【過去編】バーベナとおひぃ先輩
目を覚ますと、研究室のデスクの上に覆い被さるようにして寝落ちしていた。変な体勢で眠ったから、肩や腰がバキバキだ。
どうやら私はまた魔術論文を読み耽って、帰宅するのを忘れてしまったらしい。
私は椅子に腰掛けたまま背伸びをし、肩甲骨や腰回りの筋肉の凝りを解す。
すると肩に掛けられていたらしい薄手のブランケットが床に落ちた。
私はブランケットを拾い上げる。たぶん弟子のギルが掛けておいてくれたのだろう。良い子だな。
ギルは魔術師団の寮へちゃんと帰ってくれただろうか。
室内を見回すと、休憩用に置いてある三人掛けのソファーの上に小さな山が出来ていた。
近付いて確認すれば、寝袋に包まれたギルである。
この子、師匠の私に付き添ってまた寮に戻らなかったのか。
ギルは十三歳で最年少魔術師団入団試験を突破すると同時に、入寮資格を獲得した。
魔術師団の寮は敷地内にあり、帰る場所のない団員だけが暮らせる場所である。事情がない限りは入寮資格が得られない。
私はばーちゃんが残した家が城下にある為、入寮資格は得られなかった。あの家を売り払ってしまえば寮に入れるのだけど、ばーちゃんの思い出がたくさんあるのでまだ手放すことは考えられないでいる。
ギルは父方の男爵家からあまり良い扱いをされていなかったらしく、グラン団長がすぐに許可を出した。
だからギルは歩いて五分で寮へ帰れるはずなのだが、私が研究室に泊まる日はこうして一緒に寝泊まりすることが多い。
ひどく安心した様子で眠るギルの、寝袋から飛び出した腕に視線を落とす。
十三歳とは思えないほど細い。発育不足だ。それだけでこの子が男爵家でどのような扱いを受けていたかがよく分かる。
ギルは寮に一人で帰るのが心細いのだろうか。
それともただ私に懐いて、雛のように追いかけているだけか。
なんだったらギルを養子縁組して、私の息子として一緒に暮らすのもありだろうか。
ばーちゃんの家はそこそこ広く、ギル一人くらい増えたってどうということもない。
だがしかし、二十二歳で十三歳の息子が出来るのは、この先訪れるかもしれない結婚のチャンスをすべて吹っ飛ばしそうな気もするな。
そしてギルが十八歳くらいになった時に「お母さん、僕、この人と結婚します」って婚約者を連れて来て、「ギ、ギル……! お母さんよりも先に結婚するだと……!?」ってショックを受けるんだろうな、私。
息子が自分よりも先に結婚する覚悟が生まれない限り、養子縁組は難しそうだ。
私はギルの小さな頭を撫でてから窓際に移動し、カーテンを小さく捲る。
外はまだ早朝の色合いだ。日課の走り込みがてら朝市へ行って、朝食を買い込んでくるのもいいかもしれない。ギルにたくさん栄養をつけさせてやらないといけないし。
「……ちょっと出掛けてくるよ、ギル」
ギルを起こさないように声をかけつつ、寝袋の上からブランケットを掛けてやる。「んん……っ、師匠……」とギルが寝言を呟いたが、目覚めることは無かった。
▽
魔術師団の施設を抜け、寮の前を通ろうとすると。
寮の一階にある共同調理室の窓に、青銀色の髪が見えた。『水龍の姫』こと、おひぃ先輩である。
おひぃ先輩も窓越しに私の存在に気が付き、片手を上に向けて『こっちに来なさいですの』と言うように手招きした。
「おはようございます、おひぃ先輩。何かあったんですか~?」
とことこと窓に近付けば、おひぃ先輩は無言で指を動かし、寮内へ入ってこいとジェスチャーする。たぶん窓を開けるのが面倒なのだろう。
仕方なく私は寮の玄関に回り、おひぃ先輩が居る共同調理室へと向かった。
「わたくし、ボブに素敵なランチボックスの差し入れがしたいですの」
青銀色の縦ロールヘアーがおひぃ先輩のトレードマークなのだが、今はそれを白い三角巾にきっちりと仕舞い込み、揃いの割烹着を着ている。料理の準備は万端のようだ。
大きな調理台には野菜や肉類、魚介類、卵にハムにパンに乾燥豆に小麦粉に茸にハーブにチョコレートや果物やポテトチップスまであって、『取り合えず市場で目についたもの全てを購入しました』という有り様だった。
この共同調理室には冷却魔術の組み込まれた大型貯蔵庫が設置されているので当分腐ることはないと思うが、すごい量である。もはや大家族の一週間の食料といった感じ。
「芋煮の魔術師ボブ先輩に手料理でアピールするとか、なかなか心臓に毛が生えてますね。どんな手料理で勝負するんですか?」
「ファビュラスでビューティフルでパラダイスみたいなランチボックスを作ろうと思いますの!」
「……ちなみにおひぃ先輩、調理経験は?」
「もちろん今回が初めてですの」
「…………」
おひぃ先輩すげぇ。不安要素しかない。もはやロックだ。
大きな商家のお嬢様であったおひぃ先輩は、実の妹に婚約者を奪われてぶちギレ、その勢いで入団試験をパスして国家魔術師になったという経歴を持つ人だ。基本的な生活力は皆無である。
寮に入ってからは寮母に別料金を払って掃除洗濯をしてもらい、食事は十割外食だそうだ。
そんな生粋のお嬢様育ちのおひぃ先輩が料理に挑戦するとは。
恋というのはものすごいパワーを生み出すものだな。
「バーベナ、庶民で独り暮らしの貴女ならわたくしより料理に親しんでいる筈ですの。わたくしに料理を教えてくださいませ!」
「もうちょっと事前に頼まれたかったですね……」
たまたま寮の前を歩いていたから良かったが、いつもはこんな早朝にこのルートを歩かないんですけど。
私は呆れながらも予備の割烹着を借りて、おひぃ先輩のアシスタントをすることになった。
▽
【バーベナの三分クッキング】
①バターを薄く塗ったパンに、あらかじめ用意していた具材を挟みます。
②するとサンドイッチが完成します。
③お好みでピクルスを添えてください。
「手順はだいたいそんな感じです、おひぃ先輩」
「『あらかじめ用意していた具材』というものは一体何なのですの?」
「時間の都合上、私が先に切ったり焼いたり茹でたりしておいたものです」
包丁も握ったことがなく、竈を使ったこともなく、卵も割ったことのない初心者のおひぃ先輩が、失敗せずにランチボックスを作るのは無理と判断。早々に諦めた私は、それでもおひぃ先輩に料理をしたという実感を与える為の処置に出た。
ちぎったレタス、薄切りにしたキュウリや玉ねぎ、トマト、アボカド、スクランブルエッグ、茹でた海老やソーセージ、焼いたベーコン、チーズやハムはそのまま、鮪のオイル煮には味付けをした。
おひぃ先輩ならデザート系も作りたいだろうと、ジャムやチョコ、カットしたフルーツも並べておく。
調理台に並べられた具材のカラフルさに、おひぃ先輩は満足したように頷いている。
「これ、私とギルの朝食分も作って良いですよね?」
「ええ、構いませんの。材料はたっぷりありますから、好きなだけ作りましょう」
私がパンにバターを塗る手本を見せれば、おひぃ先輩も一生懸命バターを塗り始めた。
柔らかいパンの表面に力任せにバターを塗ると生地が削げていくので、おひぃ先輩は慎重な手つきだ。バターを塗ったパンを一枚作ると、すでに一仕事やり遂げた表情をしている。
「でも、なんで急にボブ先輩に手作りランチボックスを差し入れしようなんて思ったんですか?」
「……ボブが、最近お昼に通いつめている食堂がありますの。どうやらそこの看板娘と仲良くなりつつあるみたいで……わたくし……」
二枚目のパンにバターを塗りながらも、おひぃ先輩の表情が悲しげに悄気ていく。
「普通にボブ先輩に告白すればいいんじゃないですか?」
「そんなことをして、わたくしがボブに振られたらどうするんですの!?」
「えぇ~……」
振られたら諦めるか、一回引き下がってもう一度機会を狙うしかないのでは?
「恋に傷付いたことのないバーベナには、わたくしの繊細な気持ちなんて分かるはずがないんですの」
「え? 聞きますか? 半年くらい連絡するのを忘れていた彼氏に道端でばったり会ったら『別れて以来だな、バーベナ。俺、先月結婚したんだ!』って笑顔で言われたときの私の衝撃を」
「半年もの間連絡を忘れていた時点で、バーベナはその人のことをちっとも好きではなかったと思いますの」
「仕事が忙しくてですね……」
「バーベナは、全然、ちっとも、元恋人を愛していなかったんですの!」
笑った顔とか、会話が面白いところとか、好きだった気がするんだけどなぁ。
まぁ、『そうなんだ、結婚おめでとう』って言って、涙を流すこともなく終わったけれど。
「わたくし、もう、心を寄せた相手に拒絶されるのは嫌ですの……」
おひぃ先輩はそう言って肩を落とす。
きっと妹に奪われた元婚約者のことを思い出しているのかもしれない。おひぃ先輩が魔術師団に入団した途端『やっぱり君の方が良い』と復縁を迫られたようだけれど、突っぱねたと聞く。
好きだった人に裏切られることも、打算で復縁を迫られることも、どちらもおひぃ先輩に恋のトラウマを与えたのだ。
そしてそれはボブ先輩に恋した今でも、影のように差し込んでくるのかもしれない。
「……それで、パンにバターを塗り終わりましたけれど。これからどうしたら良いですの?」
「まずは野菜の水気をしっかり取って、レタスから乗せてみましょうか」
「承知したですの」
おそるおそるレタスに触れるおひぃ先輩を横目に、私はお手本用のサンドイッチを色々作っていく。具材の挟み方の参考にして欲しい。
私の意図が伝わったおひぃ先輩は、お手本用のサンドイッチの断面を見ながら具材を選び、並べ、もう一枚のパンで挟んだ。その頃には先程の憂いは消えていて、おひぃ先輩は無邪気な笑みを浮かべていた。
「ボブ、美味しいと言ってくれるかしら……?」
「褒めてくれると思いますよ」
「そうだと嬉しいですの」
趣味が料理のボブ先輩だから、素人作のサンドイッチをお気に召してくださるかは知らないが。シンプルな味付けだから不味くはないはずだ。水分にも気を付けたし。
「バーベナ、料理を教えてくださって、ありがとうですの」
「こちらこそ朝食用にいっぱい材料をいただいて、ありがとうございます、おひぃ先輩」
私はいそいそとワックスペーパーで二人分のサンドイッチを包む。まだガリガリのギルにいっぱい食べさせてやらないと。
そんな私の様子を観察していたおひぃ先輩が、ふっと言葉を溢す。
「あなたが本気で恋をしたら、どうなるのかしら。見てみたいものですの」
おひぃ先輩は困った妹を見る姉のような表情で、私を見つめていた。
▽
研究室に戻ると、ちょうどギルが目を覚ました。
ぼんやりとした表情で「バーベナししょう……?」と目元を擦っている。
私は閉めていたカーテンを開け、室内に朝の日差しを招き込んだ。朝食を食べるにはちょうどいい時間だろう。
「おはよう、ギル。顔を洗っておいで。朝食を食べよう」
「はっ、はい! すぐに顔を洗って来ます!」
「お茶淹れるから、ゆっくりでいいよ」
「いえ、お茶を淹れるのは弟子の僕が……!」
「お茶出しに弟子も師匠も関係ないから」
寝袋から急いで這い出し、廊下の奥にある水場へ向かうために研究室を飛び出していったギルを見送って、私はお茶を淹れる。
最近王都で流行っているというこのティーバッグ、めちゃくちゃ楽だなぁ。また買ってこよう。
『あなたが本気で恋をしたら、どうなるのかしら』
おひぃ先輩の先程の言葉が、また頭の中で響く。
さぁ? 自分でもよく分かりませんね。
そう返事をすれば良かったのだろうか。
「顔を洗ってきました、バーベナ師匠!!」
「はっや」
廊下で短距離走でもしたんですか? というレベルで研究室に戻ってきたギルに驚きつつ、テーブルにお茶を二つ置き、サンドイッチの包みを広げる。
「わぁっ、色んな種類のサンドイッチですね。早朝の市場で買ってきてくださったのですか?」
「ううん。さっき、おひぃ先輩と一緒に作ったんだよ」
「バーベナ師匠の手作り……!? え、えっ!? ありがとうございます!! 僕は今日の日を神に感謝し、生涯決して忘れません!!!!」
「なんか発言が重いよ、ギル」
喜びすぎてサンドイッチをじっくりと観察し出したギルに、私は「さっさとお食べ」と何度も促す。
子供に食事を取らせるだけでも一苦労とは、世の母親には頭が下がる。
弟子を育てるのがこんなに大変だとは思いもしなかった。
新しい恋人を探す余裕は今のところ無さそうですよ、おひぃ先輩。