33:チルトン領の朔月花祭り1
「……オーレリア」
ぼんやりとした意識の中で、ギルが私を呼ぶ声がする。いつの間にかすっかり、ギルから現世の名前で呼ばれることに慣れた。
薄く目を開ければ、自分がうたた寝していたことに気が付く。
ガタゴトと揺れる車内、背もたれや座席部分のクッションの柔らかさ、ギルの肩に預けていた右半身は体温が移って、すっかりと温かくなっていた。
「ん~。ギル、ごめん、私、寝てた……」
寝起きで滑らかに動かない口を動かし、目元を擦る。
隣に腰かける夫を見上げれば、彼は眼鏡の奥の黒い目を優しく細めていた。
「謝らなくていいですよ、オーレリア。道中の馬車の中など退屈でしょうし」
「でも私が寝ちゃうと、クリュスタルムしか話し相手が居なくてつまらなかったでしょ?」
「貴女の寝顔を観察しているだけで僕は至福ですよ」
「寝顔なんか別にいつも見ているでしょ」
「オーレリアと一緒にぐっすり寝てしまうので、じっくり観察する機会はあんまりないです」
まぁ確かに。結婚当初のギルは緊張して寝付きが悪かったこともあったが、三ヶ月も一緒に眠っていたら慣れたようだ。
「そんなことより、オーレリア、そろそろ到着するみたいですよ」
ギルがそう言って、馬車窓の向こうを指し示した。
晴れ渡る夏空に彩られた、懐かしい光景が広がっている。
かつて丘があったけれど、私がうっかり爆破してしまってなだらかな平野になった牧草地。
地形学者のおじいちゃん指示の元、爆破工事をした大きな川。
一ツ目羆を仕留めた山は夏らしい濃い緑に覆われ、お父様と海賊を捕らえた漁港の海は深い青に輝いている。
その光景を一目見ただけで、この胸の中に郷愁の念が生まれた。
「現世の貴女が生まれた地、チルトン領に」
懐かしく、平凡で、でも誰もが日常を必死に紡いで暮らしている、私の故郷チルトン領。
ロストロイ魔術伯爵家に嫁いで以来初めての里帰りであり、———ギルが初めて私の家族に会う日がやって来た。
▽
突然里帰りすることになったきっかけは、クリュスタルムが〈もっと妾好みの生娘にちやほやされたいのじゃ……〉と悄気ていたことが一つ。
どうやらクリュスタルムは私一人では飽きたらしく、新たなハーレムを求めて喚いていた。
私はちょうどその時、チルトン領に居る弟妹達からの手紙を読んでいた。
そろそろチルトン領の『朔月花祭り』の時期がやって来る、という内容だった。
『朔月花祭り』は真夏の新月の日に開催される小さなお祭りだ。
これはチルトン領が出来る前から存在する土着の風習だ。真夏の新月の夜にだけ咲く『朔月花』の群生地が山の麓にあり、領民はそれを愛でながら音楽を奏でたり踊ったりする。
このお祭りは古来の若者達の出会いの場だったらしく、今では男性が意中の女性に告白し、女性から返事の代わりに組紐を渡されるとカップルが成立するイベントになっている。
だからこの季節のチルトン領の若い女性達は一生懸命組紐を編み、男性達も意中の女性をどうやってお祭りに誘うかでソワソワしているのだ。
私は貴族令嬢だったのでそんなイベントには参加出来なかったが、楽しそうな若者達がちょっと羨ましかった。
弟妹達の手紙には朔月花祭りにかこつけて、私に里帰りするよう促す文言がいっぱい書いてあった。実に微笑ましい。
「そういえば私には幼い弟妹が五人居るんだけど、みんな私似……と言うか、お父様似の綺麗な顔立ちをしているよ」
私がクリュスタルムにそう話しかけると、水晶玉の中がキラキラと輝いた。
〈なんと! オーレリア似の生娘と生息子が五人もおるのか! 会いたい! 妾はその者達に会って ちやほやされたいのじゃ!〉
「でもなぁ、仕事のギルを王都に置いて、私一人でクリュスタルムを連れてチルトン領へ帰るのもなぁ……」
ギルは結婚式でさえチルトン家の皆にまともに挨拶をしなかったので、そんなギルを置いて里帰りをすると、私達の仲を弟妹達に心配されてしまいそうである。
行くのならギルと一緒が良いだろう。私もギルが居ないと寂しいし。
〈会いたい! オーレリアの弟妹に会いたいのじゃ~!〉と騒ぐクリュスタルムをなだめる為にテーブルの上でくるくる回す。水晶玉でツルツルした奴なんだけど、猫っぽいんだよなぁ。
そんなことを思いながら私はその日の午後を過ごした。
「え?」
「ですから、僕、ようやく結婚後の長期休暇を取得することが出来ました……!!」
満面の笑みで帰宅した夫が、玄関先で私をぎゅうぎゅう抱き締めながらそう言った。
よくぞあの人手不足の魔術師団で長期休暇が取れたな、と驚いていたら、私の気持ちを読み取ったように「今さら僕一人が長期休暇を取らずにいたところで、慢性的人手不足は解消されませんから」と言った。
「むしろ産めよ増やせよで次世代の子を増やすべきです」
などと、お父様みたいなことを言い出す始末である。
「再来週には休暇が取れそうなのですが、オーレリアはどこか旅行に行きたいところはありますか? 海底遺跡でも山の空中古代都市でもいいですよ」
古代魔術式の解析は大好きだけれど、それよりも優先したいことがある。
私の首筋の匂いを嗅いでいるギルの額を押し退けながら、私は言った。
「チルトン領に行こうよ。ギルはまだうちの家族に挨拶してないでしょ」
「そ、そうですねっ!? ぼ、僕っ、お義父様以外のご家族に挨拶してませんでしたね!?」
みるみるうちに顔色を青ざめさせるギルは振り子のように首を振った。
こうしてギルのチルトン家への初めての挨拶と、クリュスタルムの接待の為に、三ヶ月ぶりにチルトン領へ向かうことになったのである。