第4話:クジラとの邂逅
海からの帰り道、ユカリはクジラとの出会いの余韻に浸りながら、自転車をゆっくりと漕いでいた。
心の中にはまだクジラの大きな背中が残っている。
夢と現実が交差するような、不思議な感覚が彼女を包み込んでいた。
あの老人が言ったことは本当だった。
クジラは本当に彼女を呼んでいた。
だが、彼女が感じたのは、単なる興奮や驚きだけではなかった。
クジラはまるで何かを伝えようとしていた。
それが何なのか、ユカリはまだ理解できていなかった。
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家に着くと、母親が玄関先で植木に水をやっていた。
「ユカリ、どこに行ってたの?
今日は少し遅かったわね」
母親の何気ない声が現実に引き戻す。
ユカリは一瞬戸惑いながらも、微笑みを浮かべて答えた。
「ちょっと海に行ってきただけ。
涼しかったよ」
その言葉には真実が含まれていたが、クジラのことを話すことはできなかった。
自分でも信じられないような体験を、どう説明していいのかわからなかったのだ。
母親は特に深く追及することもなく水やりに戻り、ユカリはそっと部屋に戻った。
部屋の中は昼の暑さが残っており、彼女はリュックから扇風機を取り出すと、机の上にそっと置いた。
扇風機はまるで眠っているかのように静かだった。
海で見たクジラとの出来事が夢ではなかったことを、この同伴者が証明しているように思えた。
その夜、ユカリはベッドに横になり、天井を見つめながら考え続けた。
クジラはなぜ自分を呼んだのか。
そして、なぜ自分だけがクジラと繋がることができるのか。
夢の中であの老人が言った「特別」という言葉が、頭から離れなかった。
しばらくして、ユカリは再びあのクジラの夢を見た。
青い空の中、クジラがゆっくりと泳いでいる。
今回は以前よりももっと近くに感じられ、クジラの目がユカリをまっすぐに見つめていた。
言葉は聞こえないが、その目には何か大切なことが込められているように思えた。
目が覚めると、ユカリは夢と現実が再び交差していることに気づいた。
クジラは何かを伝えようとしている。
それが何なのか、ユカリは知りたくて仕方がなかった。
クジラの声が聞こえるという言葉の意味を、ようやく理解し始めていたのだ。
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翌日、ユカリは再び海へ行くことを決意した。
今回は、クジラがもっとはっきりと自分に語りかけることを期待していた。
リュックに扇風機を入れ、母親には「友達と遊びに行く」と嘘をついて早朝に家を出た。
海に向かう途中、彼女の心は少し高ぶっていた。
今日は何かが変わるかもしれないという予感がした。
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再びビーチに到着したユカリは、前回と同じ場所に座り、静かに海を見つめた。
太陽が照りつける中、彼女はリュックから扇風機を取り出し、そっとスイッチを入れた。
扇風機が回り始めると、風が彼女の頬に当たり、心地よい涼しさが広がる。
しばらくの間、何も起こらなかった。
波の音だけが静かに響き、海は穏やかに輝いていた。
ユカリは少し不安を感じ始めた。
クジラはもう現れないのかもしれない。
そんな思いが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
まだ何かが起こるはずだ、と自分に言い聞かせた。
すると、遠くの水平線の先に、再びクジラの背が現れた。
ユカリは息を飲み、じっとその姿を見つめた。
クジラはゆっくりと海面を泳ぎながら、今度はユカリに向かってくるようだった。
心臓がドキドキと高鳴り、体が自然に動き出しそうになるのを感じた。
クジラは再び目の前に現れ、ユカリに語りかけるようにじっと見つめていた。
扇風機の風が強くなり、彼女の髪が風になびいた。
その瞬間、ユカリの耳にクジラの声が届いた。
それは言葉ではなかったが、何か深いメッセージが心に直接響いてきたのだ。
「君は特別なんだ」
その声は優しくも力強く、ユカリの心に静かに刻み込まれた。
ユカリは涙が自然にこぼれていることに気づいた。
クジラが何を伝えようとしているのか、すべてはわからないが、確かに自分は何か特別なものに触れている。
それが何であれ、今はそれを受け入れることしかできなかった。
クジラは再びゆっくりと海へと消えていった。
波が静かに彼を包み込み、その大きな背中が見えなくなるまで、ユカリはただじっとその姿を見つめ続けた。
何かが変わった。
自分の中で何かが動き始めた。
そう感じる瞬間だった。
ユカリはリュックに扇風機をしまい、静かにビーチを後にした。
帰り道、心は穏やかで、クジラとの再会が自分にとってどれだけ大切なものだったかを噛みしめていた。
家に帰ると、夕日が沈みかけており、家の窓からは温かい光が漏れていた。
母親はまだ帰っていなかったが、家の中は静かで落ち着いていた。
ユカリは自分の部屋に戻り、扇風機を机の上に置くと、ふっと息をついた。
「私は、これからどうすればいいんだろう……」
そうつぶやいたとき、彼女の胸には新しい決意が生まれていた。