29:妻の魂を連れ帰る(ギル視点)
死者の国はまるで深海のような場所だった。
どこまでも続く岩と砂の地面には雑草の一本すら見えず、天には永遠の夜が覆っている。そんな果てしない暗闇の中を青白く光る無数の人魂が飛び交っていた。
人魂の一つ一つが何かを呟いている。「なぜ俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!」「全部あの人が悪いのに……」「悔しい、悔しい、あいつら全員不幸になれ」……生前の恨み、憎しみ、苦しみ、怒り。ブツブツと続く人魂の愚痴は、聞いているだけでこちらの気分をひどく滅入らせてくる。
喜びや楽しみなど一つもないこんな場所に、バーベナの魂を独りにしておくわけにはいかない。あの人には愛に満ちた楽しい場所でいつも通り笑っていて欲しいと、僕は改めて思った。
僕は目を瞑り、ゆっくりと歩き始める。
どうせバーベナは泣いている。
この広大な死者の国の中で、きっと幼子のように泣いているはずだ。
貴女はとても大雑把で、強くて、優しくて、とても寂しがり屋な弱い女性だから。孤独に堪えきれずに泣き喚いているだろう。
僕は貴女の涙を覚えている。
家族のように愛した魔術師団の上層部達を奪われ、精神を追い詰められていったときの貴女の悲鳴が、いつまで経っても忘れられなかった。
そんなふうに誰かを愛した貴女が眩しく、愛された上層部達が羨ましく、十六歳の僕は貴女の涙を拭き取れるような大人になりたかった。
僕は三十二歳になり、僕という人間を構成する外側は大人になったが、精神の根幹に関してはそれほど大きな変化を感じていない。
僕は十六歳の頃の僕と相変わらず、勇ましいバーベナに振り向いて欲しくて一生懸命格好着けようとし、失敗し、空回りし、貴女の一挙一動に振り回されているだけの情けない男だ。
だけど昨夜泣いている貴女の涙を拭い、抱き締めて慰められるくらいには大人になれたことを僕は証明した。
僕は貴女の夫だ。
結婚の始まりをとことん間違え、まだまだ未熟な夫でしかないけれど、世界でただ一人この僕だけがオーレリア・バーベナ・ロストロイの夫なのだ。
妻の涙を拭い取るのは夫の権利である。
リドギア王国の法律に記載されてなくとも、そうに決まっている。むしろ議会で可決すべきです、陛下。
さぁ、進もう。
泣いている妻の魂を捜し出し、慰めて、二人で一緒に地上へ帰るのだ。
▽
うえええぇぇぇぇん!!!! うわあああぁぁぁぁん!!!!
ヤバい、私また死んじゃったっぽいよぉぉぉぉ!!!!
なんか私また魂の姿になってるし、どう見ても今いる場所は地上じゃないし、ヴァルハラでもないし。ここ絶対に死者の国でしょ!!
なんか周りの人魂皆ブツブツ言ってて怖い。暗い。花も咲いてなくて、景色が荒野の夜みたい。魂だからお酒も飲めないし、すごくすごく嫌過ぎる。
やっぱりあの黒い水晶玉に近付いたのが悪かったんだろう。
私は普通の人より死に魅入られやすいみたいだから、呑み込まれて死者の国まで引きずり込まれちゃったんだ。
どうしよう、どうしよう。
———死ぬのが嫌だ。
私は今はっきりと自覚してしまった。
例えここが死者の国じゃなくてヴァルハラだったとしても、魔術師団の皆が居て蜂蜜酒飲み放題だったとしても、絶対に「死にたくなかった」と泣き喚いているだろう。あれほどヴァルハラを恋しく思っていたのに。
だって私、ギルと一緒に生きていたい。
まだまだギルと一緒に、どこまでも、遊んで、笑って、暮らしたいよ———君の妻として。
魔術対決とかしてないし、ロストロイ領にも行ってないし、まだギルの作ったポエムの完成作も聞いてないよ。
温泉だってギルと一分しか入れなかったし、結婚指輪も選んでないし、ねぇ、私、後悔しかない。
嫌だ、嫌だよ。もうギルに会えないなんて嫌だ。
私のことが大好き過ぎるギルに会いたい。
ハートのピアスを贈ってくる、ダサいギルに会いたい。
前世の私に操を捧げて「貴女を愛することはない」とか言っちゃう、ばかなギルに会いたい。
———私の愛おしい夫に会いたい。
私、いつの間にこんなにギルを夫として愛してしまっていたんだろう。
こんなふうにただ一人の相手に強い愛情を持ったのは初めてだ。
バーベナの頃に付き合った人全員、本当に淡い好意だったのだなと今になって分かる。離れてしまえば消えて忘れてしまう程度のものだった。
失いたくない、離れたくない、こんなふうに別れたくない、終わりにしたくない。死に物狂いでギルにすがりつきたい。
どうして死ななきゃならないんだ。私は生きたい。
ギルと一緒におじいちゃんおばあちゃんになるまで、楽しく遊んで長生きしたかったよぉぉぉ……。
▽
もうどれほど暗闇の中を歩き続けただろう。
目を閉じて、ただ妻の声を探しながら死者の国をさ迷っているせいで時間の感覚がない。半日くらいしか経っていないような気もするし、もう百年もバーベナを探し求めている気もする。
けれど人魂達の怨み辛み罵詈雑言の中に、僕の心に爪を立てるような、悲痛な泣き声が聞こえてきた。
「……バーベナ」
妻の泣き声だ。
身も世もなく泣く、妻の魂の声だ。
僕はその声を頼りに足を進め、妻の名前を呼んだ。
「そこに居るのでしょう、バーベナ。迎えに来ましたから、一緒に帰りましょう」
「……ギル?」
泣き過ぎて思考がぼんやりとしているのか、バーベナは力の抜けきった声をしている。
「ギルの幻が見える……、私を呼ぶ幻聴まで聞こえる……、そんなわけないのに……。私、ついに壊れちゃったのかも」
「いいえ、現実ですよ。貴女の夫のギル・ロストロイです」
「うそだぁ。ギルが死者の国に来るわけないよ。ギルは私と違ってまともだから。自爆したりしないし、死んだとしてもヴァルハラに行ける人だよ……」
「バーベナの為ならば、幾らでも死者の国へ墜ちますよ」
貴女と共に居られるのならば、僕は死者の国でも構わない。離ればなれになるくらいなら、そちらの方を選ぶ。
けれど、バーベナの方が死者の国では堪えられないだろう。実際泣き喚いているくらいだし。
「……本当にほんとのギルなの?」
「ええ、そうです。さぁバーベナ、一緒に地上へ帰りましょう。どうか僕の方へ来てください」
バーベナの沈黙に、『地上に帰れるって、どういう事なのだろう?』という困惑が滲んでいる。
バーベナは自分が本当に死んでしまったのだと思っているのだろう。
僕は説明の為にまた口を開く。
「バーベナの肉体はまだ辛うじて生きています。だから僕が貴女の魂を地上に連れ帰れば、再び生きることが出来るんですよ。
どうか僕と一緒に地上で生きてください、バーベナ。それが嫌だと仰るのなら、僕も共に死者の国で暮らす覚悟はあります。ですが貴女には、こんな寂しい世界は似合いません。
明るくて、暖かくて、お酒とご馳走があって、貴女の側でたくさんの人が微笑みかけてくれるような場所で、僕と共に生きてください———僕の妻よ」
目を瞑ったまま両手を差し出せば、指先にふよふよとした冷たい空気を感じる。これがバーベナの人魂の感触だろうか。
「……なんでギルが肉体ごと死者の国に居るのか、ずっと目を瞑って喋ってるのかとか、気になることはいっぱいあるんだけど。そんなふうに夫からたくさん口説かれちゃったら、涙も止まっちゃうよ。
分かった、地上に帰る! 夫が迎えに来てくれたから、帰るよ!」
僕はバーベナの魂を両手でそっと包み込み、彼女の今の姿を決して見ないようにローブの内側へと仕舞い込む。
「ギル、愛してる!」
「僕も貴女を愛していますよ、バーベナ」
ローブの中から声をかけてくれる彼女に答えながら、僕はようやく目を開ける。
そして僕は妻の魂を大事に胸に抱えたまま、死者の国から地上に続く長い長い上り坂を歩いて帰った。




