子犬と王
「はっ……はっ……」
一人の少年が、路地裏に逃げ込んでいた。雨が降っていることもあり、昼間だというのに夜のように暗い路地裏を、少年はすいすい進んでいく。
「おい、見つけたか!?」
「いや、たしかにこっちに逃げたはずなんだが……」
後ろから聞こえてきた声に、少年は目深に被ったフードを引っ張りながらゴミ箱の中に隠れた。少年の体は雨に濡れたことによる寒さからか、それとも別の何かが原因なのか震えていた。
「ったく、うちのキングも人使い荒いよなぁ」
「正直チワワが逃げるのも納得だよな」
少年は祈るように手を合わせる。どうか、見つかりませんように、と。
男たちの足音が迫ってくる。心音がバクバクと鳴り、この鼓動で見つかるのではと思ってしまうほどだ。
(お願い、早くどこかへ行って……!)
「なぁ、このゴミ箱怪しくね?」
「人入れそうなくらい大きいしな。開けてみるか」
少年は固まってしまった。どう考えても男たちの言うゴミ箱とは自分が今入ってる物だ。少年の心を絶望が襲う。
その時だった。
「ガッ!?」
「なんだおま、ギャアッ!?」
短い悲鳴とともに男たちの動く音は聞こえなくなった。
「もう出てきて良いですよ」
……聞き覚えのない声だ。しかし少年は一縷の望みをかけ、恐る恐るゴミ箱から顔を出した。
意識を失い倒れた男たち。その前に、一人の青年が立っていた。青年は少年の姿を見つけると、にこ、と優しく微笑んだ。
「あな、たは……」
「通りすがりの正義の味方です。……ここにい続けたら風邪を引きます、移動しませんか?」
困ったように眉根を下げ手を差し伸べた青年の手を、少年はとるか迷い……意を決したように握り返した。
※
「申し遅れました。俺は志堂ケイと言います」
「あ、ボクは飯降イユ……です」
「イユくんですね。よろしくお願いします。あぁ、そろそろ着きますよ」
ケイが連れてきたのは喫茶店だった。「喫茶店ナイトオブラウンズ」と書かれた看板が掛けられている。ケイは正面の入口ではなく裏口に回り、タオルを持ってくるためここで待機するようイユに言いつけた。
「ナオトくん、タオルありません?それとお風呂借りても良いですか?」
「え、お風呂?良いけど、どうかしたの?」
「少し汚れてしまいまして」
「あー、雨降ってるもんね。良いよ、ケイさんの好きなように使って」
「助かります」
遠くからケイと少年の話す声が聞こえてくる。ケイはタオルを手にしてイユの元に戻ってきた。
「雨に相当濡れたようですし、お風呂に入る前に一度体を拭いてはいかがでしょう?」
「あ、はい……」
「俺はお風呂の準備しておきますね。準備が出来たらお呼びします」
ケイは終始にこやかにイユに接した。
(優しい人、なのかな……。ボク、こんな汚いのに)
イユは雨に濡れただけでなく、ゴミ箱に入っていたことや途中何度も転んだこともあって、とてもじゃないが身綺麗と言えるような見た目ではなかった。逃げている途中、周りの人間はみな汚いものを見る目でイユを見ていたというのに、ケイはそんな素振りを一切見せなかった。
「イユくん」
「は、はい!」
「お風呂、一人で入れそうですか?」
「だ、大丈夫……だと思います」
「それなら良かった。せっけんでも何でも好きに使って大丈夫だそうなので。終わったらお風呂場を出て左側の一番大きい扉を開けてください」
ケイはイユを風呂場まで案内し、ごゆっくり、と言い残してどこかへ行ってしまった。
(えぇと、せっけん……)
イユは一人風呂場で体を洗い出した。その細い体には、ここ最近できたものとは思えない傷痕やアザが残っていた。
※
風呂場を出ると、洗面所に着替えが置いてあった。ケイにしてはサイズが小さかったため、おそらく先程ケイと話をしていた少年のものなのだろう。それでもサイズが少し大きく、裾を引きずりながらイユはケイの言う通り左側の一番大きい扉を開けた。
扉の向こうには喫茶店の内部が広がっていた。客はまばらで、そんなに人はいない。というか、客らしい客は学校の課題をこなしながらコーヒーに口をつける金髪の少女くらいしかいなかった。突然現れた人影に、少女は一瞬イユの方に目を向けたがまた机に広げた課題に目をやった。
「イユくん、さっぱりしました?」
「は、はい。ありがとう、ございました」
「これくらいお安い御用です。お腹は空いていませんか?パンケーキを作っておいたのですが」
ケイはカウンターテーブルにパンケーキの乗った皿を置いた。ベリーソースのかかった、とても美味しそうなパンケーキだ。イユは思わず凝視してしまった。
「あ、えと」
「どうぞ。お代はとりませんから」
「でも」
「余り物で作ったものだから気にしなくて良いよ。むしろ食べてくれた方がフードロスにならなくて助かる」
「そ、そう……なんですか?」
「はい」
ケイはイユにフォークとスプーンを差し出した。イユはそれを恐る恐る受け取ると、一口サイズに切り分け口に運ぶ。するとあまりに美味しかったのか、その後はケイとナオトが促すまでもなく平らげてしまった。
「ご、ごちそうさま、でした。美味しかった……です」
「お気に召しましたか?」
「はい。あの……何から何までありがとうございます。このお礼は──」
「気にしなくていいですよ。それより、俺はイユくんの話が聞きたいですね。なぜあの男たちから逃げていたのです?」
ケイの質問に、イユはビクッと体を震わせた。
「そ、れは……」
話しづらそうに口ごもるイユに、ケイはふむ、と口元に手を当てた。
「では、こうしましょう。今食べたパンケーキのお代をイユくんの事情を聞くことでチャラにするのはいかがです?」
「え」
「良いと思いまーす」
「え、え、え」
「いかがでしょうか?イユくん。悪い話ではないと思うのですが」
最後まで話すのを渋っていたイユだったが、ゲームに夢中になっていたナオトまでがゲーム機を下ろしこちらを見始めたのを見て根負けした。
「ボク、ドッグブリーダーズってチームのクイーンなんです」
イユの発言に、二人は目を見開いた。
ここでクイーンとチームについて話しておこう。この世界では、人々にチェスのピースのように役割が与えられている。大抵の人間はポーンだが、イユのようにクイーンやナイトといった上位の役を与えられた人間もいる。そして人々は、キングの役を与えられた人間を中心に集まる。それがチームというわけだ。
「男のクイーン初めて見たなぁ」
「俺もですね。珍しい話ではないらしいですが」
「そうなの?」
「男のクイーンより女のキングの方が珍しいらしいので。それで、イユくんはどうしてそのチームから逃げたんですか?」
「……ドッグブリーダーズのキングは、自分以外みんな見下してて。少しでも反抗的な態度をとると殴ってきたり、か……体を、触ってきたりして……。それが日常茶飯事な上、キングだから誰も意見出来なくて。だから……」
「だから逃げ出した。というわけですね?」
イユの言葉を遮ったケイに、イユは頷いた。チームにいた時の状況を思い出したのか、イユの目は潤んでいる。
「そんな扱いされてたら逃げ出して当然」
「となると、あの男たちはイユくんを追うようキングに命令されたポーン……といったところですかね」
「はい……」
「ふむ……」
場を沈黙が包む。……それも仕方無いのかもしれない。なにせ、イユをこんな目に遭わせた男は人々の上に立つことが確約された人間──キングなのだ。並大抵の人間では歯向かうことすら難しい。二人の役が何なのかはわからないが、頭を悩ませているあたりキングではないのだろう。
──これ以上迷惑をかける前に、ここを出よう。
「あの──」
「てかさあ。いつまで黙ってんの、姉さん?」
え、とイユが言葉を続けるより前に。客だと思っていた金髪の少女がイユのすぐ傍に立っていた。
「まさか、見過ごすわけないよね?」
「当たり前だろ。んなドクズ放っておいてたまるか」
「だよねー。姉さんならそう言うと思った」
「ケイもお疲れさん。よくここまで連れてきた」
「ありがたき幸せです、アーサー様」
「アーサー……?」
置いてけぼり状態のイユが疑問の声をあげると、少女がイユに目線を合わせた。
「イユっつったか」
「は、はい」
「この喫茶店……ナイトオブラウンズはただの喫茶店じゃねぇ。あるチームの隠れ家でもあんだよ。チームの名は、ナイトオブラウンズ。んで、キングが──」
少女は自分を指差す。
「このオレだ」
「え──?」
「──オレがナイトオブラウンズのキング・アーサーだ。よろしく頼むぜ、ドッグブリーダーズのクイーン殿?」
少女は不敵に微笑む。──これが、二人の運命を変える出会いになるとも知らずに。