★七十二段 賤しげなる物、
徒然草 七十二段 原文
賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。
GWも明けたとある日の放課後。職員室にて。
金沢先生の机を借りて、高師先生と隣り合わせで中間テストの問題を作っていた。と言っても、ほぼ高師先生が作成した問題を俺がチェックするだけ。本当に高師先生は優秀で、もう俺が教える事なんてないくらいだ。実際、生徒に対しての仕事はともかく、国語に関しては高師先生の方が詳しい。彼はウェーブのかかった長い茶髪というチャラい見た目とは裏腹に、大学卒業後は教師をしながら大学院に進みより高度な勉強をしてきた。学生生活との二足のわらじは随分と大変だったそうだが、その大学院も春に無事に卒業したらしい。俺なんかよりもよほど勉強熱心な先生なのだ。逆に俺が教えて貰う事も多く、正直に言うとどちらが先輩かわからない程だ。
向かいでは同じ様に俺の席に座った金沢先生と今川先生が英語のテスト問題を作っている。今川先生も高師先生と同じく三年目でまだまだ新人と言えるが、金沢先生も彼女の事はかなり頼りにしているらしい。「一昨年の新卒の先生は大当たりで助かったよ」と酒の席でこぼしていた事もある。
──プルルルル、プルルルル──
皆一斉に自身のスマホを見るが、いち早く学校の固定電話の着信音だと気付いた金沢先生が受話器を上げた。
「南部中学校でございます。……川嶋君のお母さん、お世話になっております、はい、金沢です。退院したんですか、良かった」
川嶋祐は二組の男子で、登校途中の交通事故で足の骨を折って入院していた。テスト前に事故なんて運がないが、どうやら中間には間に合うようだ。
「ええ、近い内に川嶋君の顔を見にそちらへ……今日でも大丈夫ですか? テスト範囲が早く知りたいと。わかりました、では今からお宅にお伺いさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
金沢先生の言葉に俺と高師先生がピクンと反応して思わず顔を上げ、目を合わせた。が、互いに一つ頷くだけですぐにPCのモニターに視線を戻す。
「今川先生、川嶋が退院したみたいなのでテスト範囲のプリントを渡すついでに様子を見てきます。帰って来たらチェックするので進めておいて下さい」
「わかりました。やっておきます」
「僕も行きましょうか?」
高師先生が声を掛ける。二組の副担任として川嶋の事が気になるのだろう。
「いえ、保険の話もあるし長くなるかもしれないので、私だけで行ってきます」
登校中の事故の場合、学校で入っている保険がおりる場合がある。お金が絡む話は若い高師先生よりも、確かに担任の金沢先生からした方がいいかもしれない。素直に高師先生は身を引いた。
「了解です。川嶋によろしく伝えてください」
「はい、じゃあ行ってきますね」
背広を羽織って職員室を出る金沢先生の背中を見送ってしばらく経った後、向かい合わせた机の向こうから今川先生がキーボードを叩く手を止めて口を開いた。
「あの、さきほど金沢先生が電話対応されていた時、二人とも顔を上げていましたが何かおかしかったのでしょうか?」
まあ、普通の人は気にならないだろう。これは一種の職業病だ。国語教師はどうしても気になってしまう。
意図せず俺と高師先生の声がハモる。
「「二重敬語だったからです」」
『徒然ww2 ★七十二段 賤しげなる物、』
「二重敬語?」
ピンと来ない表情の今川先生。無理もない。そんな細かい事、今の時代誰も気にしない。彼女の質問にいい所を見せるチャンスと思ったのか、高師先生がハキハキと答えた。
「同じ敬語表現を連続して使うのが二重敬語です。回りくどかったり、冗長過ぎたりする為に却って下品になると文科省では二重敬語を不適切な表現だと定めています」
「は、はあ……」
いきなり文科省と言われても余計にピンと来ないだろうが、実際に文科省がそう定義づけているのだ。しかし、それも今では慣習ありきのあやふやでわかりづらく、時代遅れ感が否めない。
難しい言葉に更に眉をひそめてしまった彼女へ、高師先生は生徒に授業をする時と同じ様な優しいトーンで解説を続ける。
「敬語には三種類あるのですが、わかりますか?」
「えっと、尊敬語、謙譲語、……えーっと、そう、丁寧語!」
相手の言動を高める尊敬語。逆にへりくだった言い方で自分を下にする謙譲語。そして丁寧な言い回しで敬意を表す丁寧語の三種類。
もっと細かくすると謙譲語は相手がいない場合の丁重語、丁寧語は上品な言い回しをする美化語とに分けられ、全部で五種類とする事もあるが、基本は尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類と覚えておけば間違いはない。
「正解です。で、さっきの金沢先生の言葉の中に『お伺いさせて頂きます』とありましたが、『訪れる』の謙譲語である『伺う』の後に『する』の謙譲語の『させて頂く』を繋げているので、謙譲語に謙譲語を重ねた二重敬語です」
同じ敬語表現でなければ二重敬語にならないので注意が必要だ。例えば『お伺い』も『伺う』に美化語の『お』をつけた二重敬語の様に思うが、この場合は丁寧語に謙譲語を繋げた物なので二重敬語にはならない。しかし『お伺い致します』は『致す』が『する』の謙譲語なのでアウトだ。だから『お伺いさせて頂きます』を二重敬語じゃない表現にするなら謙譲語プラス丁寧語の『伺います』が正解となる。
「複雑なんですね。でも、二重敬語ってそんなに悪く聞こえないんですが……」
頭痛が痛い、等の明らかにおかしい二重表現ならともかく、「お伺いさせて頂きます」なんかはより敬語を使おうという気持ちが伝わってくるから別に構わないと俺は思う。
「そうですね。言葉というのは時代と共に移ろう物ですから、今の人達がおかしいと思わなければそれでいいんですよ。『秒で行くんでシュクヨロ~☆』とかでも百年後には当たり前の言葉になってるかもしれません。ただ、年配の方は気にされる事が多いので、ビジネスシーンなんかでは注意した方が印象が良くなると思います。箸の持ち方と同じ様な物ですね」
俺は知らない事が無作法になるとは思わない。敬う気持ちがあるかどうかは言葉だけじゃなく態度を見ればわかる。綺麗な日本語が綺麗なまま後世に残って欲しいと思う気持ちもあるが、「ヤバい」だけで通じ合える若者だってそれは素晴らしいとも思うのだ。
「へえ~、二人共ちゃんと国語教師だったんですね。お馬鹿キャラが定着してるから驚き……ゴホン、さすが国語教師、勉強になりました。ありがとうございました」
誰がお馬鹿キャラだ。確かに二人で立派な一本グソが出たら写メを撮って見せ合う一本グソ選手権を不定期に開催しているが……あ、そういうトコか。
「お馬鹿だなんて、そんな丁寧語で言われると照れちゃいますよ」
高師先生が恥ずかしそうに鼻を掻くが、いや誉めてねえし敬ってもねえよ。高師先生はどうやら今川先生を異性として見ているようだ。彼女の事になるとたまにアホになる。
「そういえば丁寧語もわかりにくいですよね。『お』だったり『ご』だったりとか、つけるとおかしい言葉もあったり」
「ああ、それは両方とも漢字で書くと『御』だからです。規則性は無く習慣による物ですから覚えるしかありません。あと、基本的に悪い言葉には付けませんね。泥棒とか、賄賂とか」
図書館や組合など、公共の施設や団体とか、はたまた晴れや地震なんていう自然現象なんかにも使わない。敬う対象になるかどうかというのがポイントの様に思える。江戸時代は幕府の事を御公儀なんて言ったものだが、民主主義の今は国民の方が立場が上になったという事の表れだろう。
あとは「おでん」や「おやつ」の様にはじめは丁寧語だったのにいつの間にか「お」を付けないと意味が通じなくなってしまった言葉なんてのもある。
「他に特殊な例として、『お』をつける事で幼くなる赤ちゃん言葉がありますね。お馬さんとか、おしめとか……ハッ! う、卜部先生、凄い事に気がついてしまいました!」
目をクワッと見開いて俺の方へ向き直る。興奮しているのかその目は血走っていた。
「高師先生?」
「新しい言葉を、大人言葉なる物を発見してしまいました。赤ちゃん言葉の反対に、『お』を付ける事で卑猥な意味合いが強くなる大人言葉を!」
大人言葉? 丁寧語にする事で逆にいやらしくなる? そんなの聞いた事がない。
「な、何ですか、その言葉とは?」
ゴクリ、と生唾を飲み込んでから彼は言った。
「おちんぽです」
天才か。
確かに「ちんぽ」よりも「おちんぽ」の方が何倍もエロい。ちんぽからはただ男性器のみが思い浮かぶが、おちんぽになると乱れた女性の姿がセットで浮かんでくるではないか。
さすが大学院に進む人は違うな。
性器の大発見に言葉を失っていると、突然高師先生がガタガタと震えだし、大声で叫んだ。
「うわ、うわあー! ま、まさか、そんな事が……」
「どうしたんですか? しっかりしてください高師先生!」
取り乱す彼の両肩をガッシリと掴み問いただした。
すると、その口から放たれたのはとんでもない新事実。
「おっぱいも大人言葉なのでは?」
「うわあああーーー!!!」
俺も大絶叫。
こいつは大発見だ。
と言うのも、おっぱいの語源は諸説あり、確かな由来がわかっていないのだ。何故おっぱいと言うのかは国語学者の永遠の課題なのである。俺もずっと赤ちゃんがお乳を飲んでお腹がいっぱいになる事から、お腹いっぱいが縮まっておっぱいになったのではないかと考えていた。
しかし、違った。「ぱい」に「お」をつけていやらしくした大人言葉だったのだ。
「う、卜部先生。だとすると、だとするとですよ! おっぱいはやはり赤ちゃんの物ではなく……」
そうだ。おっぱいは赤ちゃんの為にあるんやない。
「お父ちゃんの為にあるんやで!」
そう、お父ちゃんは子供におっぱいを貸し与えているだけなのだ。だってお父ちゃんの物なんだもん。
「こうしちゃいられない、すぐに教授に連絡を」
「論文を書くのなら手伝いま……」
「ゴホン」
テンション爆上がりの俺達を強い咳払いの音が止める。
「二人とも、落ち着いて貰えますか?」
聞こえてきた方を見ると今川先生の冷ややかな視線が俺達に突き刺さっていた。両手を高く掲げたまま固まってしまった高師先生の分まで謝っておく。
「す、すみませんでした。つい興奮してしまいました」
神聖な学舎で何を盛り上がってんだ。
頭を下げる俺に深いため息をつくと、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「本当に尊敬するぐらいお馬鹿ですね。いえ、お馬鹿じゃ足りないぐらい。丁寧語がちょうどいいです。失礼します」
そんな言葉を残して職員室を出ていく。ん? お馬鹿の丁寧語……?
しばらく考えていたが、ポンッと手を打って高師先生と顔を見合わせ、再度ハモった。
「「大馬鹿……なるほど」」
おあとが宜しいようで。
徒然草 七十二段 意訳
下品に見える物。
デスクの周りのあちらこちらに仕事道具や文房具が散らかっている様。
仏壇に仏像がたくさんある様。
庭に花や木が所狭しとひしめき合っている様。
家の中に子や孫がうようよしている様。
人と会うととめどなくお喋りしてしまう様。
仏への願い事に自分の事ばかり書いてしまう様。
たくさんあっても下品に見えないものは、本がぎゅうぎゅうに詰まっている本棚と、ゴミ箱の中のゴミぐらいだろう。




