百五十七段 事、理もとより二つならず
徒然草 百五十七段 原文
筆を執れば物書かれ、楽器を取とれば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来たる。仮にも、不善の戯をなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るゝ所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自から修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成なるべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。
カウンター席のみの、落ち着いた雰囲気の小料理屋。昼はマダムが優雅にランチを楽しむこの店も、夜の帳が下りればそこはサラリーマンの溜まり場になる。社畜たちが家庭にストレスを持ち帰らない為に愚痴を吐き出す、いわばロバの耳の穴。今日も多くの人が酒で己を慰めていた。
俺も例外ではない。
「はあ〜〜」
店内に充満する俺のクソデカため息。
仕事でやらかしてしまったのだ。
今日は生徒向けの進路説明会があった。3年の進路担当は俺だ。受験までのスケジュールや体験入学の案内、面接の練習などざっと3年生に説明したのだが、まあ要領が悪かった。作った資料も体験入学の申し込み期限日が間違っていたり、今年度から共学になった高校がまだ女子校のままだったりと酷い物だ。そんな資料を元にしているから説明も散らかってあっちへ行ったりこっちへ行ったり。挙げ句には生徒から間違いを指摘される始末。初めてとはいえ、進路担当はミスが許されない仕事だ。受験の申込みを俺が忘れたらその生徒の人生は狂ってしまう。他の仕事とはかかる責任が違うのだ。
「荷が重いですか?」
空になったグラスに英語教師で3年1組の担任、金沢先生がビールを注いでくれた。と言っても俺は飲めないし車だから、ノンアルコールだ。
金沢先生は働き盛りの40代。目が悪いらしく色付きの眼鏡をかけており、短く切りそろえられた角刈りと相まって昔ながらの鬼教師を連想させる。が、物腰は非常に柔らかく誰にでも敬語で、見た目に反しとても優しい。その目はサングラスで見えないが、口元をよく緩ませて穏やかに笑う人だ。
「まあ、プレッシャーはあります。南部中にも慣れてないのに、いきなり進路担当、それに1年で覚えなきゃならないというのは」
「そうですよね、30歳で主事をやれと言われたら私でも顔色を変えますよ」
――来年から卜部先生には進路指導主事の職に就いて貰います。本年度は金沢先生の下で学んでください――
南部中に赴任して、校長の第一声がこれだった。エリートコースと言えばそうかもしれないが、普通ありえない。
殆どの人がピンと来ていないだろうから、学校の組織、人事について軽く触れておきたい。
中学校では校長をトップに、教頭、主幹教諭までが管理職とされ、その下に正規教諭、非常勤教諭、更には臨時講師という序列になっている。
そして各部門の責任者、これを主任、または主事という。正規教諭の中から選ばれ、校長に任命権がある。月1万円程だが役職手当も出る。
全体的な管理監督業務を担う教務主任は我が県では主幹教諭が兼任する事になっており、それ以外の役職を一般の教諭が担当している。
生徒指導主任、保健主事、学年主任、学科主任、そして進路指導主事だ。
中でも進路指導主事が最も激務とされ、3年間通しての進路計画、受験準備、高校との窓口、はたまた職場体験の計画や実施もこの担当だ。
仕事量の少ない学科主任なんかは若い人でも就く事があるが、進路指導主事はベテラン教諭がやるのが常だ。南部中でもここ何年かはずっと金沢先生が務めているらしい。
しかし、来年から俺がその任に就くという。
聞いた時は正直耳を疑った。30代半ば頃から主任を命じられる人が殆どで、俺はまだ20代で、人脈も少ない。経験も未熟だ。
それでも来年から俺が南部中の進路指導主事だと言う。
確かに環境は整えられている。この1年間、現指導主事の金沢先生にべったりついて回り、その仕事を覚える事になっている。各高校への面通しも金沢先生が手回ししてくれるという。それに俺は部活の担当も無く、今川先生が副担任としてバックアップしてくれるし、国語の授業も1組の副担任の高師先生という新卒3年目の教諭がメインで受け持ち、俺は高師先生を監督するだけだ。金沢先生も同じように英語の授業は今川先生が見るし、1組には副担任として高師先生がついている。いわば進路指導主事を俺に引き継ぐのがメインの仕事と言わんばかりだ。
人手不足の業界でこれほど人材育成に時間を割く学校もそうないと思う。他の県なんかでは1年目や2年目ですぐに担任をやらされることも少なくないし、ぶっつけ本番で教鞭を振るう教師が殆どだろう。研修期間など普通ない。が、うちの市の教育委員会は人材育成に力を入れており、若い人材のキャリア形成も積極的に支援している。
それ自体はありがたい事だ。進路指導だって生徒に親身にならなきゃ出来ないやりがいのある仕事だ。何より期待されている。気焰も上がると言う物だろう。
しかしプレッシャーを感じるものは感じるし、不安なものは不安なのだ。それを飲み込む様にグラスを傾け、中身と一緒に一気に干した。
「寄りにも寄って、進路指導ですからね。前の学校でも進路指導主事の先生は本当に忙しくて、見るからに大変そうでした」
何せ直接的に生徒の将来を決める仕事だ。絶対に手は抜けず、妥協は許されない。あっちへ走りそっちへ走り、職員室の席だって一時も温まることは無いだろう。
「今年の内は私が誠心誠意バックアップしますから、明日も肩の力を抜いてやってください」
再び俺のグラスに酒を注いでくれようとするが、瓶はもう空だった。フグの唐揚げを持ってきてくれた店員さんにおかわりを頼んだ。
実際に金沢先生はしっかりとフォローしてくれている。明日は保護者への説明会だ。今日みたいに失敗は出来ないから放課後に資料を見直していたのだが、暗くなるまで金沢先生が手伝ってくれ、奢るからと飲みにまで誘ってくれた。
しかし、甘えられるのも今年までだ。金沢先生は夏に主幹教諭の試験を受ける。合格すれば来年度からは管理職として教務主任を兼任するだろう。そうなると学校全体に目を配らなければならず、俺だけに構っていられなくなる。
「ありがとうございます。でも自分がその立場になってみるとわかりますが、主任の先生方はすごいですね。どうやって仕事をこなしてるのか」
皆あたり前に日々仕事しているものな。進路指導主事に限らず、教頭や教務主任も激務だ。慣れれば首尾よく出来るのだろうか。
「手を出して貰えますか?」
「手を?」
要領を得ないが、指示された通りに手のひらを向けて差し出す。
すると無言でフグの唐揚げに付いてきたレモンをトングで拾い、俺の手に乗せた。
反射的にそのまま握り潰し、フグの上に絞る。
「そういう事ですよ。レモンを持たされれば絞る。主事になれば主事の仕事をする。それだけの事です」
こんな話を聞いた事がある。
とある中小企業で、それまで平社員のような仕事しかしてこなかった社長の息子がいた。ある日、急に社長が亡くなり周囲に持ち上げられ息子が跡を継いだ。はじめは戸惑いおっかなびっくりの息子だったが、高級なスーツを着て社長室の豪華な椅子に座った途端、人が変わった様にテキパキと部下に指示を出したという話。
立場が人を変える。役職とは衣服の様な物だという一例だろう。
「期待されているのは嬉しいのですが、僕に出来るのでしょうか」
出来る出来ないのではない、やらなければならないとはわかっている。けれど、金沢先生の人の良さそうな綻んだ口元を見るとつい甘えて、弱音を吐いてしまう。
「……北条長明とは高校が同じでしてね」
「北条先生と同期なんですか?」
北条先生とは前の学校の吉田中で学年主任だった社会科教師だ。いつも飄々としていてゆるい感じに見える人だが、困ったときには的確なアドバイスをくれ、俺も本当によく助けてもらった。
「剣道部では私が副部長で北条が部長でして、ちゃらんぽらんな北条を支えるのに苦労しました」
おそらく金沢先生は昔からこんな風に真面目で堅い人物だったのだろう。北条先生をたしなめる若かりし金沢先生が目に浮かぶ。
「北条は要領がいいのに、剣は不器用で真っ直ぐで、面しか出来ないんです。篭手も胴も打たない。面しかやって来ない」
金沢先生の口元が一層弛む。青春に思いを馳せているのだろう。
「でもその面が恐ろしく鋭い。青眼に構えた竹刀がパッと舞い上がったかと思うと次の瞬間には頭を強く打たれてるんです」
スパンっ、と箸袋で面を打つ真似をする。いつになく饒舌で、楽しそうだ。
「結局北条には負け越しでした。その北条が」
熱くなった喉を冷やす様にグイッと酒を飲み干す。グラスに冷えたビールを注いで、俺は続く言葉を待った。
「卜部君は素晴らしい教師だと、何回も言うんです」
それだけですよ、と言って更にグラスを煽った。
『徒然ww 百五十七段 事、理もとより二つならず』
翌日、進路説明会。
体育館は既に大勢の保護者が集まっており、やがて開始時間になった。舞台前に設置されたスクリーンが開け放たれた窓から入る風にふわふわと揺れ、まるで俺の緊張した心とリンクしてるようだ。下手には金沢先生が俺の補助としてパソコンを操作してくれている。
「本日はお集まり頂きありがとうございます。ほごしゃま、保護者の皆様におかれましては日頃より……」
挨拶をするが、早速噛んでしまう。何だよほごしゃまって。生徒なら笑ってくれるのだろうが、保護者の反応はなく、視線は冷ややかだった。
「それでは説明に入らせて頂きます。まずお渡しした資料の1ページ目を……」
「あの、一つよろしいでしょうか?」
最前列に座る母親が挙手をした。
「何でしょうか?」
立ち上がり、彼女は強い口調で言った。
「卜部先生は今年初めての3年生の担任で、進路指導も初めてと聞きました。昨日も生徒に説明した内容に間違いがあった様ですし、見たところまだお若いご様子。子供の将来をお任せして大丈夫でしょうか?」
厳しい言葉だ。しかし、保護者の心配するのも最もだろう。頼りない所を見せてはいけない、喉を振り絞ろうとしたとき、下手から低いがよく通る声が聞こえた。
「大丈夫です」
即答だった。表情一つ変えず、きっぱりと。
質問した保護者は言葉に詰まり、「金沢先生がそう言うのなら」と座り直した。
上司の言葉を受けて、顎をキュッと引いて、胸を張る。
「仰る通り、私は頼りないかもしれません。ですが、精一杯、身を捧げる所存です。真摯に生徒と向き合い、希望を叶えられるよう寄り添っていきたい、そう強く思っています。どうか、よろしくお願いします」
そう言って深く腰を折った。
職は衣、確かにそうだろう。でも俺は思うのだ。職は信であると。
パチパチとまばらな拍手がなって、やがて大きな福音になった。それを歓迎の印と受け取り、頭を上げ、丁寧に一音一音はっきりと言葉を発していく。
「それでは説明に入ります。まず年間の大まかなスケジュールになりますが……」
俺の声は新緑の風に乗って、体育館の隅までよく響いた。
徒然草 百五十七段 意訳
筆を持てば書かずにはいられず、楽器を持てば自然に音を鳴らしてしまう。盃を持てばお酒が欲しくなり、サイコロが振られれば丁か半か出目が気になって仕方ない。始まってしまえば何でもその気になってくるものだ。だから冗談でも悪い遊びに手を出してはいけない。
ふと経文に目をやれば、何となしにその前後の文も目に入ってくる。そして思いがけず積年の過ちを改める事にもなる。もし経文の紐を解かなかったとしたら、改心することもなかっただろう。とりあえずやってみることだ。たとえ信じる心が全く無いとしても、お寺の本堂などに行って、数珠をすりながらムニャムニャとわからないながらも唱えていればいつの間にか徳は積まれている。心浮ついたまま、縄で出来た腰掛けに座り座禅を組めば、そのうち解脱しているに違いない。
現象と心理は別々の物ではない。見た目だけでも取り繕えば自然に内面も変わってくる。ハッタリだと馬鹿にしてはいけない。むしろ子供だましと思っても仰ぎ、尊敬するべきである。