Re:三十六段 仕丁やある。ひとり。
【徒然草 三十六段 原文】
「久しくおとづれぬ比、いかばかり恨むらんと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女の方より、『仕丁やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍りし、さもあるべき事なり。
「い゛っ゛て゛ら゛っ゛し゛ゃ゛い゛い゛」
展望デッキからダーリンの乗った飛行機に手を振る。涙でぐしょぐしょの顔で人目も気にせず、飛行機の窓からでも見えるようにと大きく手を振る。
やがて機体は滑走路を離れ、アメリカへと飛びたっていった。
「さ゛み゛し゛い゛よ゛お゛お゛お゛」
次に会えるのは夏の連休だ。苦しいが、次の春が来れば一緒に暮らすことが出来る。それまでに仕事と趣味に打ち込んで、独身生活を悔いのないように満喫しよう。結婚して子供が出来たらそれこそ諦めなければいけない事も一杯あるだろうから。
さて、思いっきり泣いたらすっきりした。お手洗いでメイクを整えて切り替える。とりあえず仕事に精を出す事にしよう。そう気合を入れたはいいが、展覧会の会場に搬入のトラックが来るのは3時だ。時計を見れば2時を指していた、まだ1時間以上ある。フードコートのカフェでお茶でも飲むことにした。
最近の空港といえば、もはやショッピングモールだ。お土産屋はもちろん、高級ブランドのショップもあるし、グルメのお店に至ってはモールよりも店舗数が多い。週末には飛行機の搭乗客よりもショッピングを目的に来る観光客の方が多いくらいだ。イベントもしょっちゅうやっていて、家族連れにも人気があるスポットの一つになっている。
台湾に一号店を持つチェーン店のミルクティーを買い、せっかくだから窓際の飛行機が見える席に腰掛けた。ストローを吸い上げれば紅茶の芳醇な香りが鼻に抜ける。このチェーン店と言えばタピオカのトッピングが有名だ。タピオカの粒を噛む度に紅茶の風味が口いっぱいに広がる。しかし、タピオカは見た目からは想像できないが芋だ。そのカロリーはとてつもない。夏、ダーリンが帰ってきた時に幻滅されないよう気を付けなくては。
「ここ、空いてる?」
不意に掛けられた声に顔を上げれば、そこには懐かしい顔があった。そう言えば、みんと先輩から地元のT市で元カノに会ったとメールが来ていたっけ。
「どうぞ。智美先輩、お久しぶりです」
お腹が大きい。立ち上がって椅子を引き、座るのを見届ける。ダーリンを見送ったばかりでリア充爆発しろ症候群が発病しているが、流石に妊婦には気を使う。
「ありがと。変わらないね小夜ちゃん。まさかこんなとこで会うなんてね」
変わらないのは貴女の方だろう。髪はバッサリとショートヘアになっているが、少女時代に憧れた、百合の花みたいに綺麗なまま。
「私はそれなりに老けましたけど。そのお腹で飛行機……は乗らないですよね。お迎えですか?」
先輩はレモンの輪切り入りの炭酸水で薄く紅を引いた唇を湿らせる。炭酸ジュースなんてらしくない、高校の頃の溜まり場だった喫茶店ではいつも紅茶を飲んでたのに。そうか、妊娠中のカフェインは良くないと聞く。きっと我慢してるのだろう、目の前で飲むのが憚られて、私はミルクティーのカップをテーブルの端に置いた。
「うん、東京に住んでるんだけど、今ね、実家に戻ってるんだ。里帰り出産ってやつ。これから夫がこっちに来るから、そのお迎え。小夜ちゃんは? 出張とか?」
返ってきた声は幸せそうだ。ダーリンがいたら「卜部先輩にあんな酷い事しておいて!」と怒るんだろうけど、私はそんな風には思えない。勿論、みんと先輩にしたことは決して許されない。それにダーリンはみんと先輩を慰めるのに芦刈先輩と一緒に2週間もアパートに泊まり込んだりと、巻き込まれた当事者だ。傷心したみんと先輩を間近に見続け、励まし続けた。憤る気持ちもわかる。でも私は吉中に赴任する前はみんと先輩とはダーリンに連れられてたまにご飯を一緒に食べるぐらいだったし、智美先輩とも高校を卒業してからは個人的な付き合いはほとんど無かった。だから少し他人事というか、ダーリンの様に恨みが骨髄まで徹してるわけじゃない。
まあ、最初は私も少し恨んでたか。最初って言っても出会った当初の事だけど。だって、東高校に入ったら卜部先輩に会えるって期待してたからなあ。あれが恋だったとは思わないが、多少の憧れはあったんだと思う。でも私が入学した頃には、既にみんと先輩の隣には智美先輩がいた。ピッタリとくっついてて、つけ入る隙間なんて無かった。
「出張、には違いないんですが、半分サボりですね。明日から空港の近くの国際展示場で全国から集めた学生の絵の展覧会があって、その設営の準備です。なんですが、日野がアメリカに赴任中で、2週間ほどこっちに戻ってたんですが、今日むこうに出発でして、今見送ってきた所です」
公私混同と言われるだろうが、朝は6時から、休憩も後回しにして仕事していた。帰りもきっと5時では終わらないだろうし、残業が無いのだから少々の休憩も働き方改革の一環だと見逃してほしい。
「ケンちゃんから聞いたよ。この前偶然T駅で会ってさ。小夜ちゃんも先生になったんだってね。日野君とは今も続いてるんだ?」
無言でスッと左手の指環を見せつける。と言っても、相手も人妻だから何のマウントにもなりゃしないけど。
「結婚したんだ! おめでとう」
「婚約中です。来年の3月に日野の海外赴任が終わるんで、そうしたら籍を入れる予定なんです」
「おめでと。すごいなあ、高校からずっとだよね? 一途でいられるってすごいよ。私なんて、その、ケンちゃんと別れてから3人目の彼氏と結婚だし」
4人目の恋人と結婚。まあ、標準と言えばそうだろう。私とダーリンの様に10代から付き合って結婚というのは結構レアな方だと思う。
「結婚となると難しいですよねえ」
相手だけじゃない、新しく家族になる人達の事も考えなくちゃならない。特に私たち女性は出産がある。キャリア形成とも折り合いをつけなければいけないし、好きだけじゃどうにもならないのが結婚だ。
「……軽蔑してるよね、私の事」
智美先輩が悪い。もちろんそう思ってはいるが、ダーリンが無茶苦茶キレてたから私は逆に冷静になれたというか、傍観者の様な感覚になってしまった。と言っても、もとより当事者ではないのだけど。被害といえばみんと先輩の慰め会にダーリンがつきっきりだったから、その間デート出来なかったぐらいだ。
「まあ、一言あれば違ったのかなとは思います。その時は言えなくても、時間が経ってからでも謝るべきだったと」
他の人を好きになるのは、まあ仕方ない。しかし清算してから新しい恋に行くのが筋だ。
「謝っても、許してくれないかなって」
きっと許しただろう、みんと先輩は。いや、きっとじゃない、絶対に。口の端を持ち上げただけの下手くそな作り笑顔で、浮気した彼女の幸せを望むだろう。
そんな事は智美先輩だってわかってたはずだ。だから多分、許されたくなかったのだと思う。だって、それじゃあまりにみんと先輩が道化だ。敢えてみんと先輩の傷口に塩をすり込む様なマネをして、自分一人を悪者にして。
全く、私の周りは馬鹿ばっかりだ。
「言わせて貰いますけど、許してもらう為に謝るんじゃないでしょう。悪い事をしたから謝るんです。許す許さないはその後の事です」
「……その通り。すごいね、小夜ちゃんに言われると妙に説得力がある。さすがプロの先生だね」
失敗ばかりで生徒に毎日迷惑かけてるのを知らない智美先輩はそんな風に私をおだてる。けど、みんと先輩は教師が失敗してリカバーする姿を見せるのもプロの仕事だと言う。
「まだまだです。私なんて卜部先輩の足元にも及びません」
「まあ、あの人は特殊だから。憧れちゃダメでしょ」
みんと先輩は変態だ。
なぜあそこまで他人の為に自己を捨てる事が出来て、なぜあそこまでみっともない自分を曝け出す事に躊躇がないのか。
凄いとは思うけどああなりたくはない、多くの人がそう言うだろう。
「……智美先輩、一つだけ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「なんで卜部先輩と別れたんですか?」
責める気は無かった。尊敬する先輩が、大好きだった先輩を振った理由が単純に知りたかった。
「……その中の誰かが絶対に死ななきゃいけない、っていう状況があったとしてさ。他にも人がいっぱいいるのに、ケンちゃんて真っ先に自分から手を挙げて死んじゃうんだろうなって」
多分、そうだろうな。あの人は崖っぷちになると損得勘定が出来ない。極端に言えば、頭の回線が何本か無い。
「そういうのってさ、辛いなって」
そう言ってふんわりと微笑む。私の知ってる智美先輩の様で、もう知らない人の様な、まるで夏場の水道の温度。
返す言葉が無くなって、ミルクティーを口に含んでタピオカを噛んだ。弾力のある玉は口の中に残り続けて、喋らなくていい理由になった。
「ピアス、穴閉じちゃったね」
点状に凹んだ私の耳たぶを見て、微笑んだままポツリとこぼした。黒のパールを飲み込んで、定型文で返す。
「これでも教師なんで、生徒の模範にならないといけないですから」
「そっか。もう必要ないんだ」
「そうかもしれません」
私の返事に、先輩は嬉しそうに更に目を細めた。
ダーリンと付き合う前の、高校一年の秋だった。私はずっとショートヘアで、スタイルだって幼児体型で、子供っぽいのは自覚してた。
「ロングヘアが似合う大人の女性じゃないと恋愛対象にならない」
雑談の中でダーリンが言った他愛もない一言に勝手にショックを受けて、みんなが帰った後の部室で一人で泣いていた。智美先輩がそんな私を見つけて、手を引いて整形外科に連れて行ってくれた。
智美先輩のお古のピアスは私を随分と大人びさせて、もう子供っぽいと泣くことは無かった。
『徒然ww2 Re:三十六段 仕丁やある、ひとり』
その夜。自宅近くの居酒屋で蔵野先生と呑んでいた。最近は二人で結婚や仕事について色々話す事が増えた。
「じゃあ次は夏休みまで会えないんだ。大丈夫?」
「まあ、一人じゃないと出来ない事を今の内に目一杯やっておくつもりなんで、大丈夫ッス」
「さすが、長く付き合ってると余裕があるね。私はまだまだ一秒でも長く一緒にいたいなあ」
私だってそりゃあ恋人と一緒にいたい。けど、もう私は子供じゃないし、泣くだけの毎日はとっくに越えた。
「試練だと思って乗り切るッス。そうだ蔵野先生、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何?」
「みんと先輩って、もしも誰かが犠牲に死ななきゃいけないっていう状況になったら、真っ先に立候補しそうじゃないですか?」
私の突拍子もない質問に、枝豆を押し出す手を休めることなく答える。
「まあ、そうだろうねぇ」
「それって、妻として辛くないですか?」
「どうだろ。まあ、あの人はそういう人だし。そうだ、じゃあね、保険金いっぱい掛けとかなくちゃ。なんてね、フフ」
冗談ぽくそんな風に言って、枝豆を押し出しながら笑った。まあ、昼間の事を話してないから、酒の席での益体のない話題と思うのも無理はない。
ただ、私は引き下がれない。みんと先輩の婚約者としての価値を示して欲しかったのだろう。つくづく私も馬鹿だなあと思う。
「もしそうなって、保険金が入ったら何に使うんです?」
「え? ……うーん」
枝豆から手を離し顎にあてると、しばらく考え込んでしまう。やがて絞り出すように言った。
「……寄付とか?」
ぷっ。
「あははははは! バカだ! 万個バカ!」
「バカって酷くない? だって、大金あっても使い途ないし」
使い途なんていくらでもあるだろうに。
「あーお腹痛い! 蔵野先生がみんと先輩の婚約者で良かったッス。すっげーお似合いの二人ですよ」
「……それ、褒めてないでしょ?」
「あ、バレました?」
「笑いすぎだもん! 大体ね、香取先生は私の事をちゃんと先輩だと思ってない――」
頬を膨らませて怒る蔵野先生の説教を笑顔で聞き流す。
全く、私の周りは馬鹿ばっかりで、本当に良かった。
【徒然草 三十六段 現代訳】
どもッス。「長い間連絡してなかったから、きっと随分怒っているだろうなあと自分の怠惰を反省し、どう謝ろうかと言葉を探していると、彼女の方から『家政婦を一人探しています。どなたかいらっしゃいませんか?』と聞いてきてくれたものだからありがたくて嬉しくて。こんな心遣いが出来る人は本当に最高だよね」ってある人が言ってて、確かに、そんな人間は二次元にしかいねーよって思ったッス。




