十一段 心ぼそく住みなしたる庵
徒然草 十一段 原文
神無月の比、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入いる事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋のじづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
「失礼します。卜部先生お願いします」
朝。職員室で準備をしていると三年四組の里中叶がやって来た。
「おはよう。どうした?」
思わず身構えてしまう。というのも、里中は3週間前に父親を事故で亡くしてしまってしばらく休んでいた。先週から学校へも来る様になったのだが、事が事だ。些細な変化も見逃さないようにクラスに目を配っている所だった。学校では悲しい素振りなんか見せない強い子だが、まだ振りきれてはいないだろう。いや、振りきる物でもないか。一生付き合っていく物なのだ。正直に言うと俺には一般的な家庭というものが想像出来ないから、こういう時は困ってしまう。
「おはよ先生。あのね、今日の道徳の授業の前に少し時間を貰いたいの」
「時間?」
「うん。皆の誤解を解きたいっていうか、先生からも話してくれると助かるんだけど……」
詳しく聞いてみると、学校に来る様になってからクラスメイト達が気を使ってくる様になったそうだ。
「そりゃあ、皆も里中が心配なんだ。気だって使うだろう」
腫れ物を扱う様になっては問題だが、うちのクラスにはそんな事をするような生徒なんていない。優しい子達ばかりだ。
「違うの。その、金銭面で困ってるって勘違いされてるみたいで……」
どうやら父親が亡くなってお金の面で苦しいんじゃないか、そう思われているのだと言う。
「思われてるだけならいいんだけど、皆優しいから、余ってる新品の体操服をくれたりとか、給食のデザートくれたりとかしてくれてさ。労災だし、お金の事はお母さんも心配してないんだ。お姉ちゃんも私立の大学にそのまま行けるみたいだし」
なるほど。そう言えば俺が中学の時、家が全焼してしまった同級生がいてクラスメイトから制服や鞄なんかを貰っていたな。でも里中は持ち家もあるし、お父さんは仕事中の事故死だ。会社からの賠償金もあるし遺族年金だって支給されるだろう。
「そうか、今まで通りに接して欲しいって事だな。帰りの会に時間取ってもいいけど」
「遅くなって部活の時間が無くなっても悪いもん。ほら、弦楽部のコンクールって来週じゃん?」
「わかった。じゃあ授業を始める前に時間を取ろう。まず俺から話すよ」
「ありがとうトベ先生。じゃあ、失礼します」
扉の前でぺこりと頭を下げて里中は職員室を出ていく。
まだ悲しいだろうに、そんな様子なんか一切見せないでもう周りの事を考えている。本当に強い子だ。
「授業を始める前に話がある」
約束通り、まず俺からある程度の事情を話した。
体操服や文房具等を里中に援助してくれてるようだが特にお金には困っていない事。本人は受け取るつもりは無かったのに皆の優しさが嬉しくてつい受け取ってしまった事。
皆の視線が里中に集まり、彼女は立ち上がって自分の言葉でもう一度説明した。
「ありがと。皆優しくしてくれてすごく嬉しかった。このクラスで良かったって思えた。でもね、お金の事は大丈夫なんだ。生命保険も高いの入ってくれてたし会社からの慰謝料とかも貰えるし、むしろお母さんが働かなくても余裕があるくらいなんだ」
「本当に? 無理してない? 叶はいつも一人で抱え込んじゃうから、私心配で」
里中と仲のいいクラス委員の高橋明莉が確認するが、里中はブンブンと首を振って否定する。
「ううん! 本当に大丈夫! 家のローンも無しになって、全部で三億円以上貰えるってお母さん言ってたし……」
「三億円?!」
「スゲー! 一生遊んで暮らせるじゃん!」
うっかり漏らしてしまった金額に男子達数人が大袈裟に反応した。里中の家は下に小学生の妹もいる。三億円でも老後の事を考えたら足りないと思うが、子供にはわからないのだろう。
「う、うん。だからね、何もいらないんだ。皆ありがとう」
「いいなあ、里中が羨ましい! 三億ありゃ何だって買えるじゃん!」
「羨ましい……?」
隣の席の飯塚武の言葉に里中の表情がひきつる。それを見て高橋が声を荒げた。
「ちょっと飯塚君! 何言うのよ! 叶の気持ちも考えなさいよ!」
「だってそうだろ? お父さんがいなくなったのは残念だけど、代わりに三億貰えるんならいいじゃんか。里中が羨ましいよ」
悪意はないのかもしれない。けれど言って許される言葉じゃない。何より命の値段が三億円ぽっちな訳がない。教師として注意しようとしたその時、里中のつんざく様な声が教室に響いた。
「お金なんかいらない!」
「え?」
「お金なんかいらない! それよりもお父さんに会いたい!」
ボロボロと大粒の涙が溢れて、慌てて高橋が駆け寄ってハンカチで拭いた。
やっと自分が何を言ったか思い知ったのか、飯塚も謝罪の言葉を絞り出す。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」
「会わしてよ! そんな事言うなら会わせて! 三億円あげるからお父さんに会わしてよぉお!」
今まで張りつめてた物も決壊してしまったのだろう。里中は泣き崩れてしまって、高橋に保健室に連れていく様に頼んだ。
二人が出ていった後、飯塚はばつが悪そうに唇を噛んだ。
『徒然ww 十一段 心ぼそく住みなしたる庵』
結局泣き止む事はなく、母親に迎えに来てもらって里中は早退した。そして放課後、俺は様子を見に行こうと車で彼女の家に向かっていた。
――里中が羨ましい――
決して生徒には言えないが、俺もそう思った。
だって、お金があるなら父親を恨まなくて済む。憎まなくて済む。俺の様にならなくて済む。
今は思い出せば悲しいだろうけど、父親との思い出が心の支えになるだろう。挫けそうな時にその笑顔を思い出せば踏ん張る事だって出来るだろう。
ずっと父親を愛していられる事がどれだけ幸せな事か。
きっと誰に話してもわからない。
この気持ちはきっと誰にも理解されない。
こと家族というものに対して、俺は歪んでいる。その自覚はある。
かといって、もうどうにもならない。
これは親父にしか治せない病で、その親父はもうこの世にいないのだから。
近くの公民館に車を停めて里中の家まで歩いて行くと、玄関の前で右往左往している生徒の姿が目に入った。
「飯塚」
「トベ先生? 何で?」
「様子を見に来たんだ。さすがに心配だからな。お前こそ何してんだ?」
俺の問いに飯塚は泣きそうな顔になる。
「ひ、酷い事を言ったから謝ろうと思って……だけどいざ家まで来たら何て謝っていいかわからなくなっちゃって、呼び鈴が押せなくて」
あれからずっと後悔していたのだろう。泣きっ面を何とかしてやりたくて頭をクシャクシャと乱暴に撫でてやる。
「俺が一緒に行ってやるからちゃんと謝れ。許してくれるかはわからないけど、出来るだけ早く謝るのが一番だ」
「うん、わかった。ちゃんと謝る」
呼び鈴を押して少し待つとドアホンからお母さんの声。
「はい、どちら様で……あら卜部先生」
「お世話になっております、叶さんの担任の卜部です。どんな様子かと伺ったのですが……」
「里中さんと同じクラスの飯塚と言います! 僕が酷い事を言ってしまったんです。里中さんに謝りに来ました!」
逸る気持ちが抑えられないのか、飯塚が俺の言葉を遮った。すぐにドアが開けられて玄関へと促される。ずんずんと敷地内へ入っていく飯塚の顔に迷いは無かった。
玄関に入りお母さんに改めて挨拶をしていると、やがて正面の階段から里中が降りてきた。その目は泣き腫らして真っ赤だ。
「ごめん里中!」
里中を見るなり九十度以上に深く腰を曲げて飯塚は謝った。
「酷い事を言ってごめん。自分に置き換えてみたら辛い事だってすぐわかるのに、最低な事を言っちゃった。本当にごめん」
「……ねえ、飯塚のお父さんってどんな人?」
怒るでもなく許すでもなくそんな質問をしてくるものだから、飯塚も顔を上げて素っ頓狂な声を出した。
「へ? 俺の?」
「うん。どんな人? 優しい?」
「あ、ああ! 最近は昇進試験だかで帰りが遅いけど、それでも毎日寝る前に俺とゲームしてくれるし、アニメ見るような人じゃないのに俺の好きなアニメわざわざ見て話に付き合ってくれるんだ」
「そっか、優しいお父さんなんだね。お父さんの事、好き?」
「うん。す、好きだ」
「じゃあ大切にしてあげて。いなくなってからじゃ遅いから。そう約束してくれるなら許してあげる」
一緒にいられるのは当たり前じゃない。それだけで奇跡だ。だけど俺達はその事に気が付かない。
「ああ、ああ! いつかなんて言わずに今日帰ったら親孝行する。父さんの肩揉んで、母さんの洗い物とか手伝うよ」
そう、いつかなんてそんな日はない。人生は今の積み重ねだ。今しかないのだから、今やらなければならない。
「わかった。じゃあ許してあげる。良かったら上がって。お父さんに手でも合わしていってよ」
「いいの?」
「うん。お父さんも喜ぶと思う」
柔らかく笑って、里中は手を差し出した。飯塚も笑ってそれを軽く握る。
「わかった、お邪魔します」
そのまま手を引いて右手の部屋に入っていった。もう大丈夫だろう。ホッと安堵の息をついた後、里中のお母さんに向き直り頭を下げた。
「すみませんでした。私の力不足で叶さんを傷付けてしまいました」
結果オーライとは言っても俺がクラスをまとめられなかったのは事実で、里中を泣かせたのは俺だ。もっと上手いやり方があったかもしれない。
「謝らないでください。先生が子供達の事を真剣に考えてくれてるのは伝わってますから大丈夫ですよ。今時珍しい熱心な先生だって、保護者みんな感心してるんです」
「いえ、まだ至らないところばかりです」
「そんな事ありませんよ。叶も生徒思いの先生だと言ってますから。私も叶には先生の様な優しい人間に育って欲しいなって思っているんです。きっと卜部先生のご両親が素晴らしい方なんでしょうね」
「うちの親は、まあ、普通ですよ」
普通ではない。うちの家庭は普通なんかじゃない。けどそんな事を生徒の親に言える訳もなくて嘘をつくが、それをお母さんは謙遜と受け取ったようだ。
「あら、先生を見ていればわかりますわ。優しいご両親の背中を見て育ったんだろうな、そう思います」
優しかった記憶はある。だけど、優しくなかった記憶もある。今思い出してもどちらが本当かわからない。きっと、両方が本当なのだ。
「どうでしょうね、自分の所の家庭のありがたみって、本人にはわからないものですから」
にっこり微笑んで誤魔化そうとしたが、力のない苦笑いしか出来なかった。
徒然草 十一段 現代訳文
十月の事、京都市の山科区を越えた辺りの山中を歩いていた。落ち葉を踏み鳴らし枝をかき分けて山道を進んでいくと、火をつけたらたちまち灰になりそうなボロい一軒家を見つけた。
木葉に隠された飲み水用の雨どいから雫が垂れる音以外は何も聞こえないが、閼伽棚(お供え物を載せる棚)には菊や紅葉が飾ってあるので誰かが住んでいるのは間違いない。
よくこんなボロ屋に住めるものだ、さぞかし清貧な方が住んでいるのだろうと感動してよく観察してみると、庭の奥に立派な蜜柑の木が生えていて、大きな蜜柑の果実がいくつもたわわに実っていた。そしてその木はバリケードで囲ってあり厳重に守られていた。
それを見たらさっきまでの感動も薄れてしまい、こんな木は枯れてしまえとも思った。




