死人にクチナシ
「何を読んでいるの?」
その日、突如として病室にやってきたのは一人の少女だった。
自分と同じ、真っ白な病院服を身に纏った少女は、開け放たれた扉の外から、読書をする僕に、そう声をかけてきた。
僕はその少女の姿をじっと見つめたあと、目を離した文字に目を向け直す。
質問に対して僕が答えなかったため、少女はなんの挨拶もせずに部屋に入ってきて、僕の手元の本の小説のタイトルを見つめる。
「難しい本?」
「……君にはそうかもしれない」
「面白い?」
「さぁ。」
「面白くないのに読んでるの?」
「暇だからね」
少女の明るい声音に比べ、僕は端的な暗い口調で答える。
彼女に対して興味がないからだ。
どこの病室の子だろう。
なんでここに来たんだろう。
きっと看護師さんたちが探してる。
そんなことも全く頭に浮かぶこともなく、ただ髪の上に書きつなられた文字を目で追っていく。
「それはもう読んだの?」
戸棚の上、積まれた本を指差す少女。
先ほどと同じように、もう一度文字から目を離して、少女の指さす方に視線を向ける。
読み終わったのか読み終わってないのかと聞かれたら、僕は「わからない」と答えることになるだろう。
適当に手に取って読み、読み終わったら積み上げて次のを読む。
もしかしたら、まだ読んでない本もあるかもしれないし、読んだ本を何回も読み直してる可能性もある。
今の僕に取って、あの積み上げられた紙の束は、ただの暇つぶしでしかない。
「読んでいい?」
「……好きにするといい」
僕はもう一度文字に目を向け直す。
僕の許可を得たことで、少女は積まれた本の一冊を手に取って、窓際の席で読んでいた。
さっきまでのおしゃべりはなくなり、真剣に本を読んでいた。
病室の外からは、彼女と同じくらいの年頃の子どもたちの声が聞こえる。
騒がしいのは嫌いだ。だから、彼女が黙って本を読んでくれるのは僕に取ってはありがたかった。
検査で看護師さんが部屋を行き来しても、彼女は黙って本を読んでいた。
帰ったのは、夕食が運ばれてくる時間帯になってからだ。
「また読みにくるね」
その宣言通り、その日から少女は毎日のように部屋にやってきた。
時間は主に、昼食が終了してから夕食が開始される前まで。
お互いに会話などはなく、ただ紙に書かれた文字を追っていくだけ。
ただ、それだけだった。
「ここにいていいのかい」
そんな沈黙を破って口を開いたのは、意外にも僕だった。
文字に目を向けたまま。窓際にいる彼女にそう言葉を投げかけた。
「うん。どうせ、検査したところで結果は変わらないから」
「というと」
「私の病気治んないんだって。いわゆる不治の病。だから、楽に死なせる準備を今してるんだって」
「……そうか、君のは治らない病気なのか……羨ましいな」
ポツリと溢れた言葉。
その言葉に、少女は目ざとく反応し、本を閉じて僕の元へやってきた。
「羨ましいって?」
「……僕のは治る病気らしい。でもね、もう何年も入院している」
治るとは言っても、絶対に治るとは限らないとそう言われた。
正直、中途半端な状況は嫌いだ。治るか治らないか。それをはっきりさせてほしい。
長い間こんな箱の中に押し込められているせいで、もう感情がすり減っている気分だ。
今更医師に治るか治らないか、どちらかはっきりした言葉を言われても、僕の感情が激しく動くことはない。それほど僕は、もう長く今の立場にいすぎた。
「きっと、その後のことを考えてないからだよ」
「その後?」
「治った後、治らなかった後のことだよ」
その後のこと?
考えるだけ無駄だろう。
今の僕に、生きる意味も死ぬ意味も等しく同じだ。
生きても今と差して変わらない。死んだら、「あぁ死んだのか」たったそれだけだ。
「わかってないなー。治ったら、また私と一緒にいられるでしょ?治らなかったら、一緒に天国に行けるでしょ」
「……どうして君と一緒なんだい?」
「んー、私が一緒にいたいから」
少女はにっこりと笑みを浮かべる。
一緒……誰かと一緒……
そういえば、今の僕のそばに誰か居ただろうか。
家族ももう長く見舞いに来ない。連絡を取り合う友人もいない、心配してくれる恋人がいるはずもない。
今の僕は、たった一人でこの白い箱の中に押し込められている。
「一人は寂しいもんね」
寂しい……そう、寂しい……
長らく感じなかった感情の一つだ。
だったらきっと、僕はあのとき嬉しかったのかもしれない。
この子が部屋にやってきて、僕に声をかけてくれたことを。
僕のそばで、ずっと本を読んでいることが。
この小さな少女が、こんな僕と一緒にいてくれることが。
「大丈夫だよ。わたしはずっと一緒にいてあげる」
「……あぁ、よろしく頼むよ」
「うん!任せて!」
それから数ヶ月後。
結果として私の病は治らないものと判明した。
医者からは謝罪をされたが、私はため息のように「そうですか」と言葉が出たが、不思議と口元が緩んでしまった。
治らないということは、私はこのまま死んでしまうのかと思った。
だけど、不安はなかった。
それは、彼女が一緒に天国に行ってくれると言ってくれたからだ。
寂しくないように、一緒に……
さぁ、ベットに横になって目を閉じよう。
そうすればきっと、次に目を覚ましたとき、彼女はやっと……僕の手を取ってくれるだろう。
それは、とある病院で密かに語られた噂話。
男は死の間際まで、誰もいない窓際の席に向かって言葉を投げていたと。
目撃した看護師の話では、それはとても幸せそうだったとか……
【完】