第二節.落下系少女と土着系百姓
「恐れながら……山中におられたこと、もしや身に覚えがございませんか?」
富士重はやや頭を持ち上げながらも伏し目がちに問いかけた。それを見た鷹丸は全身の血が一気に冷え上がる感覚に襲われる。
――兄貴! ヤバいって! 頭、頭!
横目で必死に訴えながら声の通らぬ口を激しく動かす鷹丸。そんな鷹丸の心配を余所に少女と富士重は何事もなく会話を続けていた。
「はい。なぜ私はそのような場所で寝ていたのでしょう?……」
「眠りにつく以前の記憶はおありですか?」
「眠る前……そう、ですね……確か……そう、駕籠に乗せられて長々と運ばれていたような……」
「駕籠、ですか?」
不思議な温かみを持ちながらも良く言えばおっとりとした、悪く言えば間の抜けた少女の口調は場に満ちていた何とも息苦しい重圧感を押しのけていく。その緩んだ雰囲気に流されるように鷹丸が頭を上げかけると、隣に控える茄蔵がパッと上半身を持ち上げた。
「あのぉ、あんた、空から下りてきた天女様じゃねぇんかい?」
「バッ! このバカ! 申し訳ありません!」
鷹丸は起き上がって茄蔵の頭を掴むと、地面に叩きつける勢いで押し下げた。
「あの、本当に……それにそのような場所では膝を痛めてしまいます。どうか皆様もこちらへお上がりください」
「そんな、滅相も無いことでございますです! 俺ら土に生きる者は足腰の丈夫さには自信がありますゆえ、なにとぞご心配無く願い奉ります!」
茄蔵の頭を掴んだまま自身も深く頭を下げる鷹丸。少女は明らかに困惑していた。
「あの、どうか……」
「鷹丸、姫君が困っておられる。ここは不躾ながらお言葉に甘えるとしよう」
「いや、しかし兄貴……」
富士重は心配する鷹丸を尻目にその場を立ち上がると、軽く一礼をして板の間へと腰を下ろした。そして相変わらず地べたに伏せている弟達に目を向けると「さぁ、お前達も早くこちらに座りなさい」と促す。鷹丸は戸惑いながらも上目遣いに少女を見上げた。少女は穏やかな笑みを浮かべながら「こちらへ」と、鷹丸達を優しく誘った。
「まずはお礼を述べねばなりません。これまでのこと、本当にありがとうございました。あなた方が気付いてくださらなかったらこの身がどうなっていたことか……」
少女が恭しく頭を下げると鷹丸も慌ただしく頭を下げた。その様子に含み笑いを隠しつつ富士重は会話を切り出した。
「それで、先程の話なのですが、弟達は姫君が天から降りてくる様子を見たと申しておりました――」
「いえ、あの! はっきりと見たわけでは無いのですが……」鷹丸が慌てて口を挟む。
「そこで私はあなた様が天上世界からおいでになった天女様ではないかと推察していたところなのですが、相違ございませんか?」
「私が、天から?……そうなのでしょうか?」
少女は不思議そうな表情を浮かべながら、まるで自分に問いかけるようにつぶやいた。
「……姫君は先程、駕籠に乗って移動していたとおっしゃいましたが、それ以前はどちらにいらしたのでしょうか?」
「……駕籠に乗る以前……たしか……そうです、屋敷の部屋に居たところを“出発のお時間です”と、誰かに声をかけられて……」
「屋敷ですか。――どなたのお屋敷でしょうか?」
「……どなたでしょう?」
「姫君が住んでいたお屋敷ではないのですか?」
「私が?……そう、なのかもしれません」
「……あの、それは空の上にあるお屋敷ってことでしょうか?」と、再び鷹丸が口を挟む。
「どうなのでしょう?……」
「どうなのでしょう……」
暖簾に腕押し、糠に釘。煙を斬るような手応えの無い会話に鷹丸は意図せず少女の言葉をくり返した。どうもこの姫君は様子がおかしいぞ。そんな感覚が無言のうちに兄弟間を伝播し、如何ともしがたいもどかしさに富士重と鷹丸は次の言葉をためらっていた。
――このかたは本当に天女様なのか? どこかのお偉いさんの娘さんじゃねぇのか? いや、それじゃぁ天から下りてきた説明がつかねぇ。……もしや……その目に余る間抜けぶりに業を煮やした神様が「こんなとぼけたヤツなど山の獣にくれてやれ!」と家来に命じて捨てさせた見るも憐れな天女様……なのか? いやいや、待て待て、頭のことを言うなら地面に落下した衝撃でどうかしちまったって可能性もある。だとすると天女様ってのは随分体が丈夫なんだな……
聞こえないことをいいことに鷹丸が好き勝手に思考を巡らせていると、黙って話しを聞いていた茄蔵が不意に笑いだした。
「ははは、なぁんだ、まるで覚えてねぇんだな。まぁ、でも、こんな綺麗な格好で駕籠に乗って出かけるくらいだぁ、やっぱり偉い人には違いねぇよ。なぁ、富士兄ぃ?」
「ん? あぁ、そうだな。しかし姫君の素性が分からぬ以上次の手の打ちようがない……仕方がない、ここは長老様に事情を話して今後のご判断を仰ぐとしようか」
「小助爺か。じゃぁ、俺がひとっ走り行ってくる!」
鷹丸はすぐに立ち上がると富士重が呼び止める声も聞かず大急ぎで家を後にした。
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
少女がすまなそうに頭を下げる。富士重は気にしないよう少女を気遣うと顔だけを茄蔵のほうに向け、少女の世話は自分がしているから改めて薪を集めてくるよう伝えた。茄蔵が同意して家を後にすると狭い屋内には少女と富士重の二人だけが残された。
こんな場所ではさぞかし退屈だろうと富士重はそれとなく少女に目を向けた。少女は無表情のまま虚空を見つめているようだった。さて? 何か珍しい物でも置いてあったかと富士重は少女の視線を追ってみるが、目に付くのは陋居の土壁ばかりである。屋敷住まいが長いとこんなボロ屋の壁面でも一時の慰みになるものかと、首をかしげながら少女を横目に見るもその視線は依然として動く気配がない。
「――やはり、下々の家は珍しいですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「お屋敷から出られたのは今回が初めてですか?」
「はい。……だと思います」
「駕籠に乗ったのは今朝早くでしょうか?」
「そうです。今日も朝早くから出発しました」
「……今日も、ですか?」
「はい。今日も昨日もその前も。朝早くから駕籠に揺られておりました」
「今日も昨日も? お待ちください、お屋敷を出られたのは今朝ではないのですか?」
「屋敷を出たのは三日ほど前だったはずです」
三日前……富士重は少々面食らっていた。
――てっきり今朝早くに屋敷を出たと思っていたが……しかし三日とは結構な距離だ。宿をとりながらここまでやってきたというわけか。いや待て待て、そもそも天上世界にも旅籠屋があるのか? いや、もちろん無いとは言えないが……この姫君、やはり我らと同じ地上に住むお方なのでは?
「屋敷の場所は分かりますか?」
「場所……いえ……」
「姫君はずっとお屋敷に住んでいらしたのですよね?」
「……だと思います」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
「すいません……」
「いえ、姫君を責めているわけではございません。ただ、これまでの生活に覚えが無いというのは奇妙な気がいたしまして」
「すいません……」
「では、どこに向かっていたのかはご存じですか?」
「あの、それも……すいません……」
申し訳なさそうに謝罪を繰り返す少女を見て富士重はこの少女をなぶりものにしているような罪悪感を覚えた。相手は高貴なお方だ、きっと我々には言い難い秘密もあるのだろうと一人納得した富士重は、それ以上の質問を控えることにしてゆっくりと立ち上がった。
「では、私も仕事が残っておりますので外に行ってまいります。家のすぐそばにおりますので、何かあれば遠慮なくお呼びください」
「仕事?……そうですか、お気をつけて」
「ご不便をおかけしますが、どうぞゆっくりなさっていてください」
「ありがとうございます」
家の外に出た富士重は大きなため息をついた。結局少女が何者でなぜ山中に倒れていたのかは分からず終いだった。富士重は青く透き通るような大空を見上げた。絶好の洗濯日和である。少女のことは一旦置いておいて、まずはやり残していた洗濯を終わらせてしまおう。
富士重がそう思った矢先、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「兄貴ぃー! 小助爺が来たぞぉー!」
声の先には嬉々として走る鷹丸の姿が見えた。