くの河川沿いを一人で歩いていた。

河川の水面に夏の太陽が反射し、キラキラと輝いている。

川のせせらぎとともに、時折そよぐ風が彼女の頬を撫でていく。

ユカリは自分の中に広がっていく静けさを感じながら、ゆっくりと歩みを進めていた。


「もうクジラは現れないのかな……」


ユカリはつぶやいたが、心の中ではそれを寂しいとは思っていなかった。

あの日の海でクジラと再会したとき、彼女はすでに何かを受け取っていた。

その答えを完全に理解していなくても、彼女の中でそれは確かに存在していたのだ。


そのまま川沿いを歩いていると、ユカリはふと目を引かれる光景を見つけた。

それは、あの老人だった。

老人は河川の端に腰掛け、古びた扇風機を手にしていた。

彼の姿を見ると、ユカリは自然に彼のそばへと歩み寄った。


「お嬢ちゃん、また会ったな」


老人は静かに微笑み、ユカリに軽く手を振った。

彼の目はどこか遠くを見つめているようで、しかしその目には何かを知っているような優しさがあった。

ユカリはそっと隣に座り、しばらく無言で川の流れを見つめた。


「クジラ、もう現れないのかな……」


ユカリは静かに尋ねた。


「クジラはいつもお前さんの中にいるよ」


老人はそう答えると、川の流れをじっと見つめた。


「あのクジラは、お前さんの心が呼び寄せたものだ。

クジラは、君に大切なものを伝えたんだよ。

あとは、お前さん次第だ」


ユカリはその言葉を聞きながら、クジラとの出会いを思い出した。

夢の中で、そして現実で何度も現れたクジラ。

彼が何を伝えたかったのか、ユカリにはまだ完全にわからないが、そのメッセージは自分の中に確かに存在していると感じた。


「クジラは私に何を伝えようとしていたのかな……?」


ユカリがそうつぶやくと、老人は少し考えるようにしてから、ゆっくりと口を開いた。


「クジラはお前さんに、成長すること、変わることを教えたんだろう。

人生は海のように広くて、時に荒波が立つこともある。

それでも、泳ぎ続けることで前に進むんだ。

クジラはその象徴だったのさ」


その言葉を聞いたとき、ユカリはふと自分の心の中にある重みが軽くなるのを感じた。

クジラが伝えたかったのは、大人になるための勇気だったのかもしれない。

子どものころの無邪気な世界から一歩踏み出し、未知の世界へ進むための力。

それが、クジラが彼女に残してくれたものだった。


しばらくの沈黙のあと、ユカリはリュックから扇風機を取り出し、静かにスイッチを入れた。

風がゆっくりと流れ、彼女の髪を揺らした。

老人が持っていた扇風機も同じように回り始め、二つの風が河川沿いに広がっていく。


「もう一度、クジラに会える気がするんだ」


ユカリはそう言いながら、扇風機の風を感じた。


「お前さんが心で呼べば、いつでも会えるさ」


老人はにやりと笑いながら、風に身を任せるように目を閉じた。

そのとき、ユカリは遠くの空にふと目を向けた。

雲がゆっくりと動き、その形がまるでクジラのように見えた。

心が静かに満たされていく感覚が広がり、彼女はもう一度、大きく息を吸い込んだ。


「ありがとう、クジラ……」


ユカリは心の中でそうつぶやき、クジラとの出会いに感謝した。

そして、これから先、どんなことがあっても、自分は強く前に進むことができると確信した。


夏は終わりを迎えようとしていた。

蝉の声もどこか遠く感じられ、涼しい風が川沿いを吹き抜けていく。

ユカリは立ち上がり、老人に一礼して帰り道へと歩き出した。


****


家に戻ると、母親が夕飯の支度をしていた。

ユカリは微笑んで「ただいま」と声をかけ、リビングへと向かった。

夏休みの宿題がまだ残っていることに気づいたが、それでも心は軽やかだった。


窓の外には、夕日が美しく輝いていた。

扇風機の風が部屋の中を静かに吹き抜け、ユカリはその風に包まれながら、クジラとの夏の思い出を心の中でそっと振り返った。


クジラが空に姿を現すことはもうないかもしれない。

しかし、ユカリの心の中には、いつでもクジラが泳いでいる。


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