第3話:海への旅立ち
翌週末、ユカリは朝早く目を覚ました。
窓の外には夏の太陽が昇り始め、空がほんのりと赤く染まっている。
彼女は静かにベッドから降りると、両親に気づかれないように部屋の隅に準備していたリュックを肩にかけた。
その中には水着、タオル、飲み物……それに、あの古びた扇風機が入っている。
今日こそ、クジラと会える。
ユカリの心は期待と不安が入り混じりながらも、夢の中でクジラが自分に呼びかけた言葉を思い出していた。
「海に来て」
夢の中のその声は、今や現実の彼女を引っ張っているように感じられた。
両親に黙って出かけることには少し罪悪感があったが、ユカリはなんとなく、この旅が自分にとって重要なものだと感じていた。
いつものように母親が朝食の準備をしている前をそっと通り過ぎ、玄関のドアを開ける。
冷たい朝の空気が彼女を包み込み、心が落ち着いていくのを感じた。
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家を出て自転車に乗り、ユカリは風を切って近くの駅へと向かった。
電車で海まで向かう計画は初めての一人旅だったが、不思議と恐怖心はなかった。
それよりも、クジラに会えるかもしれないという期待のほうが勝っていたのだ。
駅に着くと、ユカリは自動券売機で切符を購入し、電車に乗り込んだ。
夏休みの朝の電車は思いのほか空いていた。
ユカリは誰もいないシートを一人で独占する。
電車がゆっくりと動き始めると、彼女は窓の外に広がる景色を見ながら、再びあの夢のことを思い出していた。
クジラが空を泳ぐという不思議な光景が、いまだに彼女の心に焼き付いている。
老人が言った「クジラの声が聞こえる」という言葉の意味も、まだ完全には理解できていない。
けれど、海に行けば何かがわかるかもしれない。
そう信じていた。
電車がしばらく走ると、やがて海が見えてきた。
太陽が高く昇り、光が水面に反射してきらきらと輝いている。
その美しさにユカリはしばし見とれていたが、同時に緊張感も増していった。
リュックの中の扇風機が、まるで彼女に「準備はできているか」と問いかけているかのように重く感じられた。
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電車を降りて海へと向かうと、夏の海水浴場はすでにたくさんの人で賑わっていた。
子どもたちの笑い声、ビーチボールの弾む音、波の音が一体となって夏の雰囲気を作り出している。
けれど、ユカリはその喧騒を避けるように、少し人の少ない静かな場所へと歩いていった。
海辺に辿り着くと、ユカリはタオルを広げて腰を下ろし、波が打ち寄せる音を聞きながらリュックから扇風機を取り出した。
扇風機はどこか錆びついていて、夏の日差しを浴びると古い鉄の匂いがした。
「本当にこれでクジラの声が聞こえるのかな……」
小さくつぶやきながら、ユカリはスイッチを入れた。
電源コードの他に、単三電池4つで動く造りだった。
扇風機がゆっくりと回り始め、かすかな風が彼女の頬に触れる。
しかし、特に変わったことは起こらない。
ただ、波の音が遠くから聞こえるだけだ。
「やっぱり、ただの古い扇風機だよね……」
そう思った瞬間、ユカリはふと耳を澄ました。
風に混ざって、かすかに何かが聞こえるような気がした。
それは波の音とも風の音とも違う、低く響く音だった。
ユカリは立ち上がり、海のほうへと目を向ける。
遠くの水平線に、何かが浮かび上がっているように見えた。
目を凝らして見ると、それは確かにクジラの背だった。
大きく、力強く、ゆっくりと水面を割って現れる姿が、はっきりと見えた。
ユカリの心臓が一気に高鳴り、思わず声を上げそうになったが、言葉にならなかった。
ただ、クジラの存在を目の前にして、彼女はその場に立ち尽くしていた。
クジラは彼女に気づいたかのように、ゆっくりと振り返るような動きを見せた。
その瞬間、ユカリは確信した。
夢の中で見たクジラが、今、現実の海に現れたのだ。
あの老人が言っていたことは本当だった。
クジラは、彼女を呼んでいたのだ。
しばらくの間、クジラとユカリは距離を置いて向き合っていた。
言葉はないが、クジラの目には何か深い意味が込められているように感じられた。
まるで、彼女に何かを伝えようとしているかのように。
その瞬間、ユカリは全身が震えるような感覚を覚えた。
「クジラ……」
彼女がその名を口にした途端、クジラはゆっくりと再び水中に沈み始めた。
大きな背が波の中に消えていくのを見送りながら、ユカリは胸の中に込み上げる感情を抑えられなかった。
まるで、長い間待ち続けていた何かが、今ようやく目の前に現れたという感覚だった。
扇風機の風は止まり、海辺には再び静かな波の音だけが響いていた。
ユカリはクジラが消えていった方向をじっと見つめたまま、胸の奥に何か暖かいものが広がるのを感じた。
それは恐怖ではなく、安心感とでも言うべきものだった。
ユカリは深く息を吸い込み、海の風を感じながら自分がこれまで見たもの、感じたものすべてを受け止めた。
クジラは確かにいた。
そして、彼女を呼んでいた。
何か大切なことを伝えようとしていた。
ユカリはタオルをたたみ、扇風機をリュックにしまうと、ゆっくりとビーチを後にした。