第一節.兄貴! 空から女の子が!
「兄貴ぃぃぃぃ!」
外で井戸水をくみ上げていた富士重は遠方から響く聞き慣れた声に顔を上げた。見れば血相を変えた鷹丸が家へと続くあぜ道を猛然と走っているではないか。先程山へ薪集めに行ったはずだが随分と戻りが早すぎる。しかもその後方には何やら緑色の衣をかかえた茄蔵が兄に遅れまいと必死に追いかけているようだ。
――さては山で何かあったな?
富士重は視線を手元に戻すと、水で満たされた釣瓶をゆっくりと引き上げ井戸の脇へと下ろした。細い体をエビのように反らし、大して痛くもない腰を叩いていると、酷く高揚した鷹丸が今から襲い掛からんばかりの勢いで目の前に駆け寄ってくる。
富士重は落ち着いた様子で「そんなに慌ててどうした?」と問いかけた。
「あ、兄貴、た、大変なんだ、山で、やま……」
そこまで喋ると鷹丸はそばにあった釣瓶を掴むなり中の水を浴びるように飲み始めた。折角くみ上げた洗濯用の水を……と思いながらも、富士重は余計なことを口にせず再び質問を投げかける。
「落ち着け鷹丸。山で何があった?」
浴びるように釣瓶の水を飲みほした鷹丸は何とか声を絞り出そうと荒れた呼吸を整えているようだった。
「はぁ……はぁ……あ、兄貴……はぁ……はぁ……娘子……娘子が降ってきた!」
「娘子?」
「あぁ、娘子だ! はぁ……はぁ……空から下りてきて……山の中で倒れてたんだよ! はぁ……死んでるのかと思ったら……どうも生きてる風だったから、急いで連れてきた!」
「鷹丸、お前何を――」
「富士兄ぃ!」
遅れて到着した茄蔵も富士重のそばまで走り寄ると、抱えてきた衣の塊を差し出しながら「これ……」と言って少女の顔を見せた。
鷹丸よりも小柄なその少女は白小袖に薄桃色の単衣を身にまとい、その上から亀甲地に向蝶の丸紋が描かれた花緑青の袿を羽織っていた。
少女を確認した富士重は狼狽する弟達とは対照的に妙に落ち着いているようだった。
――何を拾ってきたかと思えば犬猫ならぬどこぞの姫君とは……随分と高貴な方のようだが、はてさて困ったな……。
富士重は拳を口元に当て何かを思案しているようだったが、やがておもむろに口を開いた。
「とりあえず家の中で寝かせてあげよう。鷹丸、綺麗な藁束を見繕って持ってこい」
「お、おう」
鷹丸がそばにある粗末な納屋に走って行くと、富士重と茄蔵は連れ立って家の中へと入って行った。
鷹丸の敷いた藁の上に少女を寝かせ茄蔵は水を飲みに表へと出ていった。板張りの床に少女を挟むように座った富士重と鷹丸は、かすかな寝息を立てるその顔を心配そうに覗き込んだ。
「しかし驚いたな……鷹丸、もう一度順を追って話してくれるか?」
ようやく落ち着きを取り戻した鷹丸は「あぁ」と言ってうなずくと、事の次第を富士重に説明し始めた。
◇
「なるほど、不思議なこともあるものだ……」
鷹丸の話しが一通り終わると富士重は何かを考え込みながらつぶやいた。
「もしかして化け物の類いかな兄貴? 連れてきちゃマズかったか?」
「いや、そうは見えないな。……この整った顔立ちといい高貴な衣装、恐らく随分と身分の高いお方なのだろう」
鷹丸は、“なるほど”といった面持ちで深くうなずいた。
「しかし、天から下りてきたというのは解せない話だな」
「気付いたときには森の中に消えていたんだ。ひょっとしたら俺の見間違いだったのかもしれねぇ……」
「いや、目の良いお前が見間違えるとは思えない。事実、この少女が居たわけだからな」
「まぁ、そうなんだよな……」
それから二人は黙り込んだままこの状況を合理的に説明できるだけの理由探しに苦心していた。すると入り口の戸が開き、茄蔵が「あー、生き返ったぁ」と言いながら幸せそうな顔で入ってくる。二人は茄蔵に目もくれず静かに思考を巡らせていた。茄蔵は土間から上がると考え込む二人の兄を見比べながら静かに胡坐を組んだ。
鷹丸の脳裏には“天女”の2文字が浮かんでいた。しかしそれを口にすることはなかった。天から降りてきた高貴そうな女性だから天女とはいかにも安直すぎる。「おとぎ話でもあるまいに……」と、富士重が失笑する姿が目に浮かんだ。
「……恐らく、そういうことだろう」
長い沈黙のあと富士重は低い声でつぶやいた。寺の住持からも“村随一の知恵者”と評される富士重なら何か分かったに違いない。弟達は羨望の目で長兄を見つめた。
「何か分かったのか兄貴?」
解答を急ぐ鷹丸をじらすかのように一拍を置くと、富士重は少女を見ながら「天女様だ」と言った。茄蔵が「おぉ」と感嘆の声を漏らす。
「て、天女、様……?」
鷹丸は呆気にとられながらもすぐに自分の考えを改めた。
――いや、博識な兄貴が言う“天女様”は俺が軽々に思いついた“天女様”とは全くの別物だろう……きっと高い知識と深い考えの末に辿り着いた俺なんかには想像も及ばない理由が――
「高貴そうな女性が天から降りてきたのだ、天女様で間違いないだろう」
透き通るような眼差しで淀みなく言い切る富士重。その視線は鷹丸へと流れ、深いうなずきを以て揺るぎない確信を明示する。鷹丸はうなずき返す以外に術を持たなかった。
「……しかし兄貴、何で天女様がこんな寂れた場所に?」
「そこは俺にも分からない。目を覚ましたら聞いてみるしかあるまい」
「なぁ富士兄ぃ、そんな偉い人ならこんな汚ねぇ場所に寝かしといていいのかなぁ?」
「うん、全くお前の言う通りなんだがウチには畳など無いからな……」
「喜一郎様の家から畳を借りてくるってのはどうだ?」
身を乗り出しながら鷹丸が言った。
喜一郎は領主からこの瀬川村の管理を任されている沙汰人であり、数年前に先代である父親が病死してからはその役を世襲していた。常に不愛想ではあるが必要以上に税を徴収したり無駄に威を誇示するような高圧さは無く、村に窮状があれば領主と村民の間に入って真摯に相談に乗ってくれる、そんな情の厚さを持ち合わせた男であった。
「確かに妙案だが喜一郎様は昨日から遠方にお出かけだと聞いている。留守のところに俺達若衆が行ったところで門前払いされるだけだろう」
「――ゴザじゃダメかなぁ?」腕組みをしながら茄蔵がつぶやく。
「そうだな……この際しょうがない。しかし、ただゴザを敷いただけではきまりが悪い。なにせ相手は天上人様だ。失礼があってはいけない」
弟達はもっともだと黙ってうなずいた。
「そうだな、何か高座の代わりとなるような物でもあれば良いのだが――」
富士重が思案しながら何気なく少女の顔に視線を落とすと、少女はいつの間にか目を覚ましていたようだった。見つめ合う二人。富士重は努めて平静を装いながら笑顔を浮かべた。
「……これはこれは、お目覚めでございましたか?」
富士重の言葉に少女は控え目にうなずくと、長い髪に藁を絡み付けたままゆっくりと上半身を起こした。富士重が落ち着いた足取りで土間に降り膝を折ると、それを眺めていた鷹丸は突然弾かれたように飛び上がり兄の後を追って隣で平伏した。
「おい、茄蔵!」
鷹丸が怒り気味に声を上げると、ぼーっと少女を見つめていた茄蔵は突然我に返ったように「あっ!」と声を漏らし、慌てて兄達の横に駆けつけた。
「あの、ここは?……」
屋内を見回しながら少女は誰にともなく問いかけた。その落ち着いた声色は優雅な気品を伴って三人の耳に響いていた。
「ここは瀬川村という山間の小さな村でございます。先程、私の弟共が近くの山中に臥して有らせられたあなた様をお見受けし、獣や妖共に襲われては一大事と考え、心苦しくもこのようなあばら家までお連れした次第にございます」
「そうでございます!」
「ごぜぇます」
三兄弟が答えると少女は困ったような面持ちで土間を見下ろした。
「あの……そのように恐縮なさらずに、どうか面をお上げください。……そうですか、私が山中で……」
少女の言葉にも三兄弟は依然として顔を上げようとはしなかった。特に鷹丸の内心は穏やかではない。今、目の前におられる方は神々の領域に住まう天上人。もしもバカ正直に顔を上げようものなら「無礼者!」の怒号と共に稲妻の一つや二つ落とされても不思議ではないと考えていたからだ。