75:森の地図
翌朝目が覚めると、寝袋製布団の中には私一人きりで、すでにリビングから朝食の良い匂いがしていた。
私は本当にあの状況で熟睡してしまったらしい。すごいな私。
記憶喪失の私にとっては、出会ったばかりの男性と一緒に寝てしまったという気分なのだが。私の体や心の奥底はどうやら、安心できる人の傍でぐっすり眠ったという感じなのだろう。妙な感じだ。
とりあえず顔を洗って、今からでもメルさんのお手伝いをしなければ。
外にある水瓶のところに水を貰いに行くと、そこにはちょうどペイジさんが居た。
「おはようございます、ペイジさん」
「おはよう、オーレリアさん」
「それ、なにしてるんですか?」
「……実は俺にもよく分かんないんだ」
ペイジさんは水瓶の傍にしゃがみ込み、周囲に色んな物を広げていた。顔を洗うのに使ったとおぼしきタライに、石鹸、剃刀、化粧水や乳液、クリームの瓶、あとほかにも液体が入った瓶が三つほど。
「俺のカバンに入っていたもんなんだ。ほかにもいろいろあって使い方が分かんねーんだけど、記憶を失ってるのにどうしてか『最低限これだけはしておかないと、後で絶対に後悔する!』って感じがするんだよ。で、自分でも訳も分からずに朝晩塗りたくってんだ」
「ペイジさんも、記憶を失ってるのに体の方が覚えてる感覚があるんですね?」
空いているタライに水瓶から水を汲み、横で顔を洗いながらペイジさんに尋ねる。
ペイジさんが「石鹸、使っていいぞ」と貸してくれたので、有難く使った。
「そう言うってことは、オーレリアさんにもあるのか? 記憶が無いのに体に染みついた習慣みたいな感じのこと。あ、化粧水も使うか?」
「ありがとうございます。お借りします。私に関してはギルさんのことですね。彼のことをなにも覚えてないのに、安心して熟睡しちゃいましたね」
「ああ、そうか。旦那のことを覚えてないってのもいろいろ戸惑うよなぁ」
「メルさんや子供たちにも、そういう元々の習慣とかが残ってたりするんですかね?」
「そういわれてみると……。メルのやつは毎朝三時半に起きて、小屋の中全部の掃き掃除と拭き掃除を終わらせて、食事作りしてるな。三時半だぞ? あれもなにかの習慣か?」
「メルさんってそんなに早起きなんですか!? 朝食作りの手伝いでもしようと思ったのに」
「メルは掃除命、食事作り大好きって感じだな。あとリーナとウィルは薪割りと火熾しがめちゃくちゃ上手い。あれも魔道具師見習いとしての習慣なのかもな」
「なんだか記憶喪失というより、今までの記憶に無理やり蓋をされてるって感じですね」
喪失ではなく、正確には阻害という感じだろうか。
この森の霧の謎を解決出来たら、阻害されている記憶に触れることが出来るかもしれない。
今日から頑張って、ギルさんと森の奥を探索しなくちゃね。
私はやる気に満ちた表情で空を見上げると、ペイジさんが「日焼け止めクリームもあるけど、使うか? 俺、本当になんでこんなの持ってるんだろ?」と首を傾げた。
▽
リビングのテーブルにはすでにメルさんが作ってくれた朝食が並んでいた。
材料は主に森の中で採取した食べ物と、メルさんとペイジさんのバッグに入っていた食材。二人のバッグも空間魔術式の組み込まれた魔道具だそうで、調味料や保存食が入っていたそうだ。
私とギルさんのバッグにも食糧が入っていたので、当分のあいだ森で暮らしても飢えることはなさそうだ。いまの季節が実りの秋というのも大きいけれど。
昨日の熊汁の残りにオートミールを入れたお粥と、森で採れたイチジクとアケビの実のデザートをみんなで分け合う。
私はアケビの薄紫色の皮の中から、種がいっぱいの白い果肉をほおばった。種を取り出すのはたいへんだけど、とろっとした果肉の素朴な甘さが美味しい。
先にデザートまで食べ終わったギルさんが、一枚の羊皮紙を広げた。
「これは今朝、この小屋の中で見つけた地図です。やはりここはクァントレル男爵が祭事を行う際に、休憩場所として用意した小屋のようです」
ギルさんが私が起きたときに部屋に居なかったのは、この小屋の中を調べていたかららしい。
テーブルに広げた古めかしい地図には、この小屋の位置と、木々のあいだに描かれた曲がりくねった道、そして奥の方に×印が描かれていた。
みんなで地図を覗き込み、「こんな道が森の中にあったのね? あたし、知らなかった」「おれも」「地図って言っても、あんまり詳しく書かれてねーなぁ」「ここから先はほとんど白紙だわ。本当に人が踏み入らない森なのね」と、それぞれ感想を漏らした。
「たぶんこの印の場所が、二十年ごとに祭事を行っていた場所である可能性が高い。霧の発生場所と祭事の場所が同一かは不明ですが、どちらも森の奥のようですし、一度確認しておこうと思います」
「距離的にこの小屋から一日半、二日はかかる感じかな、ギルさん?」
「そのようですね。森の中の状況がわからないので馬車を宿に預けたままにしましたが、馬だけでも連れてきた方が良かったですね。今さらですが」
「ギルさんが歩き疲れたら私がおぶってあげるよ! 安心して!」
成人男性を背負うだなんて、あんまり乙女らしくない提案だったが、自然と口から出てきてしまった。
ギルさんは眼鏡の奥の黒い瞳をふわっと微笑ませる。
「記憶を失っていても、オーレリアはそういう思考回路になるのですね」
その笑顔を見ていたら、私の手は無意識にギルさんの手に触れていた。
「? どうしたのですか、オーレリア?」
きょとんと見つめられても答えられない。私だって自分のことがよくわからないのだから。でも無性にギルさんに触れたかったのである。
これは今の私の感情なのだろうか? 蓋をされた記憶のせいなのだろうか?
過去の私は、どれほどギルさんのことを好きだったのだろう……。




