逆行した深窓の令嬢は、猫かぶりをやめて頭のおかしい王太子に嫌われようとした――のだが。
長いです。すき間時間にどうぞ。
赤々と燃え上がる屋敷を、アンジェローザ――アンジーは地面にへたり込んだまま呆然と眺めていた。生まれてから十八年の間に積み上げてきた思い出も大切な品々も、火の粉と一緒に黒い炭になっていく。
「炎から逃げられたのか、アンジェローザ」
ガシャ、ガシャ、と重苦しい音がして、アンジーは鎧を纏った兵士に取り囲まれた。目の前に立った人物はデュルトワ国の王太子セルディオ――いや、すでに王太子ではない。父王を弑逆した彼は事実上、この国の支配者となった。武力に任せた強引さで。
「殿下……。何故ですか? どうして公爵家を滅ぼす必要があったのですか!? お父上を殺してまで……デュルトワをどうするおつもりなのですか!!」
膝にすがり付くアンジーを、セルディオは手で振り払う。その冷ややかな態度は婚約者に対するものではなかった。
(やはり殿下は、わたくしを愛してなどおられなかった……)
十二歳のとき、王太子と同い年で最も身分が高い令嬢という理由により、アンジーは王太子の婚約者に選ばれた。初対面でお互いに何も知らぬままの婚約である。だからセルディオの態度が冷たくても仕方のない事と我慢していた。
この六年、自分はなにを見てきたのだろう。まさか王太子が父王を殺し、国を乗っ取ろうとするなんて予想もしていなかった。
「何故もなにも、私はずっと昔から全て滅ぼしてやりたいと願っていた。決行がたまたま今夜だった、それだけの話だ」
セルディオが皮肉そうに口元を歪めながら剣を抜き、アンジーの喉へひたりと押し当てる。冷たい感触に全身から汗が滲むようだ。
「せめて苦しまぬよう、一撃で天国へ送ってやる。暴れるなよ」
(いや……。まだ死にたくない……!)
抵抗しようとしたアンジーの視界に、燃え上がる屋敷が映った。あの中には大好きな父と乳母のデアナがいる。アンジーの部屋は火の手が上がった場所から遠かったので無事に逃げられたが、彼らは間に合わなかった。
(大好きな人がいない世界なんて、生きていたって寂しいだけ……。わたくしもお父様とデアナの元へ……)
アンジーは目を閉じ、そっと両手を組んだ。セルディオの剣が凄まじい速さでアンジーの喉を切り裂き、直後に心臓にも突き立てられる。
地面に倒れ伏したアンジーは暗くなる視界の中、不思議なことを思い出していた。
(おかしい、わ……。前にもこんな事があったような……気がする……)
それきりアンジーの意識は途絶え、闇に飲まれていった。
◇ ◇ ◇
「なんて事なの……。これで三度目だわ。また失敗してしまった……」
誰かが嘆く声で目を覚ますと、真っ白な空間に白いテーブルと椅子があり、女神のように美しい女性が座っている。女性は髪も瞳も蜂蜜のような金色で、髪は床に引きずるほど長かった。
いや――よく見ると女性の体も髪も宙に浮いている。床があるようでない世界なのだ。視界のあまりの白さにアンジーは目をぱちぱちと瞬かせた。
「あのう、ここはどこでしょう」
アンジーが尋ねると、女性は咳払いしつつ椅子から立ち上がる。
「アンジー――アンジェローザ・エヴァンス、十八歳ですね。マクナリー公爵家の娘であり、王太子セルディオ・ラルカーン・デュルトワの婚約者」
「ええ、そうです」
「わたしはこの世界の管理を任されている神の一人、ウラニーアです。どうしても貴女に頼みたい事があってこの場にお呼びしました」
「神様が、わたくしに……?」
寝ていたアンジーは立ち上がり、貴族の娘らしく上品に背筋を伸ばした。どうやら自分は死んでしまったようだが、死の国へ行く前に女神に呼び出されたらしい。
ウラニーアは言いにくそうに口を開く。
「貴女に頼みたい事というのは、王太子セルディオの事です。父王を殺した彼は他国へ攻め入り、十年でこの世界を滅亡させてしまいます。セルディオが世界を滅ぼすたびに時間を巻き戻してきましたが、今回も彼を止めるのに失敗しました……。これで三回目の失敗です」
「そんな……本当なのですか?」
過去にもセルディオに殺されたという記憶が微かに残っており、女神の言葉は恐らく真実なのだろうと思った。が、全てを信じ込むのは少しためらいがある。
「本当です。これをご覧なさい」
女神は腕を伸ばし、人差し指の先でアンジーの額にちょんと触れる。その瞬間、頭のなかに凄まじい速度で画像が映し出され、アンジーは額に手を当ててよろめいた。見たものは戦争によって苦しむ人々と、全身に血を浴びて笑うセルディオの姿だ。
「なんてこと……! 殿下がここまで残虐な方だったなんて」
「アンジェローザ、どうか王太子セルディオを止めてください。このままでは何度でも彼によって世界は滅びてしまいます」
「女神様のお気持ちは分かりました。でもわたくしに殿下を止められるとは思えません。殿下はわたくしを愛しておられなかったのですから」
婚約者に好かれていないという惨めな現実を、死んでしまったアンジーはあっさりと認めた。もう吹っ切れたのだ。愛されなかったのだから仕方ない。
女神は気の毒そうにアンジーを見ている。
「王太子があそこまで自暴自棄になってしまったのは、我々のせいでもあるのです……。セルディオは孤独な子で、彼のそばにいたのは貴女だけでした。どうかこの世界を救ってください、アンジェローザ。王太子を止めることが出来たら、あなたの望みを何でも叶えて差し上げましょう。別の人間に生まれ変わる事も可能です」
「別の人間に……」
アンジェローザとして三度生まれ、その度にセルディオに殺された。自分が幸せになるには、別の人間として生きるべきなのかもしれない。
「分かりました。もう一度だけ頑張ってみます。それで駄目でしたら、別の人間にアンジェローザの役目を任せてください」
「ありがとう、アンジェローザ。セルディオを止めるために貴女に加護を授けます。『隠密』の加護です」
「オンミツ……? どんなものですか?」
「隠密と唱えると、あなたの姿は誰にも認知されなくなります。何をしようと誰も気にしなくなります。解除と唱えると元に戻りますが、『隠密』を実行している間は声を出したり誰かに触れたりしないように。解けてしまいますからね」
「分かりました」
「いちど誰かに与えられた加護は、神でも奪うことが出来ません……。セルディオも加護を持っています。貴女には彼の加護が効かないようにしておきますね」
王太子も加護を?
それはどんなものなのか――問う前にアンジーは意識を失った。急激に眠くなり、体が浮く感覚に包まれる。
次に目を開けた時には、見慣れた天井が視界に映っていた。公爵家の自室だ。
(火事で焼けたはずなのに……。本当に時間が巻き戻ったのだわ!)
起き上がって自分の体を見下ろすと、手は驚くほど小さかった。寝台から降りて姿身に体を映す。身長は頭ひとつ分ほど低くなったようだ。ふわふわとした白っぽい銀髪と薄い水色の瞳は当然ながら変わっていない。
アンジーの容姿は絶世の美女という程でもなく、かといって見るのが不快という程でもない、普通の女の子である。
王太子はもっと美しい子と婚約したかったのかもしれないが、王命とあっては拒めなかったのだろう。十二歳の少年には、父王に反発できる程の力はなかったのだ。
次にアンジーは机に向かい、左の引き出しを開けた。いつも日記を書いていたが、ここにその日記帳を保管していたはずだ。引き出しの中には予想通り、赤い表紙の日記帳があった。
「日付は六年前になっているわ……。つまり今のわたくしは十二歳ということね」
アンジーはにこりと笑い、日記帳を引き出しに戻した。何ページか読んだが内容のほとんどが父方の祖母に関する愚痴ばかりで、王太子にはまだ出会っていないらしい。
アンジーは三歳の頃に母を病で亡くし、それ以降は忙しい父に代わって父方の祖母がアンジーを厳しく躾けた。祖母は去年亡くなったが、「女は一歩引いて男を立てるもの」だの、「謙虚で大人しい女性こそ美しい」だの言ってアンジーを地味で目立たない女性に育て上げた。
だからアンジーはほとんど屋敷から出た事がない。出るのは王太子と出掛ける時ぐらいで他の令嬢とも会わないから、社交界では皮肉ぶって「深窓の令嬢」と噂されている。ドレスも流行おくれの古いデザインなので、余計に地味に見えるのだろう。
深窓といえば聞こえはいいが、つまりは「引きこもり」だと馬鹿にしているのだった。
「でもそれもおしまい。今回の人生では深窓の令嬢をやめるわ」
女神と約束したのは、王太子から世界を守るということだけ。彼の妻になれとは言われていない。セルディオの暴走を止めることが出来ればいいわけだ。
(もう二度とセルディオ様に振り回されたりしない。わたくしは自由に生きてみせる!)
十二歳に戻ったアンジェローザは、子供に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべた。
アンジーは一人で身支度を終えて食堂へ向かった。
乳母だったデアナは今では侍女になり、アンジーの世話をしてくれるが、今のアンジーは体が十二歳なだけで中身は十八である。
祖母は侍女の仕事を奪うものではないとアンジーに言ったが、もう大人しく従うつもりはなかった。部屋にやってきたデアナは少し驚いていたものの、「お嬢さまも大きくなられて」と嬉しそうに言ってくれた。
「おはようございます、お父様」
「おはよう、アンジー」
食堂にはすでに父がいて、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。大臣の一人である父は多忙で、いつもアンジーより遅く寝るくせに朝も早いのだ。すでに朝食を終えてしまったのだろう。
「今日は王太子殿下が来られる日だよ。準備は出来ているかい?」
「ええ、大丈夫よ」
アンジーが平然と答えると父は目を丸くした。
「これは驚いたな。いつも自信が無さそうなアンジーが、こんなに堂々としているとは」
「わたくしももう十二歳ですもの。婚約者と初めてお会いするだけなのに、怯える必要はないと思いますわ」
「ますます驚いたなぁ。私の娘はいつの間に成長したんだろう」
父は感慨深そうに呟くと娘の頭を愛おしそうに撫で、頬にキスをしてから食堂を出て行った。父にとってアンジーは妻の忘れ形見である。妻によく似た娘が愛しくて仕方がないのだ。
昼が過ぎ、お茶の時刻になった頃、家令が来客を告げる。
(とうとう来たわね、セルディオ様)
アンジーは表情を変えることもなくエントランスに出て、王家の紋章が入った馬車を迎えた。カーテシーをしていると目の前にこつんと靴音がして誰かが立つ。
「顔を上げてよろしい」
横柄に告げる声はやはり王太子セルディオだった。身長はアンジーより少し高いぐらいで、あまり差がない。セルディオは金髪碧眼の美男子ではあったが、六年も冷たくあしらわれ続けたアンジーは彼の顔を見ても胸が疼くことはなかった。
(最初は格好いい王子様だと、ときめいたりもしたのだけど……。今は殺された記憶があるせいか何とも思わないわ)
冷めた目で見やれば、向こうもアンジーをじろじろと見ている。平凡な容姿の娘だとでも思っているのだろう。アンジーは事務的に王太子を応接間へ通した。
有能な家令がメイドに指示し、何事もなくお茶が始まる。アンジーはなるべくセルディオを見ないようにしていたが、視線を合わさないようにすればするほど彼がアンジーを観察しているのが何となく分かって嫌だった。
(どうしてそんなに見てくるの。あなただってわたくしには興味がないでしょうに)
お茶が終わったあとは、広大な公爵家の庭を散策。セルディオがアンジーに気遣う様子もなくずんずんと歩いていくので、こちらも気が楽だった。好きなペースで歩けばいいのだ。
ここは生まれ育った庭なのだから――と思っていたら。
「アンジェローザ。どうして僕の速さに合わせない?」
アンジーは驚き、王太子の顔を凝視した。こんな台詞をぶつけられるとは思っていなかった。前回の人生では祖母の言いつけを守り、アンジーは健気にセルディオを追いかけ続けたので、彼も何も言わなかったのだろう。
「合わせる必要がありますの? ここはわたくしの家の庭で、迷子になる心配もありませんわ。殿下もどうぞ、お好きな速さで歩いてくださいませ」
「僕に合わせろ、と言ったらどうする?」
セルディオはどこか楽しげに言った。アンジーは不快な気持ちになったが、考えてみれば自分の方がかなり年上である。記憶がある分、アンジーの方が大人として振る舞うべきだろう。
「嫌です、と申し上げますわ」
「……おまえ、面白いな。僕に抵抗できる人間がいるとは思わなかった」
その言葉で、アンジーはふと前回の人生を思い出した。過去を思い起こせば、セルディオに面と向かって反発できる人間はほとんどいなかったように思う。
アンジーも同じで、なぜか嫌だと思ってもセルディオに従ってしまうことは多かった。
(女神さまが仰ってた、殿下の加護に関係があるのかしら……)
女神ウラニーアは王太子の加護はアンジーに効かないようにすると言っていたはずだ。つまり今回の人生、アンジーはセルディオの支配を受けずに済む。
「嬉しそうだな。なにを笑っている?」
「人生が楽しいので、笑っているのです」
「羨ましいな」
セルディオはためらいなくそう呟いた。王太子という立場の人間から、「羨ましい」と言われるとは。
(少し殿下のことを調べてみましょう。国王陛下を殺したのだって、何か理由があるのかもしれないわ)
目の前にいる十二歳のセルディオは偉そうな印象を受けるものの、父親を殺したいほど憎んでいる様子はなさそうだ。六年間で何かが変わってしまったのかもしれない。
アンジーは密かに女神の加護を使おうと決意した。
その日の夜、アンジーは早めに食事を終えて自室に下がった。疲れたから休みたいとデアナに告げ、一人きりの部屋でこっそり唱える。
「隠密」
言葉にしたものの、体が光ったり軽くなったりする事はない。本当にこれで大丈夫なのかと思いながら身軽な外出着に着替え、公爵家の門を出た。衛兵が見張りに立っていたが、アンジーが堂々と歩いて門から出ても何も言われない。
(本当にわたくしの行動が気にならないのだわ……。道端の石ころになったみたいな感じね。これなら王宮にも忍び込めそう)
公爵家の屋敷と王宮は隣接しており、子供の足でも数十分で到着できる。普段馬車を使っているのは貴族という立場を守るため、そして強盗などの危険を避けるためだ。
でも今のアンジーは誰にも認知されないので、誘拐される心配もない。
アンジーは暗くなった街道を堂々と歩き、王宮の正門をくぐって内部に侵入した。勝手に入るのは少しドキドキする。
(殿下の部屋は、確か……)
今回の人生ではまだ訪れたことはないが、前回は何度かセルディオの部屋へ通された事がある。毎回たいした会話もなく、お茶を飲んで終わる仲だったが、部屋の位置を覚えることが出来たのは幸運だった。
廊下を進み、階段をのぼって王太子の部屋に入る。セルディオを見た瞬間、アンジーは声を上げそうになった。
(どうして自分の部屋で食事をしているの? しかも時間も遅いし……)
アンジーは二時間も前に食事をしたというのに、セルディオは薄暗い部屋の中で一人ぽつんと食べている。彼は無表情で黙々と食事をしていたが、しばらくしてナイフをかたりと置いた。暗い顔で。
「おいしくない……。父上の仕事が終わるまで待っていたのに、どうして父上はいつも僕と食事をしないんだ。僕はずっと一人で食べなきゃいけないのか……」
アンジーはまたもや声を上げてしまうところだった。
(大変だわ。まさか国王一家が家庭崩壊を起こしているなんて知らなかった……!)
王妃はセルディオを産んだ際、出血が多くて命を落としたと聞いている。アンジーの場合は父が娘を溺愛していたので孤独を感じなかったが、セルディオはそうではないらしい。彼は明らかに放置されている。
テーブルに載せられた食事は豪華でおいしそうだったが、薄暗い部屋で一人で食べていては味なんて分からないだろう。
(こういうすれ違いが積み重なって、父親を憎むようになったのかしら。少し可哀相だわ……)
自分を殺した相手といえど、今のセルディオはまだ十二歳の少年だ。たった一人、自分の部屋で食事をする姿はさすがに気の毒である。
「今日会ったアンジェローザは良かったな……。僕を見ても変にならなかった。皆ああだったら良かったのに」
(わ、わたくしの話をしている……! でも何だか悲しそう。なにかしてあげられないかしら)
アンジーは部屋をきょろきょろと見回し、彼のために何か出来る事はないかと考えた。ひどく殺風景な部屋で、机や椅子、寝台の他は無駄なものが何もない。
(何もない部屋ね……。もう少し可愛いものでも置いたらどうかしら……。あ、そうだわ!)
アンジーは一度王宮から出て公爵家へ戻り、ある物を持って来た。さすがに疲れたが、あの状態のセルディオを放置するのはなにやら気が引ける。
再び彼の部屋を訪れると、王太子は広い寝台にぽつんと寝ていた。よく見ると頬に涙の筋があり、アンジーは胸に痛みを覚えた。
(ほら、わたくしの宝物をひとつあげるわ。だから元気を出しなさい)
アンジーは寝ている王太子に近寄り、布団のすき間にクマのぬいぐるみを寝かせた。『隠密』を使っている間は手に持っている物も認知されなくなるようで、クマのぬいぐるみを抱いていても何事もなく王宮に忍び込めた。
(意外と似合うわね……。殿下が見目麗しい王子様だからかしら)
セルディオのすぐ横にクマが寝ているのは滑稽で笑いそうになったが何とかこらえる。
このぬいぐるみは人間の赤ちゃんぐらいの大きさで、父が買ってくれたものだ。母を亡くして寂しがっていたアンジーに父はたくさんのぬいぐるみを贈ってくれた。だから一つぐらいはセルディオにあげてもいい。
「ん……?」
寝返りを打ったセルディオはふと目を覚まし、ぬいぐるみをぼんやりと見つめる。アンジーは心臓が飛び出そうになったが何も言わなかった。
セルディオはふにゃりと笑ってぬいぐるみを抱きしめ、幸せそうに眠り始める。
(良かった……。ついでに手紙を差し込んでおきましょう)
アンジーは自室で書いてきた手紙を枕元に置いて部屋を出た。『いつも君を見守っているよ』と書いた手紙だ。こんなものが役に立つかどうかは分からないが、突然ぬいぐるみがあるのは不自然だから裏工作は必要だろう。
公爵家に戻ったアンジーはへとへとになっており、そのまま倒れこむようにして眠ってしまった。自分が置いたぬいぐるみによって、何が起こるかも知らないまま。
しばらくして、また王太子と会う日を迎えた。
今回は公爵家ではなく、アンジーが王宮に行く事になっている。デアナにドレスを着付けてもらったアンジーはいつものように馬車に乗って王宮へ向かった。通されたのはサロンの一つだった。
「よく来たな、アンジェローザ」
偉そうな王太子がやって来た。が、アンジーは必死に笑いたいのをこらえていた。偉そうにしていても自分の部屋では泣いているし、寝ている時はクマのぬいぐるみを抱いているわけだ。可愛い。偉そうだからこそ、そのギャップが可愛い。
「どうした、何を笑っている。また幸せなのか?」
「え、ええ、そうですわ。今回はとても楽しいのです」
「よく分からない女だな……」
王太子は首をかしげつつ紅茶を飲んでいたが、ふと視線を動かして怪訝そうな顔をした。アンジーの腰の辺りを食い入るように見つめている。
「……可愛いクマだな」
「えっ、ええ!」
(しまった。ドレスの飾りに、小さなクマのぬいぐるみを付けていたのだったわ)
後悔してももう遅い。アンジーは平静な顔を装って紅茶を飲んだが、セルディオはやはりじっと小さなクマを見ている。
やがて彼は傍に控えていた侍従に何か言い、紙とペンを持ってこさせた。そして。
「アンジェローザ。この紙に、『いつも君を見守っているよ』と書いてみてくれ」
「……!!!」
アンジーは仰天して、飲んでいた紅茶を噴き出すところだった。これはまずい。
「ど、どうしてですの。その言葉に何か意味がありますの?」
「とても大切な意味がある。書いてくれ」
セルディオの表情は真剣そのもので、冗談で誤魔化せるような雰囲気ではない。アンジーは仕方なくペンを取り、紙に言われたことを書いた。但し、かなり筆跡は変えたつもりだ。ばれないだろう。多分。
「……似ているような、似ていないような……」
セルディオは紙を見てボソボソ言うと、サロンを出て行ってしまった。すぐに戻ってきたが、彼の腕にはクマのぬいぐるみがある。アンジーは息が止まりそうだった。
「か、かわいいぬいぐるみですわね……」
「見覚えがないか?」
「ありませんわ。でもとにかく可愛いぬいぐるみで――」
話している間にサロンのドアが開き、セルディオの父がやってきた。言わずとしれたこの国の王、国王陛下である。アンジーは慌ててカーテシーをした。
「アンジェローザ、よく来てくれた。不出来な息子だがどうかよろしく頼む」
国王の言葉はアンジーを暗い気分にさせた。セルディオは父親から放置されて心を痛めている。なのにその言い草はどうなのだろう。
さらに彼は息子を見て、冷ややかに言い放った。
「王太子ともあろう者が、なにを腕に抱いている。おまえは男だろう、ぬいぐるみなど持つものではない」
「……お待ちください、陛下。そのぬいぐるみはわたくしが殿下に差し上げたものですわ。殿下は何も悪くありません。あの……セルディオ殿下が寂しそうにしておられたので、思わず渡してしまったのです……」
(ああ、失敗したわ……。自分からぬいぐるみを渡したことを暴露してしまった……)
アンジーは墓穴を掘ったことを自覚しながら頭を下げ続けた。しばらくして、国王が言いにくそうに「すまない」と呟く。
「そうか、寂しそうか……。セルディオ、贈られたものは大切にしなさい」
そう言ってサロンから出て行った。ふと王太子を見れば、彼はとても嬉しそうな顔をしている。
「大切にしろと言うことは、捨てなくてもいいんだろう。そうだよな、アンジェローザ。やっぱりおまえがくれた物だったんだな」
「……ええ。大切になさってください」
「どうやって僕の部屋に置いたんだ? 夜中に忍び込むなんて、アンジェローザは何者なんだ?」
「秘密です。わたくしには不思議な力がありますの」
意味深に笑ってみせると、セルディオは子供らしく目を輝かせる。
「それじゃ僕と同じだな! おまえを初めて見たときから、変だなと思ってたんだ。なんでアンジェローザは僕をあまり見ないのかと」
「はい……? だってジロジロ見たら失礼じゃありませんか」
「そうだけど、初めて僕を見るやつは大抵じいっと見てくるからな。少し気味が悪いんだ」
「そうですか……」
どういう事だろう。セルディオには何の加護があるのだろう?
王太子とのお茶会は楽しいまま終わり、アンジーはまたもや『隠密』を使おうと決意しながら屋敷に戻った。
その夜、アンジーはまた王宮へ忍び込んでいた。今回は国王の寝所だ。
さすがに警備は厳しかったが女神の加護は凄いもので、誰にも認知される事なく侵入できた。
国王は椅子に座り、アルバムを見ている様子だ。こっそり背後に回って見せてもらうと、王妃や幼い頃のセルディオの写真がずらりと並んでいる。
「リシェーヌ、私はあの子が怖い……。私まであの子の力に負けてしまうのではと怖いんだ……」
悲しそうに呟いて王妃の写真を撫でている。
(怖い? セルディオ様が怖いってどういう事?)
耳を澄ませていると国王のひとり言が続く。
「世界には加護を持つ者が何人かいると聞いたが、セルディオの加護は強すぎる。あの子はひとを魅了する加護を持っている……。セルディオを見た人間はぼうっと熱に浮かされたような顔をして、あの子の命令を全部きくようになってしまう。私もいずれ同じ道を辿るんだろうか。あの子が寂しがっていると知っていても、傍にいるのが怖くてたまらないんだ」
(ああ、そういう事だったのね。殿下の加護は『魅了』なんだわ)
道理で前回の人生でも、セルディオに真っ向から反発する人間がいなかったはずだ。セルディオも力に押し潰されて他人が信用できなくなり、「全て滅ぼしてやりたい」と言ったのかもしれない。
(魅了でみんなが簡単に言うことを聞くなんて、つまらない人生になりそうね……。殿下は生まれた時から加護の力に振り回されて来たんだわ)
「しかし今日は不思議だったな……。いつもはセルディオに引きずり込まれる様な感覚があるんだが、今日は何故か大丈夫だった。どうしてだろう。アンジェローザが一緒にいたからだろうか? ……まさかな」
国王のひとり言に、アンジーは一瞬だけ飛び上がった。自分の名前が出てくるというのは心臓に悪い。
(わたくし? わたくしのお陰で殿下の加護が無効になった? そんな事――)
ないとは言い切れないかもしれない。女神はアンジーにセルディオの加護が効かなくなるようにしたと言っていた。
アンジーは国王の部屋から出て、公爵家の自室に戻った。机の引き出しを開けてペンダントを取り出す。
「やってみる価値はあるわ。これで殿下も普通の男の子に戻るかもしれないもの」
そうしてナイフを手に取った彼女は、ペンダントに細工をしたのだった。
しばらくしてまた王太子がやってきた。前回の人生では月に一度ぐらいだった訪問が、今回はやけに多い。むしろ呼んでもいないのに勝手にくる。
(でも来てくれて良かったわ。渡したいものもあるし)
アンジーはセルディオと一緒に庭を散策しながら、彼に話し掛けた。
「殿下にお渡ししたいものがあるのです」
「またクマか?」
「……クマではありません。もっといいものですわ」
アンジーは腕を伸ばしてペンダントをセルディオの首に掛けた。彼は不思議そうな顔をしていたが、嫌がることもなく受け取ってペンダントを見ている。
「何か入っているのか?」
「開けてみてください」
ペンダントを開けたセルディオは少しぎょっとしたようだった。それはそうだ、中にはアンジーの髪を入れてあったから。
「な、なんだこれは。呪いの品か?」
「呪いではありません。むしろ殿下を自由にするおまじないですわ。殿下は誰かを魅了する加護から解放されたいのでしょう。わたくしの体には、殿下の加護を無効にする力があります」
「そうか、だから髪を入れたんだな? このペンダントを身につけていると、他の人間が僕を見てもおかしくならないという事か?」
「ええ、恐らく。試してみましょう」
アンジーは離れたところにいたメイドを呼び、セルディオの傍に立たせた。入れ替わるようにしてアンジーがセルディオとメイドから離れる。二十メートルほど離れると、メイドが不安そうに叫んだ。
「お、お嬢さま? これはどういう事ですか?」
「そのまま王太子殿下を見てちょうだい。なにか感じる?」
「……いいえ、何も。特に変わった事は感じません」
「ありがとう、もういいわ」
アンジーが言うとメイドは首を傾げながら元の配置に戻っていった。セルディオは感激した様子でペンダントを見ている。
「これは凄いものだな……! 僕を見ても変にならなかったメイドはあの女性が初めてだ! おまえの髪の毛が効いたんだな!」
「そうだと思います。ペンダントはあげますから、大事になさってくださいませ」
「ありがとう、アンジー!」
(初めてアンジーと呼ばれたわ……)
今まではずっと「アンジェローザ」で、愛称で呼ばれたことはなかった。アンジーは不思議な胸の温かさを感じていた。
そうして六年の月日が流れ、アンジーは十八歳になった。六年の間に王太子から嫌われようと努力したつもりだが、それらは全て空振りに終わっている。
セルディオに好かれるようになったからか、自然と他の貴族とも親しくなり、もう誰もアンジーを「深窓の令嬢」と馬鹿にすることもない。
(こんな事になるなんて不思議ね……。今回のセルディオ様はどうしてか嫌いになれないわ)
それもこれも、彼の苦しみが理解できたからだろう。アンジーは微笑みながら壁に掛けられたウェディングドレスを眺めた。明日は王太子セルディオと公爵令嬢アンジェローザの結婚式である。
湯浴みを終えたアンジーは寝台に横になり――女神と会う夢を見た。
「ご苦労様でした、アンジェローザ。貴女のお陰で世界は救われました……。約束どおり、望みを何でも叶えてあげましょう」
女神ウラニーアが神々しく光りながらアンジーに告げる。もう望みは決まっていた。アンジーは顔を上げて堂々と言った。
「わたくしの望みはただ一つです。もう加護を持つ子は生まれないようにしてください」
「……それでいいのですか? 貴女は別の人生を歩みたいのだと思っていましたが……」
「セルディオ様は変わってくださいました。だからわたくしはアンジェローザとして人生を歩もうと思います」
「分かりました。貴女の望みは必ず叶えてあげましょう」
女神は微笑みながら消え、アンジーは目を覚ました。目覚めた彼女は何も覚えていなかったが、幸せな気持ちで満たされていた。
よく晴れた日、セルディオとアンジーは全国民の祝福を受けて結ばれた。国王も式に参列し、息子の門出を祝ってくれた。
「私の妻になってくれてありがとう、アンジー。愛しているよ」
「わたくしもあなたを愛しております。セルディオ様」
割れるような拍手と歓声の中、二人は誓いのキスをしたのだった。
おわり
よろしければ評価お願いします~。
ぺこ <(_ _)>