72:イチ、ニ、サン、ヨン
ギル視点です。
オーレリアが記憶喪失になってしまった。
原因はきっと、霧の中に含まれていたという謎の魔力のせいだろう。
オーレリアの判断で僕が浄化魔術を展開したが、彼女に届く一歩前に霧が晴れてしまった。その時点でなんらかの魔術が完了してしまったのだ。
そのため僕だけが森に入る前の記憶を保持したまま、ここに居る。
確認のために来た道を振り返れば、まだそこには白い霧が流れていた。そして進行方向である森の奥を見れば、霧が晴れて視界が良好になっている。
もしもあの白い霧の中に入った者全員が、森に足を踏み入れる前の記憶を失うのだとしたら。
ペイジさんもメル・ポイントル団員も行方不明の子供たちも、記憶喪失の可能性がある。
どうりで彼らが森の中から帰ってこないわけだ。自分に帰る場所があることさえも思い出せないのだから。
「あっ、ギルさん! 私、このキノコは知ってる! 泥んこ茸っていうキノコで、スープに入れると美味しいやつだ! とりあえず取って、バッグに入れとこう」
オーレリアの記憶も、すべてが欠落しているわけではないようだ。
森の中を歩きながらも食べられる物を見つけては採取し、水の音を聞き分けて沢を発見したりしている。
記憶を失う前のオーレリアと性格が変わって別人のようになる、ということも無いらしい。
『戦争の記憶なんか無い方がいいよ。絶対に嫌な記憶のはずだから』
先程のオーレリアの発言が脳裏によみがえる。
この人の姿形や名前がいくら変わろうと、僕はこの人が好きだ。彼女が記憶喪失だろうと愛し続けていく自信がある。
なのでオーレリアが僕と過ごした時間をもう二度と思い出してくれなくても、僕は彼女の夫の座に居座り続けるつもりだ。
たとえ以前のオーレリアのように僕のことを夫として愛してくれなくても、傍に張りついて外堀を埋め続ければ、そこそこ絆されてくれるだろう。彼女は器が大きいからな。僕以外の男を選ばせなければ、いずれどうにでもなる。
記憶喪失の原因だって、謎の霧に含まれる魔力だ。オーレリアを責めることなど出来るはずがない。
むしろオーレリアの判断のお陰で僕だけは記憶を失わずに済んだのだから、彼女には感謝しかなかった。
問題は、このまま戦争のつらい記憶を忘れていた方が、オーレリアは幸福なのではないか? ということだ。
森に入る前の一切の記憶を失ったが、同時に人間の醜さの極致でもある戦争の記憶も失った。まっさらの状態だ。
僕のことをすべて忘れられてしまうのはとても切ないが、オーレリアの真の幸福を考えるといまの状態の方が良いのかもしれない。
チルトン家のことやロストロイ家の使用人たちとのこと、クリュスタルムや陛下のことなど、楽しい記憶もたくさんあるだろう。
だが彼女なら記憶喪失のままでも、また彼らと一から信頼関係を築き上げることが出来ると確信している。ならば無理に記憶を呼び起こさなくても———……。
「ギルさん!」
オーレリアが僕を呼ぶ声に、深みに落ちていた意識が浮上する。
記憶の無い彼女は、まるで見るものすべてが興味深いといった様子で、アッシュグレーの瞳を煌めかせていた。
「あっちの方に小屋が見えるよ! しかも煙突から煙がのぼってるの! もしかしたら、探してる行方不明者が居るかもしれないよ」
「……分かりました。行ってみましょう」
僕は銀縁眼鏡の位置を直し、小屋に向かって歩いて行くオーレリアの後ろをついて行った。
▽
尖った三角屋根の小屋は石を積み重ねて作られたもので、いつの年代に建てられたものか見当がつかない。石壁には苔や蔦が生えていて、ずいぶんと森に同化していた。
この小屋は旧クァントレル男爵が森で祭事を行う際の拠点のひとつだったのだろうか?
「こんにちはー! どなたかいらっしゃいますかー?」
オーレリアが伸びやかな声とともに、狼の頭の形をしたドアノッカーを叩く。
すると扉の内側から子供の声で「はーい」「いまーす」と返事を返される。
「おたく、どちらさま?」
「この森にまた新しい住人が来たの?」
現れたのは十三歳ほどのおさげ髪の少女と、それより少し年下の少年だった。
たぶんこの子供たちが、魔道具師ジョシュアの弟子二人なのだろう。二人の手はまだ小さかったが、魔道具師が使う革の手袋をはめていた。
僕は子供たちの目線に合わせるためにしゃがみ込み、二人の様子ををよく観察する。さいわい、顔色も良く、怪我なども無いようだ。
「僕はギル・ロストロイと申します。こちらは妻のオーレリアです。君たちのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
魔道具師ジョシュアの口から出た弟子の名前は『リーナ』と『ウィル』だった。
はたしてこの子たちは、自分の名前を覚えているだろうか。オーレリアのように記憶を失っているだろうか。
僕の問いかけに子供たちはキョトンと目をまるくした後で、胸を張って答えた。
「あたしの名前は〝イチ〟よ」
「おれの名前は〝ニ〟です」
「この家にはあとほかに、〝サン〟と〝ヨン〟もいるわよ!」
「……本当はご自分の名前を覚えていらっしゃらないんですよね?」
僕の問いかけに、子供たちは心底驚いた表情をした。
「眼鏡のおじさん、よく分かったわね!」
「眼鏡のおじさん、すごいなぁ」
「ギル・ロストロイです」
オーレリアにおじさん扱いされた心の傷口もまだ塞がっていないのに、第二第三のナイフを気安く投げつけないでほしい。言葉は凶器にも花束にもなるのですよ。
「イチ、ニ。玄関先でなにをしているのかしら?」
「あ、サン! 新しいお客さんが来たのよ!」
「ギルっていうおじさんと、オーレリアっていうおねえさん。夫婦なんだって」
「まぁ、お客様? それはたいへんだわ」
聞き覚えのある少女の声が小屋の奥から聞こえてきた。パタパタと足音を立てて、こちらにやって来る。
そして子供たちの背後から、彼女が顔を覗かせた。
「初めまして、ギルさん、オーレリアさん。たいしたおもてなしもできませんが、どうぞ中へいらっしゃってください」
ピンク色のふわふわの髪をボブカットに整えた少女、メル・ポイントル魔術師団員が町娘のような服装で現れた。
団長である僕の顔を見ても特に反応せず、本当に初対面の相手に向けるような愛想のよい笑みを浮かべる。
もうそれだけで、彼女もまた記憶喪失なのだと確信した。
この調子ではきっと、ペイジさんも期待できないだろう……。




