序節
大陸から離れ大小の島が寄り添うように浮かぶ東雲列島。未だ魑魅魍魎がはびこるこの島は人間同士による群雄割拠も久しく鳴りを潜め、人々は天子を頂点とした朝廷による統治のもと大きな争いも無い平和な世を謳歌していた。
ここ中州国はそんな東雲本島の中ほどに位置する国。風光る空のもと天上に流れる少女は今まさに辺境の山地へと降り立とうとしていた。
――少女の正体と太平の世に暗躍する悪僧の淫謀とは? 中州国を股に掛け、少女と若き百姓兄弟たちが繰り広げるてんやわんやの珍道中。
春の日差しを受けた大麦の大海が緑の波を打ち、涼やかな一陣の風がまだ幼さを残した青年の頬を優しく撫でていく。十八歳にしてはやや小柄な鷹丸は身の丈に迫るような大きなノコギリを担ぎながら肩で風を切るように土手沿いの道を闊歩していた。
「茄蔵、お前もっと早く歩けねぇのか? そんなんじゃ日が暮れちまうぞ」
鷹丸は止まることなく背後を振り返ると、そのまま後ろ向きに歩きながら自分よりも一回りも二回りも大きい弟に声をかけた。
「鷹兄ぃが早すぎるんだよぉ。そんなに急がなくても森の木は逃げねぇよ」
「あのなぁ、木が逃げるとかそういうことじゃねぇんだよ。お前がトロいから森に着くころには日が暮れちまうって言ってんだよ」
鷹丸は笑いながら茄蔵に背を向けると担いでいたノコギリを両手で握り、刀に見立てて素振りを始めていた。
「――なぁ鷹兄ぃ、昨日の晩方の話だけど……本当に村を出るのか?」
「おうよ。やっぱり俺に土いじりは性に合わねぇ。刀一本で身を立ててみせるぜ」
「そりゃぁ、鷹兄ぃの腕は大したもんだけどよぉ……俺ぁ、やっぱり心配だで」
実際、鷹丸の剣術の腕には非凡なものがあった。
小さな頃から事チャンバラごっこに関しては村内の子供はもとより、たとえ相手が年長者であろうと鷹丸に敵う者はいない程であった。その腕前は村内だけに留まらず、時には村を荒らしに来た小鬼の群れを木刀一本で迎え撃ち、逃げ惑う村民達を尻目にたった一人で撃退してしまうことも一度や二度ではなかった。
「まぁ、つってもよ、刀を買う銭が貯まるまでは野良仕事に精を出すさ」
鷹丸は無理に笑顔を作ったが、うつむいたままの茄蔵は兄の顔を見ようとはしなかった。ばつの悪さを感じた鷹丸は再び前を向くと仰々しく大股で歩き始めた。
「しっかし、春も半ばだってのにこの暑さは何だよ。これで蝉でも鳴いてりゃ立派な夏だぜ、なぁ?」
季節を取り違えたようにジリジリと照り付ける太陽を見上げながら鷹丸は眩しそうに眼を細めた。
往生際の悪い寒さもようやく自制心を覚えたようで、ここ数日は小躍りしたくなるような穏やかな日和が続いていたのだが今日に限ってはお天道様の様子が一変し、村は異常な暑さに見舞われていた。確かに暖かいに越したことはないがいくらなんでも度が過ぎるだろう。鷹丸は心の中で毒づいていた。
とは言えあまりお天道様に悪態をついてバチでも当たっては大変だ。鷹丸は太陽から目を背けると、見慣れた山の峰へと視線を移す。視線の先にそびえる三降山はその巨体に緑の木々を体毛のように茂らせ、いつもと変わらぬ泰然とした姿で鷹丸を見下ろしていた。
古来より麓の生活を支えてきた三降山は、その豊かな恵みと雄々しい立ち姿から村民達の信仰対象となっている。また山頂付近には三降権化と呼ばれる霊力を持った狸が住んでいると信じられており、村の衆からは山の神様として畏敬の念をもって崇められていた。
鷹丸と茄蔵は家で使う良質な薪を集めるためその三降山へと向かっている最中であった。
「ん?」
そんな折、視界に違和感を感じた鷹丸は思わず足を止めた。そして残光にかすむ目を細めながら麓の一角へと視線を走らせる。瞬く間の出来事にはっきりとは確認できなかったが、それは鳥のような翼を持った人影が吸い込まれるように木々の間へと下りていったように見えた。
――鳥?それにしては随分大きかったような……。
腑に落ちない思いを抱えながら鷹丸は思い出したように後ろを振り返った。
「今の見えたか?!」
茄蔵は相変わらずうつむいたままだった。
「茄蔵! 今、大きい鳥みたいのが森に下りてったろ?!」
「――鳥ぃ? そりゃ鳥だってずっと飛んでりゃ疲れて休みたくもならぁよ」
「そういうんじゃねぇよ! なんか、こう、大きな影がスーッと森の中に吸い込まれていくような……」
「森に吸い込まれるって、飛んでる鳥がババでも垂れたんか? 鷹兄ぃは目がいいなぁ」
「は? ちげぇよ! あっちの森にでっかいヤツがスーッてな……」
「そんなにでかいババなら、こっちでひられなくてよかったよなぁ」
「お前! ……もういい、先に行ってるぞ!」
「――え? あ、鷹兄ぃ待ってくれよぉ!」
気のない返事をする弟に不快感を感じながらも先程の影に妙な胸騒ぎを覚えた鷹丸は、呼び止める茄蔵を置き去りにして森へと続く道を走り出していた。
――何か良くねぇ化け物の類いじゃねぇだろうな? ……だとしたら村に近づく前に確認しとかねぇと!
上り勾配の荒れ地をものともせず鷹丸は森の伐採場所まで一足飛びに到着した。そして地面から無数に顔を覗かせる切り株の一つに飛び乗ると、呼吸を整えながらまだ伐採の手が入っていない森の奥へと目を向けた。
――この奥に下りたはずだ……。
通り抜ける風が木々の枝葉を揺らし、地面から香り立つ腐葉土の匂いと時折聞こえる鳥の声が昂る精神に不思議な安心感を与えてくれる。しかし今の鷹丸にはその安心感の裏に何か得体のしれない化け物が潜んでいるようにも思われ、かえって警戒心を強めずにはいられなかった。
辺りを見回し何か手ごろな棒でも落ちていないかと探してみたが鷹丸の意に適う物は見当たらなかった。
――これだけ木に囲まれながら丁度良い棒の一つもねぇのかよ……
帯に短し襷に長し……こんなことなら愛用の木刀を持ってくればよかったと考えながら何の気なしに右手のノコギリを団扇のように揺らしてみた。柄の先に付いた薄い金属刃が滑稽な音を鳴らしながら頼りなく左右に揺れている。
――何も無いよりはマシか。
鷹丸は勢いよく切り株から飛び降りると、心中に沸き上がる様々な感情を押さえつけながら森の奥へと踏み入った。
――まだ化け物と決まったわけじゃなし……よく見えなかっただけで大き目の鳥が羽休めに下りてきただけかもしれねぇな。 ……まぁ、でかいクソってことだけは無いと思うが……。
周りに気を配りながらも鷹丸は先程見た記憶だけを頼りに森の奥へと進んでいった。ところがどれだけ進もうが化け物はおろか野生動物の一匹にすら目にすることはなく、何かが下り立ったような痕跡さえも見つけることができない。
見当をつけていた場所よりも随分奥まで来てしまったことに気が付いた鷹丸は、これ以上奥に進めば三降権化様の祟りがあるかもしれないと、止む無く来た道を引き返し始めた。
――おかしいな、本当にただの鳥だったのか……?
伐採場所へと戻りながらも未だに未練を捨てきれないその歩みは、僅かな希望を追い求めるように右へ左へと大きく蛇行していた。
「――鷹兄ぃ! おーい!」
しばらくして鷹丸を呼ぶ声が森の中に届く。どうやら茄蔵も伐採場所まで到着したらしかった。鷹丸は歩きながら小さくため息を漏らすと右手のノコギリを肩に担ぎ直した。
「鷹兄ぃ! いねぇのかぁー!」
「おーい! 今戻るぞー」
茄蔵の呼びかけに大声で答えると鷹丸は少し足を早めた。引き留めるように絡みつくツル草を引きちぎりながら通い慣れた帰路を進むような調子で順調に森の出口へと向かっていく。森を抜けるまでもう少しだった。
そんな時、不意に右手のほうで茂みをかき分ける音がしたかと思うと、妙に毛色の整った狸が木の陰から顔を覗かせた。足を止めて音のした方に視線を走らせる鷹丸。狸と鷹丸は互いに目を合わせたまま身動き一つ無くその場に立ち尽くしていた。やがて狸は何かを誘うように何度か顔を上下に動かすと、そのまま木の裏側へと姿を消してしまった。
――なんだ、今の狸は?
鷹丸は肩からノコギリを下ろすと、吸い寄せられるように狸が消えた場所へと向かっていった。
◇
茄蔵は斧を打ち付けた切り株に腰を下ろしながら鷹丸の帰りを待っていた。
最後に聞こえた返事の大きさから察するにもう間もなく姿を現すだろうと安気に構えていたのだが、いつまで待っても鷹丸が戻る気配が無い。
「鷹兄ぃー! どうかしたのかぁ? おーい!」
心配になった茄蔵は再び鷹丸に呼びかけた。しかし聞こえるのは木々のざわめきと鳥の声ばかりで鷹丸からの返事は返ってこない。
――どうしちまったんだ、鷹兄ぃ? ……まさか、さっき言ってた“でっかい鳥”だかにさらわれたんじゃあるめぇな……鷹兄ぃ運びやすそうだからなぁ……。
不安に駆られた茄蔵は切り株に刺さっていた斧を引き抜くと、声の聞こえた方角を頼りに茂みの中へと足を踏み入れた。ところが少しも進まないうちに茄蔵は妙な人影を発見する。それは木々の間を血相を変えて走り来る鷹丸の姿だった。
「おぉーい、鷹兄ぃ!」
元気そうな姿に安堵しつつ手を振り呼びかける茄蔵。しかしどうにも様子がおかしい。鷹丸は茄蔵の姿を認めると一目散にそばへと駆け寄ってきた。
「茄蔵!」
「どうしたんだ鷹兄ぃ? そんなに慌てて」
鷹丸は茄蔵の肩を掴むと、興奮気味に弟の名を連呼した。その常軌を逸した様子に茄蔵が心配そうに理由を問いかけるも、鷹丸は肩で息をしながら「茄蔵!……茄蔵!……」と繰り返すばかりである。
「……そうだ、お前、ちょっと来い!」
そう言うなり鷹丸は突然踵を返して森の中へと走り出した。
「え? どこ行くんだよ鷹兄ぃ、おーい鷹兄ぃ!」
茄蔵の呼ぶ声に耳も貸さず鷹丸は森の奥へと向かって行く。まさか森の物の怪にでも憑かれたのではあるまいか? 鷹丸の突飛な行動に妙な懸念を抱きながらも茄蔵はひとまず兄の後を追うことにした。
まるで操られているかのように森の奥へと猛進していく鷹丸。兄の背中を追いながらも茄蔵は懐疑の念を深めていた。
――どうにも怪しいなぁ、何かいつもの鷹兄ぃらしくねぇ。こりゃぁやっぱり森で何かに憑かれたに違いねぇぞ……だけんど、それなら鷹兄ぃは俺をどこに連れていく気なんだぁ?
その時、茄蔵の脳裏に一つの答えが閃いた。
――そうかぁ、分かったぞ! 仲間のいる場所まで連れていって俺まで化け者憑きにしてやろうって魂胆だなぁ!
「そうはいかねぇぞぉ、化け物め!」
茄蔵はその場に立ち止まると斧を両手で構えながら声を張り上げた。鷹丸は驚いたように足を止めると怪訝な顔つきで茄蔵の方を振り返る。
「俺が今から真っ二つにかち割って、そんで、中からオメェの正体を引っ張り出してやる! 待ってろよ鷹兄ぃ、すぐに助けてやるからな!」
両手の斧を大きく振りかぶると、茄蔵は鷹丸のほうへとにじり寄っていった。鷹丸は心底呆れたような表情を浮かべながら迫りくる弟に語りかける。
「お前……そんなことしたら俺が死んじゃうだろうがよ……アホなことやってないで黙ってついて来いって!」
再び走り出した鷹丸の後ろで茄蔵は振り上げた斧を力無く下ろした。
――言われてみりゃぁそうだなぁ……じゃぁ、どうやって化け物を引っ張り出しゃぁいいんだろう?
答えの分からぬ茄蔵はそれでも兄から化け物を追い出す方法を思案しながら再び鷹丸のあとを追い始めた。
しばらく森の中を進んでいくと突然鷹丸が足を止める。そして駆け寄る茄蔵のほうを振り向きながら手前の茂みを指さした。
「……なんだあれ」
そう言った鷹丸の顔には引きつるような苦笑いが浮かんでいる。事態を飲み込めない茄蔵は鷹丸の横に並びながら向けられた指の先を目で追った。
「……あ?」
茄蔵は言葉を失った。
茂みの先で落とし穴のようにえぐれた地面の窪み。雑草に覆われたその底部には年の頃十三、四ほどと見受けられる可愛らしい少女が優美な衣装に包まれたまま眠るように横たわっていた。
「鷹兄ぃ……?」
茄蔵は困惑した表情で鷹丸の顔を覗き込んだ。鷹丸は苦笑いを浮かべたまま横たわる少女を見つめている。
「……もう、何が何やら俺にはもう……なぁ?」