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第5話:扉

ユカリの夏は、クジラとの出会いを経て静かに変わり始めていた。

クジラが語りかけてきた言葉は、決して明確なものではなかったが、その意味が少しずつ彼女の心に浸透していくのを感じた。

あの瞬間から、ユカリの内側にあった何かが目覚め、周りの世界がいつもとは違う色合いを帯びて見えるようになったのだ。


その日、ユカリは裏山の河川へ向かった。

自転車を漕ぎながら、彼女はふと気づいた。

以前の自分なら何の変哲もないこの道や風景が、今はどこか特別なものに感じられる。

緑が鮮やかで、空はどこまでも高く広がっている。

まるで自分自身が新しい視点で世界を見つめているような気分だった。


「クジラが見せてくれたもの、私はまだよくわからないけれど……」


ユカリは心の中でそうつぶやく。

彼女にとって、クジラとの出会いは現実と夢の境界を揺るがすものであり、今までの自分とは異なる「何か」に触れている感覚を強く感じていた。

それは言葉では説明できないが、確かに存在しているものだった。


****


裏山に着くと、ユカリはいつものように河川の石に腰を下ろし、涼しい風を感じながら川の流れを眺めた。

風の音、木々の葉が揺れる音、そして川のせせらぎ――自然の音が彼女を包み込み、心を落ち着かせてくれる。

だが、その平和な風景の中に、ユカリは不安と期待が入り混じった感情を抱いていた。


クジラとの再会から数日が経ち、あの時の感覚は今でも彼女を支配している。

だが、同時に心の中にわだかまる疑問もあった。

クジラが彼女に伝えたかったことは何なのか。

なぜ自分が選ばれたのか。

そして、これからどうすればいいのか。


****


その夜、ユカリは再び夢を見た。

夢の中で、クジラは彼女の前に現れ、じっと彼女を見つめていた。

ユカリはその目に引き寄せられ、クジラに触れたいと手を伸ばしたが、すんでのところで目が覚めた。

胸がドキドキと高鳴り、夢の中の余韻が現実にまで続いているような感覚に襲われた。


****


次の日、ユカリは学校の夏休みの宿題に取り組んでいたが、全く集中できなかった。

頭の中には、クジラとの出会いや夢のことがぐるぐると渦巻いている。

母親がリビングで扇風機を回しながらテレビを見ている音が聞こえていたが、ユカリの意識は別の場所にあった。


「ユカリ、宿題は終わったの?」


母親の声に驚いて、ユカリは顔を上げた。

彼女はしばらく何も答えず、ただぼんやりと母親を見つめていた。

夏休みの間、宿題や日常の雑事に追われていたはずの彼女は、今や心ここにあらずといった状態だった。


「うん、まだ……」


ユカリは曖昧に返事をし、机に広げられた宿題のプリントをぼんやりと見つめた。

いつもなら嫌々ながらもこなしていた宿題が、今はまるで無意味に思える。

クジラと出会ってから、彼女の中で何かが変わり始めていた。

日常の中での些細な出来事や時間が、ただの「日常」とは違うものに思えるようになっていた。


その晩、ユカリはベッドに横になりながら、クジラのことを考え続けた。

夢の中でクジラが自分に触れそうだったあの瞬間、彼女は何かを感じた。

それは恐怖ではなく、不思議な安心感と温かさだった。

クジラはただの巨大な生物ではなく、もっと深い存在であり、自分の中にある何かを映し出しているように感じたのだ。


「私、どうすればいいんだろう……」


ユカリは天井を見つめながらつぶやいた。

これから何をすべきなのか、どこへ進むべきなのか、彼女にはまだはっきりとした答えはなかったが、クジラとの再会をきっかけに、何か大きな変化が起こりつつあることは確かだった。


****


翌朝、ユカリは早起きして海へ行くことに決めた。

クジラとの再会がもう一度あるかもしれないという希望を胸に、自転車で駅へと向かい、再び電車に乗った。

太陽が昇り始め、空が少しずつ明るくなっていく中、ユカリの心も新たな冒険に向けて期待で高鳴っていた。


海に到着すると、ユカリはリュックから扇風機を取り出し、ビーチに腰を下ろした。

波の音が静かに響き、太陽の光が水面を輝かせている。

その美しい景色の中で、ユカリはしばらく何も考えずにただ波を見つめていた。


しかし、ふと感じたのは、自分がもう子どもではなくなりつつあるということだった。

クジラとの出会いを通じて、彼女の中で何かが目覚め、成長していた。

子どもの頃の無邪気さや単純な喜びは、少しずつ消えていく。

代わりに、自分が何者であり、これからどう生きていくのかという問いが心の中で大きくなっていた。


「クジラが私に伝えようとしていることって……」


ユカリは自分の中で、答えが少しずつ見えてきたことに気づいた。

クジラは、彼女が大人になるための準備をしていることを教えてくれているのかもしれない。

世界は広く、美しく、そして時には残酷であることを示しているのかもしれない。

クジラはその象徴なのだと、ユカリは感じ始めていた。


夕暮れが近づき、ユカリはビーチを後にした。

帰り道、彼女は心の中に静かな決意を抱いていた。

大人になることは怖いものかもしれないが、それを避けることはできない。

クジラが教えてくれたものを受け入れ、新しい自分に出会うために、彼女はこの夏を越えていくのだ。


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