114:狡知の神
教会の中はだだっ広い森だった。
たくさんの広葉樹が生えているのに、自分以外の生命の存在を感じない。鳥の鳴き声も、動物が潜んでいる雰囲気もなく、耳に痛いほどの静寂が続いていた。
あぁ、こういう雰囲気は苦手だ。明るい命の営みがない場所には一分一秒もいたくない。
そう怖気づきつつも、私の歩みは止まらない。
ギルの魔力を感じるほうへと、ただひたすら足を動かした。
いったいどれほど森の中を進んだのかは分からないが、ふいに目の前の景色が変わった。森が開けて、緑のなだらかな丘が現れた。
丘の上には一本の巨大な木が生えていたが、葉っぱはすべて枯れ落ち、地面には腐った林檎が落ちている。あれが、この地の若者が大神様からもらったという、オリジナルの黄金の林檎だったのだろう。甘くてむわっとしたアルコール臭が、私のほうまで流れてきた。
丘を登っていくと、一人の若い女性の後ろ姿が見えた。リィーエさんだ。
そして彼女から少し離れたところに、夜着に身を包んだギルが倒れていた。
「ギル!!! 大丈夫なのか!!?」
私はギルに駆け寄り、彼を抱え起こす。目立った外傷はなく、呼吸もしているが、揺さぶってもギルは目を覚まさなかった。
「リィーエさん!! ギルにいったい何をしたんですか!!? まさか、このまま目覚めないとか……」
激情に駆られたまま彼女に怒鳴る私のほうに、リィーエさんはようやく振り向いた。
「安心しろ。ただ気を失っているだけで、いずれ目を覚ます」
領主館に訪れたリィーエさんと話した時は確かにバーベナと同じ声をしていたはずなのに、今の彼女の口からは、男性の低い声が出てきた。
「……その声、どうしたんですか? ていうか、その顔も、体も、爆破魔術も、言動も、なんなんですか……。リィーエさん、貴女は一体誰なんだ……?」
私の問いかけに、リィーエさんはフッとニヒルに笑う。その笑みの醜悪さに、彼女、いや、彼? は徹底してバーベナを演じようとしていたのだと、ハッキリと理解した。
なんとなくだが、オリジナルの黄金の林檎の木を枯らしたのも、リィーエさんのような気がした。
「まぁ、正体を現してやってもいいか。ギル・ロストロイを手に入れられなかった時点で俺の作戦は失敗だからな」
リィーエさんの姿がブレたと思った次の瞬間には、バーベナ似の女性は消えて、非常に麗しい美青年がそこに立っていた。
髪は金色だが、その瞳は角度によって赤にも緑にも黄色にも変化する。人間にはありえない虹彩を持っていた。
「俺は地上の者たちからは『狡知の神』やら『閉じる者』と呼ばれている。まぁ、『ロキ』と呼んでもいいがな」
その名前は、教会の神話に何度も登場している。火を司る巨人でありながら神々の世界の仲間入りし、けれどいずれは神々を裏切って、世界を終わらせる存在として予言されている。
以前封印したフェンリルよりも高位の存在の登場に、私の背に冷たい汗が伝う。
「……ギルを手に入れられなかったとおっしゃってましたけれど、そもそも、どうしてギルを手に入れたかったんですか?」
「世界の終わりの時期を早められたら、面白いだろ? だから地上の者たちの中でもとりわけ魔力の高いギル・ロストロイに目を付けたんだ。天才魔術師であるこの男を操って、『間に夏を挟まない冬』を三度訪れさせればいい。そうすれば大飢餓が起こり、世界の終わりが始まる。すごく愉快だろう? この男の命を使い潰せば、天変地異も不可能じゃないさ。
それにこの男は、長年、死に魅入られていた。死んだ女に懸想して、早く自分も死後の世界に行きたいと願っていた。そういう魂は扱いやすい。俺が死んだ女の姿で現れれば、ちょっと誘惑するだけで手玉に取れる。……はずだったんだけれどな」
狡知の神は腰に両手を当て、深く溜息を吐く。
「ちょっと俺のタイミングが遅かったようだ。いろいろ根回しして『リィーエ』という存在を作ってみたが、ギル・ロストロイはもうすっかり持ち直して、生きることに幸福を感じるようになってしまっていた。
そう、お前のせいだよ、オーレリア・バーベナ・ロストロイ」
こちらを睨みつけてくる狡知の神に隙を見せないよう体勢を整えながら、考える。
狡知の神は変身が巧みだと聞く。性別まで変えられるとか。だからバーベナに瓜二つの存在になれたのか、とようやく納得する。
ギルがリィーエさんのことを『バーベナ像似』だと言っていたのは、たぶん狡知の神が王都にあるバーベナ像を見本にしたのだ。若干美化されていることも知らず。
リィーエさんが使用していた爆破魔術の魔術式が通常の古代文字ではなく、神聖文字だった件も、狡知の神が人間の魔術を使用しようとして、大昔の魔術式を使ってしまったのだろう。情報が現代にアップデートされていなかったのだ。
そして狡知の神が名乗っていた『リィーエ』という名前だが、十中八九『Lie(嘘)』が由来だろう。
……転生して良かったと、改めて思う。
私が今ギルの奥さんをやっていなかったら、ギルは狡知の神に操られて、世界の終わりを早めるための道具にされていた。
ギルがバーベナの死をもう引き摺っていなくて良かった。
オーレリアである私とこの先を生きたいと思ってくれていて、本当に良かった。
「あぁ、そうか。今更だが、ようやく気が付いた。お前が、ギル・ロストロイが死を嘆いていた魂なんだな? それじゃあ、俺の付け焼刃の演技では、死に靡くわけもなかったか」
狡知の神は私を見て、面白そうに言った。
「それにしても、お前の魂は珍しいな。死者の国に繋がっている。さすがのオーディンも運命の理をそう簡単に捻じ曲げられなかったか。だが、一度死に向かった魂に新しい肉体を与えて転生させようなど、あいつらしい傲慢な行いだ。あいつは一度だって公平であった試しがないからな。
そうだ! ギル・ロストロイではなく、お前を操るのはどうだ? 死者の国は俺の娘のヘルの領域だから、俺にもお前の魂は親しみやすい。それにお前は爆破魔術が得意だ。火の巨人である俺の下僕みたいなものだろう。
よし、計画変更だ。そうすればオーディンの鼻を明かせるし、お前を人質に取られたギル・ロストロイも、俺に従うだろう」
なんだか最悪なことを言い出したぞ、狡知の神め。
私は未だ目を覚まさないギルをぎゅっと抱き締める。
「さぁ、俺のものになれ、オーディンが運命を捻じ曲げた人間よ」
「お断りしまーす!!!!!」
火の巨人である狡知の神相手に、私の爆破魔術がどこまで対抗出来るのか分からない。ぶっちゃけ向こうのほうが力は上だ。
でも、私には――……
『うちの孫娘をそちらの軍勢に勧誘されるとたいへん困ります。お引き取りください、狡知の神よ』
『わたくしもリザ元団長と同意見ですの。狡知の神相手だろうと、引いたりいたしませんの。『水龍の姫』であるわたくしがいる限り、勝利は確実ですの!』
『ったく、しゃあねーなー! ここは俺様の出番だな! 『闇より生まれし漆黒の支配者』たる俺様の目が黒いうちは、後輩に余計な手出しをさせねぇぜ!』
『そこで寝ている役立たずのギル・ロストロイでさえ目障りなんだから、これ以上、間男は必要ないよ。今までの私とは違うというところを見せてあげる』
『ふぉっふぉっふぉっ。世界の終りの前に、ここで神殺しを行うのも面白そうじゃ。どれ、この儂が狡知の神をひれ伏せさせてみせようかのぉ』
『大神様のために、オーレリアとギルのために、華麗なる未来のために!!! オーレリアの守護神団よ、いざ、華麗に出陣だ!!!』
頼りになる守護霊が六人もいるんだ!!!
ばーちゃん以外の人の台詞が、かつて戦争が始まる前に格好良く宣言していた台詞と酷似していて、若干死亡フラグっぽいことが怖いけれど。いや、もう死んでるから問題ないのか?
それにしてもジェンキンズ、再試験に合格したんだな。良かったじゃん。今度は資格を剥奪されるなよ。
私は心強い守護霊たちの登場にホッとした。
大神はもちろんオーディンで、隣国トルスマン皇国が崇めていたのが軍神であり天空神のテュールでした。
明日は2話連続更新して完結します!