86:おひぃとボブとジェンキンズ
ここはヴァルハラにある大神の館。大広間では今宵も愉快な宴が開かれて、飲めや歌えやの大騒ぎの様子である。
何列も平行に並んでいる長いテーブルには、ローストされた猪肉を始めとしたご馳走が山のように積み上げられ、蜂蜜酒やエールのボトルがどんどん回されていく。
そんな宴の片隅で、『水龍の姫』は暗い表情をしてエールのジョッキを両手で抱えていた。
彼女の本当の名前はもちろんちゃんとあるのだが、妹が婚約者を奪ったことを知った日に実家を飛び出して以来、ほとんど名乗ることはない。家族と完全に縁が切りたかったからだ。
魔術師団の書類関係で使うことはあったが、団員たちは彼女の気持ちを尊重して本名では呼ばなかったし、ここはもはやヴァルハラで書類作成をする必要さえない。彼女は『水龍の姫』であり、略して『おひぃ』なのであった。
おひぃは青銀色の縦ロールを揺らし、項垂れる。
「ああ、もうっ! けっきょく狩猟大会ではリザ元団長に負けて二位という結果ですの……! あともう一頭だけでも黄金鹿を狩ることが出来れば、幻の美白化粧品セットが手に入りましたのに……!」
優勝賞品を逃した悔しさに、おひぃは歯噛みする。
べつのテーブルに視線を向ければ、リザがほくほく顔で優勝賞品を抱えているのが見えて、余計に腹の底が燃えた。
「こういう時はもう自棄食いしかありませんですの!」
骨付き鶏肉のローストを一心不乱に齧り付いていると、後ろから「うわっ。食い方が怖ぇ~ぞ、おひぃさん」と声を掛けられた。
振り返れば、ボサボサの茶髪に薄い紫色の瞳をしたボブが、ひどく疲れた表情をしておひぃを見つめていた。
「ボ、ボブ……!? い、いえ、これは、その、わたくし……!!」
自棄食いで大きく口を開けているところを好きな相手に見られてしまい、おひぃは動揺した。
ケーキとかパフェとか、もっと可愛いものを食べていれば良かった。せめて自室で自棄食いをしていれば良かったと思ったが、後の祭りである。
「どうせリザ元団長に負けて、優勝賞品を逃して自棄食いしてたんだろ?」
そう言いつつ、ボブはテーブルの端に用意されていたナプキンを手に取り、おひぃに手渡した。
「せめて口の周りのソースくらい、拭いた方がいいぜ」
「ありがとうございます、ボブ……」
おひぃは恥ずかしいやら、優しくされて嬉しいやらで、まごまごとしながらもナプキンを受け取った。
おひぃが口元を拭っているあいだに、ボブは蜂蜜酒の瓶を開けて飲み始める。
彼の口から自然と重い溜め息が漏れた。表情もげっそりとしていて、ふだんの明るさが消えかけている。
「……それで、ボブの方はどうでしたの? かなり疲れているご様子ですけれど、地上のオーレリアの件は解決したんですの?」
「聞いてくれよ、おひぃさん! マジで疲れたっ!! 後輩の前でダセェところ見せるわけにいかねぇから気力で頑張ったけどよ、なんちゅう威力の爆破魔術を生んでんだアイツ!? こっちが魔力切れで死ぬところだったんだが!?」
「最初から話してくださらなければ、全容がよく分かりませんけれど。わたくしたちはもうとっくに死んでいますの、ボブ」
「あー……、ワリィ、おひぃさん。最初から説明するな。実はオーレリアのやつが記憶喪失になりやがってさぁ。俺様に対して『どちら様?』状態で……」
「ねぇ、ボブ先輩。いまオーレリアの話をした? オーレリアが記憶喪失って本当なの?」
「うおっ!? 横から急に顔を出してくんなよ、ジェンキンズ!? ビビるだろっ!?」
「だって、あいつが記憶喪失とかすごく良い話をしてるから」
ボブの隣に現れたのは後輩のジェンキンズだ。肩につく長さの金髪を三つ編みハーフアップしているこの優男は、奇妙なほど楽し気な様子だ。
鼻歌でも歌いそうな笑みを浮かべながら、ボブの隣の椅子に腰掛けた。
「オーレリアがクソガキのことを忘れている内に私が地上に降りて、彼女の心を奪ってやればいいんだ。楽しみだな。そのために私もさっさと守護霊資格を取り戻して、オーレリアに危機が訪れれば会いに行ける。早くオーレリアが死にかけるといいな……」
「ジェンキンズ、貴方はそういう所が駄目なんですの。だからずっと、あの子から好かれないんですの」
「つーか、俺様天才過ぎて、アイツに掛けられた記憶喪失を一瞬で治しちまったぜ☆ てへぺろ」
「ボブ・カラドリアァァァァ!!!! 貴様も私の敵だぁぁぁぁっっっ!!!!」
「先輩に向かって首絞めようとすんのは止めろぉぉぉジェンキンズゥゥゥゥ!!!! お前キモイんだよぉぉぉぉ!!!!」
「つーか、まだ話は序盤なんだけど!? ここから俺様の闇魔術を使ったスゲェ戦いがだなっ!?」と叫ぶボブが、必死でジェンキンズの腕をかいくぐる。
ボブがフェンリル討伐に関する話をすることが出来たのは翌日になってからなのだが、この時おひぃはすっかり狩猟大会で優勝を逃した悔しさを忘れて、「やれやれですの」と男二人の様子を傍観していた。




