第2話:出会いと謎
次の日も、ユカリはいつもと変わらない朝を迎えた。
蝉の声が響く窓の外、眩しい夏の日差しが照りつける中で、彼女はゆっくりとベッドから起き上がった。
夢の中に現れたクジラの記憶は、彼女の心に深く残っていた。
しかし現実の生活は相変わらずのんびりとしたものだった。
朝食を食べ終えると、ユカリはいつものように自転車に乗って裏山へ向かった。
夢のことを考えながらも、その日もただ静かに川の流れを眺めるだけだろうと思っていた。
けれど、何かが彼女を裏山へと急かしているような気がしてならなかった。
自転車を漕いで裏山に向かう途中、太陽が頭上に昇り始める。
日差しはじりじりと肌を焼き、風は少しも涼しくはなかった。
しかし、ユカリの心にはあのクジラがまだ泳いでいて、どうしてもその夢が気になって仕方がなかった。
夢がただの夢ではないような、そんな不思議な予感がしていた。
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裏山に着くと、ユカリはいつものように自転車を木陰に停め、川へと続く小道を歩き始めた。
緑の匂いが鼻をくすぐり、川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。
彼女は川に着くと、石に腰を下ろし、冷たい風を感じながら静かに過ごすことにした。
やはり今日は何も起こらない、そう思っていたその時だった。
「お嬢ちゃん、こんなところで何をしてるんだ?」
突然の声に驚いて振り向くと、そこにはぼろぼろの服をまとったホームレスの老人が立っていた。
彼の顔は日に焼け、長い白髪と髭が無造作に伸びている。
彼は手に古びた扇風機を持ち、ユカリにじっと視線を向けていた。
「こんにちは……」
ユカリは驚きながらも小さく挨拶を返した。
老人はにやりと笑い、ユカリの隣に腰を下ろす。
彼の持つ扇風機は古くて錆びついており、どこか使い物にならないように見えた。
けれど、彼の目には何か不思議な光が宿っているように思えた。
「お嬢ちゃん、クジラの夢を見たんだろう?」
老人は唐突に言った。
ユカリは驚いて老人の顔を見つめた。
どうして彼がそのことを知っているのか、答えが見つからないまま、彼女は思わず頷いた。
「おかしなことに、あんたが来るのを待っていたような気がするんだよ」
老人は静かに言い、古びた扇風機をユカリに差し出した。
「これを持っていくといい。
この扇風機を回せば、クジラの声が聞こえるはずだ」
ユカリはその言葉に戸惑いながらも、なぜか抵抗することなく扇風機を受け取った。
何か特別なものがあるようには見えなかったが、老人の真剣な表情に、彼女もつい信じてしまったのだ。
「でも……どうして私にこれを?」
ユカリは扇風機を手にしながら尋ねた。
老人は少しの間、黙って遠くを見つめていた。
やがて静かに口を開き、ぼそりと答えた。
「お嬢ちゃんは特別だからだよ。
クジラが空を泳ぐのを見る者は、昔から限られている。
お前さんにはその力がある」
老人の言葉は不可解だったが、ユカリはその意味を深く追求する気にはなれなかった。
彼の言葉には何か引きつけられるものがあったのだ。
彼女はただ黙って頷き、古びた扇風機を抱えた。
「ありがとう……」
ユカリは小さな声で礼を言った。
老人はにやりと笑い、手を振って去っていった。
彼が去る後ろ姿を見送りながら、ユカリはふと気づく。
扇風機を抱えていると、何かひんやりとした感覚が腕に伝わってくるのだ。
それは単なる風の冷たさではなく、どこかクジラの泳ぐ海の冷たさに似ている気がした。
****
その日の夕方、ユカリは家に帰り、扇風機を自分の部屋に持ち込んだ。
夕日が窓から差し込み、部屋の中はオレンジ色に染まっている。
ユカリは夢の中でクジラが泳ぐ姿を思い出しながら、そっと扇風機のスイッチを入れてみた。
古びた扇風機はゆっくりと回り始め、風が部屋中に広がった。
音は少しうるさく、風量も強くはなかったが、どこか懐かしいような感覚がユカリを包み込んだ。
しばらくの間、ただ扇風機の音を聞いていたが、クジラの声はどこからも聞こえてこなかった。
「やっぱり、何もないのかな……」
少し失望しながらも、ユカリは扇風機を止めた。
そのままベッドに横たわり、天井を見つめながら、クジラのことを再び思い浮かべる。
老人の言葉、クジラの夢、扇風機……。
それらすべてがつながっているような気がしてならなかった。
****
その夜、ユカリは再びクジラの夢を見た。
今度の夢では、クジラがさらに近づいてきていた。
青い空を泳ぎながら、ユカリに語りかけるように見つめてくる。
しかし、言葉は依然として聞こえない。
ただ、クジラの目が何かを訴えているような気がした。
翌朝目を覚ますと、ユカリの頭には老人の言葉が浮かんだ。
「クジラの声が聞こえるはずだ」という言葉が何を意味していたのか、彼女にはまだ分からなかった。
だが、それがただの夢や空想ではなく、何か現実的な意味があるように思えてきた。
ユカリは決意を固めた。
次の週末、彼女は海へ行ってみることにした。
クジラが夢の中で「海に来て」と語りかけたように感じたからだ。
両親には秘密にして、彼女は水着を用意し、扇風機を持って海へと向かうことを決めた。