七十六段 交じりて、言ひ入れ、たゝずみたる
徒然草 七十六段 原文
世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交りて、言ひ入れ、たゝずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。
春はあけぼの、と言えば知らない人はいないだろう。平安時代きってのキャリアウーマン、清少納言が書いたエッセイの一節だ。その第一段で彼女は四季それぞれの一番美しい時間帯を記しており、春は夜が明ける瞬間を最も好しとし、山々と空の境界、そして雲の色の変化をいとをかしと讃美した。
なるほど、確かに春の空は冷気と暖気がないまぜになって、厚い雲に朝日が天然のプロジェクションマッピングを映し出すだろう。現代みたいに映像を録画して早送りなんて出来ないから、昔の人は瞬きする毎にやうやうと変化していく春の夜明けを楽しんでいたのではないかと推測される。
しかしそれは風流を愛する心細やかな人が感じるもので、花より団子を地で行く様なガサツ男子代表の俺にはおよそわからない代物だ。
春を表す言葉といえば春眠暁を覚えず。これに尽きる。
まして、日曜日ともなれば惰眠を貪る以外の選択肢があろうか。何故わざわざ夜明け前に起きて日の出を見なければいけないのだ。予定が無い日は少なくとも昼前ぐらいまで寝ていたい。睡眠こそ最高の娯楽だ。
なのだが、そんな快楽を邪魔する者がいる。
――ピンポーン……ピンポーン――
無粋にも鳴り響くチャイムの音。
勧誘だ。
『徒然ww 七十六段 交じりて、言ひ入れ、たゝずみたる』
知り合いなら家に来る前に携帯が鳴る。だから勧誘、宗教か新聞のどちらかだと思うが、こういうのは居留守するに限る。出るだけ時間の無駄だ。
――ピンポーン……ピンポーン――
一向に帰る気配はない。
しつこく鳴らし続ければ逆にヘイトを溜めるだけだと気付かないのだろうか。
仕方ない。寝間着のジャージのまま玄関に赴き、ドアを開ける。こういう時はカメラ付きドアホンが付いたアパートを選ぶべきだったと心の底から思う。
「はい」
出来るだけ不機嫌そうな声と表情で来客を迎える。小綺麗な格好をしたマダムっぽい中年女性が二人、手に分厚い本を持っている。
「お休みのところすみません、私達は神の教えを説いて回っていまして、よろしければお話をさせて……」
「興味が無いので結構です。お引取りください」
最後まで言い終わる前にピシャリと断りドアを閉める。外の様子に聞き耳を立てると、やがて足音がコツコツと遠のいて行った。どうやら諦めてくれたらしい。
まだ十時前だ。今日は恋人と会うが彼女は昼過ぎまで仕事だ。遅めのランチを一緒に食べようと約束してある。
だから今日は正午まで寝よう。そう決めていた。寝なおそうと布団に潜るが、今度は家の電話がけたたましく鳴った。携帯電話のプルル音と間違えない様に、家の電話は昔ながらのリンリンという黒電話の着信音に設定してある。それが寝起きには結構耳障りなのだ。独身者、特に今の若者なら固定電話なんて殆ど持ってないと思うが、PTAの連絡網など仕事で使うから固定電話を契約している。
「はい」
「もしもし、こちら○○電力と申しまして、電気料金がお得になる新プランをご案内させて頂いております」
はあ。またか。
「あの、前も断ったんですよ。ガスとまとめると安くなるってヤツですよね?」
セールスの電話は同じ内容で二回目以降かけてはいけないと法律で定められている。はずなのに、何回も来るんだよなあ、この電力会社。
「そうでしたか、大変失礼いたしました」
二度と掛けてくるなと心の中で呟きながら受話器を置く。既にイライラはマックスだが、更に追討ちがかかる。
――ピンポーン……ピンポーン――
ああもう、おちおち寝てられやしねえ。
わざとドタバタと音を立て、乱暴にドアを開けた。
「はい……はあ、またですか」
玄関の前には先程と同じ宗教の女性達。盲目になるのが宗教だとは思うが、空気を読む目はせめて持って欲しい。
「さっきは起きてすぐの様だったので、もうご用意が出来たかなと再び訪問させて頂きました。我が主の言葉と貴方に祝福の加護を……」
く、しつこい。
「僕は他の宗教に入ってるんであなた達の話は聞けないんです。お引取りください」
「あら、差し支えなければどういった教えか伺ってもよろしいですか?」
おっぱい教の敬虔な信者だよぷるんぷるん。
なんて言えるはずもなく、勢いで追い返す。
「あなた達には関係ありません。とにかく、僕は忙しいのでお引取りください」
バタンッと強引にドアを閉め、ガチャリと鍵を掛けてやった。
はあ、信仰というのは本来自由な物のはずだ。信じないのも自由なのだ。
もう出てやらないぞと心に誓い、再度布団に潜り込んだ。
二分後。
――ピンポーンピンポーンピンポーン――
ああああああ!! うるせえ!!
もうキレた。徹底的にやってやる。ぷるぷる、おっぱい教舐めんじゃねえぞ。
ロフトに上がり、その奥に取り付けた隠し扉を外す。何故隠し扉を仕込んであるかって? 恋人に見つかったらヤバいからだ。俺が信じる神はある勢力にとっては邪教として駆逐の対象となっている。
ガコンと隠し扉を外せば、そこに現れたるは俺がDIYで拵えた神棚。粗末な物だが、なに、信仰とは思いだ。どれだけお金を掛けたかじゃない。
――ピンポーン…ピンポーン――
来客には退く気は無いらしい。望むところだ。神には神で対抗するしかあるまい。
神棚に祀ってあるご神体を取り出す。
色は赤、生地はレース、サイズはEの75。
そう、聖杯である。
去年の秋頃、友人の結婚式帰りでベロベロに酔っ払った彼女を泊めた。翌日送っていった後にベッドからこの聖杯が出てきたのである。恐らく無意識に外してしまったのだろう。ブラ忘れてたよとは言い出せず、また彼女から言ってくる事も無かったのでご神体として毎日祈りを捧げているのだ。
まあ、今更返してくれと言われても返せない。既に神が宿っている。
Tシャツを脱ぎ捨て、聖杯を正しい方法で装着。これで俺の戦闘力は計測不能だ。一般的にブラのサイズが戦闘力に与える影響は足し算と思われているが、実は乗算である。アンダーが5センチアップするだけでその力は膨れ上がるのだ。
上半身裸に聖杯、これにロードバイク用のヘルメットを被り正装完了だ。冷蔵庫からきゅうりを二本取り出して武装する。
――ピンポーン……ピンポーン――
待ってろ。決着をつけてやる。
バンッ!と勢い良くドアを開け、先手必勝、おっぱい神を讃える乳歌を高らかに歌い上げる。
「ぷにぽにょぷにぽにょぷ〜るぷる……あ……」
そこにいたのは先程の宗教の女性ではなく、二十歳前後だろうか、垢抜けないボブカットの女性。手に――引っ越しのご挨拶、中山――と熨斗の付けられたタオルを抱えていた。その表情はまるで帰り道で化け物に出くわしたかの様に引き攣っている。
うん、俺を殺せ。すぐに殺せ。
「と、隣に越して来た中山と言います……し、失礼します!」
タオルを置いて逃げる様に隣の部屋へ帰っていく。
玄関には聖杯を装備して立ち尽くす神の遣い。
というより、完全にただの変態である。通報されない事を祈るばかりだ。
あれ? なんだか目から汁が溢れてくる。
「ああ、柔らかいなあ」
フカフカの新品のタオルでそっと涙を拭った、麗らかな春の日であった。
徒然草 七十六段 意訳
例えば著名人や社会的地位が高い人の冠婚葬祭など、多くの人が訪れている所に、聖職者ヅラした坊さんが押しかけ、どさくさに紛れて飲み食いし、いつまでも帰らないというのはさすがにどうか。
どれだけの理由があろうとも、聖職者というのはひっそりと一人祈る、そうあるべきだと思う。