三十八段 名利の要を求むる
徒然草 三十八段 原文
名利に使はれて、閑なる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るに貧し。害を賈ひ、累ひを招く媒なり。身の後には、金をして北斗を支ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋れぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生むまれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり、誉る人、毀る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出ては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるかを善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本もとより、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
朝、出勤途中に交通事故に出くわした。と言っても巻き込まれた訳ではなく、対向車線で一時停止しなかった自転車と前方不注意の車がぶつかった瞬間を目撃しただけだ。慌ててドライブレコーダーの録画記録ボタンを押した。幸い急ブレーキが間に合ったようでかなり減速していたから、そこまでの衝撃は無いように見える。自転車の男子高校生はすぐに起き上がったが、万が一があるといけない。すぐそこのコンビニに車を停め、トランクから三角表示板を持ち出して駆け付けた。
「怪我は無いか?」
俺が着いた時には車の前でドライバーの主婦らしき女性と男子高校生が話していた。見たところ双方に掠り傷一つ無いようで一安心。
「大丈夫です。でも自転車が」
乗り上げる様な形で車のフロント下に自転車が埋まってしまい、引き出そうとするが引っ掛かってびくともしないようだった。
とりあえず表示板を置いて、狼狽する女性へ警察に連絡するよう指示。助手席には黄色い帽子を被った4歳ぐらいの女の子が不安そうな顔でじっと待っている。保育園に送る途中で事故を起こしてしまったのだろう。
「バンパーの下に入っちゃってるな」
ハンドルやペダルの角度を変えたら取れないかと試行錯誤するが、完全に覆い被さっている状態だった。持ち上げる他ないだろう。ドライバーの女性にエンジンを切って子供を車外に避難させるように指示、歩道に連れて行くのを見届けた後、ネクタイを緩めて袖を捲りベルトをきつく締め直した。
「よし高校生、合図したら自転車引っ張って」
「え? 持ち上げるって事ですか? 一人で?」
見渡しても女性と子供以外には俺と高校生しかいない。車通りは多いのだが、見知らぬ人の為にわざわざ止まってくれる人もいないようだ。まあ、そりゃそうか、誰だって朝は忙しい。車の正面に立ち、足を広めに開いて腰を落としバンパーを掴んだ。
「漢字知らないのか。軽自動車って軽い車って書くんだぜ」
大きく一息吸った。少し溜めて、一気に吐くと腰と連動して軽自動車が持ち上がった。
「マジかよ……」
高校生は驚愕しているが、実際そんなに重いもんじゃない。ちょっと鍛えてる人なら軽じゃない自動車だろうと持ち上がる。
しかし、それは筋肉の使い方と重い物の上げ方を知ってるからであって、全くの素人が持ち上げようとすれば腰を痛める事間違いない。腰だけで床からバーベルを持ち上げるデッドリフトという筋トレ種目が丁度こんな感じなのだ。ベルトをきつく締めて腹圧をかけているし、怪我しない様に細心の注意を払っているからこそ出来る事だ。
「フリーズしてないで自転車出してくれるか?」
「あ、はい……出しました!」
自転車を無事に引っ張り出し、車も脇道の端に停めて一息つく。軽自動車にドライブレコーダーは付いていないようで、俺のレコーダーの映像を警察に渡す事になった。ドライバーの女性は保育園か仕事先だろうか、何処かへ電話を掛けている。俺はといえば警察の到着を待つ間、高校生と向かい合った。
「なあ高校生、自転車でも交通法は守らなきゃいけない。相手がスピード出してなかったからこれぐらいで済んだけど、ややもすれば死んでてもおかしくないんだからな」
「はい、すみませんでした」
例え教師だろうと通りすがりのオッサンの若者への説教なんて犬も食わないだろうが、相手の女性はすっかり車の自分が悪いと思っているようだし、今厳しく言うのがこの子の為だろうと思い淡々と言葉を続けた。
「俺に謝っても意味がない。一時停止を無視した結果があれだ」
首ごと視線を歩道の端に向ける。そこは黄色い幼稚園の帽子を腕に抱えて今にも泣き出しそうな、不安げな表情の女の子の姿があった。
自分より幼い子が泣きそうになっている。どんな事よりも心にきく光景だろう。
「……はい。これからはちゃんと止まって、確認してから渡ります」
「よし。じゃあコレ2枚あるから、あの子と分けな」
鞄に高師先生から貰った仙台土産のお菓子を入れたままなのを思い出し、高校生に差し出す。彼は頷いて受け取ると女の子の元へ行って優しそうな笑顔を向けた。
『徒然ww2 三十八段 名利の要を求むる』
なんとか始業時間に間に合い、朝のSHR。N高校の体験入学のチラシを配る。
N高校は公立の学校としては珍しく国際教養科のある高校だ。在学中や卒業後に海外へ留学する生徒も多く、英語だけでなく他の外国語の授業も盛んらしい。
「WEB申込みもあるけど、希望者には申込用紙を配るから言ってくれ。とりあえず今の段階で希望者はいるか?」
「はい」
男子サッカー部でゴールキーパーをつとめる稲垣颯馬が手を挙げた。ガッシリとした大きい体だが穏やかな性格で、縁の下の力持ちタイプの子だ。その割に試合なんかでは味方に檄を飛ばしたりと熱い男でもある。
「そう言えば稲垣の志望校はN高校だったな。帰りに申し込み用紙を持ってくるよ。国際教養科って事はいずれは海外に出るのか?」
「いえ、日本で住む外国の子供達を支える仕事に就けたらと思ってます。実は今もブラジルの子が通う幼稚園にボランティアとして通ってるんです」
「ブラジル? ってことはポルトガル語話せるのか?」
「まあ、日常会話の初歩ぐらいしかまだ話せませんけど」
稲垣は謙遜するが、幼児と会話出来るってかなりのレベルだ。大人ならこっちがまだ言葉がわからないだろうとゆっくり話してくれたり簡単な言葉を使ってくれたりするが、幼児はそんなのお構いなしだ。超早口で方言やスラングも使い放題。そんな子供達を相手にしているならこれ以上の練習相手は無いだろう。
「子供と話せるのなら大したもんだよ。そうだ、後でその幼稚園の連絡先を教えてくれないか?」
「連絡先? 何でですか?」
「通知表に書かないとな。どれぐらいの期間ボランティアで行ってるのかとか確認したいんだ。せっかくいい事してるんだから内申点にちゃんとプラスしなきゃ」
そうだ、盲点だった。稲垣の他にも校外でそういう活動をしてる子がいるかもしれない。今度の職員会議で各先生方に聞いてみよう。
「内申点? きったねー!」
同じ男子サッカー部の堀江圭太がそんな声をあげた。稲垣とは小学校が同じでクラスでもよく話してる。
「汚い? 何がだ?」
堀江の真意がわからないから、咎めるでもなく、出来るだけ抑揚を抑えた声で聞いた。
「内申点欲しさにボランティア行ってるなんてきたねーじゃん。最近遊びに誘っても来ないと思ったら点数稼ぎの為だったとか酷くね?」
「違う、ボランティアで内申点貰えるなんて知らなかった!」
稲垣は立ち上がって否定するが、堀江はバッサリと斬り捨てる。
「でも通知表に書いて貰うんだろ? 同じ事じゃん」
堀江からしたら友達が遊んでくれなくて拗ねてるだけだろう。不器用にも程があるが、言い方は良くない。そんな風に言われたら稲垣の取る行動は一つしかない。
「だから、そんなつもりじゃない! 卜部先生、通知表には書いて頂かなくて結構です。子供達と触れ合うのが楽しくて通ってるから、それ以上の報酬なんていらない」
はあ。稲垣は真面目だけど反面、意地を張ると頑固なんだよなあ。堀江との友人関係にヒビが入るのはお互い不本意だろうし、クラスの皆には説教に付き合ってもらおう。
「堀江、稲垣はこう言ってるけどそれでいいんだな?」
「え?」
「だから、いい事をしてるのは事実なのに、クラスメイトからそれを冷やかされて、その為に稲垣が胸を張れなくてもいいんだな?」
「そ、そんなつもりじゃ」
堀江は言葉に詰まった。苦い顔で、バツが悪そうだ。
「稲垣もな、立派な事をしてるんだ。堂々と胸を張って欲しい。そしてそれを評価されるのは正当な権利だ」
「でも、僕は内申点が欲しかった訳じゃ……」
本当に頑固だな。稲垣らしいが、それで損はして欲しくない。
「ガリガリってどういう字を書くか知ってるか?」
「え?」
急にそんな問題を出したから稲垣は目をパチクリさせた。クラスの皆も同じ様に豆鉄砲を食らった顔だ。
「痩せ過ぎな人の事をガリガリって言うだろ? そのガリガリの漢字」
「ええと、ガは飢えるっぽいです。リはわかりません」
ちゃんと答えてくれるからやっぱり稲垣は真面目だ。それに惜しい。
「確かに飢餓の餓を連想するけど、不正解だ。正しくはこう書く」
――我利我利――
「元は仏教用語でな。自分、つまり我の利益ばかり求めていると地獄に落ちて亡者になるぞ、という教えから来ている。その亡者を我利我利亡者と言うそうだ」
浮き出たアバラ骨をイメージさせるガリガリという音が由来のように思われているが、欲深いと皆にそっぽを向かれ食べ物も手に入らず痩せ細ってしまう、という古くから伝わる教訓の一つなのだ。
「確かに前の私みたいにクレクレばっか言ってるとさ、逆に食いっぱぐれちゃうよねえ」
羽谷が鼻頭を掻いて苦笑した。前の時は見事にクレクレが成功した訳だが、まあ稀有な例だろう。
「昔からこの国では謙虚が美徳とされてきたからな。でもな、最近はそうとも言えないんだよなあ」
仕事で成果を挙げても上司がタイミング良く見てるとは限らない。欧米ではアピールする事も重要な能力の一つだ。なんでも欧米の真似をしてもしょうがないと思うが、世界で競争する為には必要なのだろう。
「もう黙ってて評価される時代じゃない。何より、立派な事をしてるのなら俺は皆を褒めて褒めて褒めちぎりたい。高校にもうちの生徒は素晴らしいんだと声を大にして自慢してやりたい。だから稲垣、ちゃんと内申点に書かせてくれ」
頑張った事を頑張ったねと言ってあげること。すごいねって褒めてあげること。それは子供の成長にとってとてもとても大切な事。
「……わかりました。お願いします先生」
そう言ってやっと稲垣は了承してくれた。
帰り道。六月を間近に日もかなり長くなっているが、七時近くにもなれば薄暗い。早目にライトを点け車間距離を広く取って運転していると、路側帯を走っていた前方の自転車が派手にコケた。慌ててスピードを緩めると転倒したお爺さんは苦しそうに頭を押さえている。守るように自転車の後ろに車を停め駆け寄った。うめき声を洩らし頭から血を流しているものの、意識ははっきりしているし俺の呼び掛けにもちゃんと答えている。ハンカチを出そうとしたが1日使った物だ、雑菌が付いてるだろうから代わりに車からティッシュの箱を持ってきて渡し、救急車と警察に連絡した。朝にも事故に出くわしたばかりなのにまた目の当たりにするとは思わなかったが、事故は重なる物だという事を実感する。
「どうされました?」
一人奮闘していると犬の散歩中の男性が声を掛けてくれた。怪我人を前に心細かったから、素直に助けを求めようと言葉を返した。
「お爺さんが自転車で転んでしまったみたいで、救急車と警察は呼びまし……」
「コイツの車に轢かれた!」
「は? あなたが転んだんでしょう?」
「コイツの車が突っ込んで来て避けようとして転んだんだ!」
「違います、私は何も……」
「お前が悪い!」
すぐに否定するが、お爺さんは俺にひかれたと連呼するばかりで取り付く島もない。
これは不味いかもしれない。ドライブレコーダーは朝の事故の時に警察に預けたままだからメモリーカードが挿入されていない。ぶつかったかどうかは調べればわかる事だが、俺の危険運転が原因で転んだと主張されればそれを覆す証拠はない。
「まあまあ二人とも落ち着いて。あまり大きな声を出すと傷口に障り……コラ、コロン! 吠えるんじゃない!」
男性が間に入って宥めようとするが、大声に興奮したのか犬も吠え出し、現場は混沌を極めた。騒ぎを聞きつけ野次馬が集まってきて人だかりが出来た。俺を見てヒソヒソと話している。
「何があったの?」
「なんか爺さんがあのシルバーの車に轢かれたんだって」
「うわ、結構血が出てんじゃん。大方スマホでも見ながら運転してたんじゃね?」
俺は交通事故で親友をなくした。それ以来エンジンをかける前に指差し確認までするし、ながら運転なんて以ての外だ。野次馬の心無い言葉に怒りが込み上げてくるが、深く息を一つ吐いて心を落ち着かせる。グッと耐えているとどこからか俺を庇う声が聞こえてきた。
「その人は怪我したお爺さんを救けようとしただけですよ」
声のする方に目をやれば塾帰りだろうか、南部中のサブバッグを背負った3年4組の堀江が人の垣根からひょっこり顔を出していた。
「嘘を言うな!」
お爺さんは引っ込みがつかないのか物凄い剣幕で怒鳴るが、堀江は臆す事なく歩み出て対峙する。
「嘘をついてるのはお爺さんだろ?」
「なんだと?」
「お爺さん、この人はね、バカが百個つくぐらいのお人好しなんだよ。だから人を轢いたりしたら罪悪感で押し潰されそうになって、真っ青な顔で平謝りするに決まってるんだ。やってないって言うならやってないよ」
「ぐ……」
堀江のキッパリとした口調にお爺さんが反論できずにいると、やがてパトカーが到着し二人の警察官が降りてきた。一人がお爺さんの方へと駆け寄り、もう一人がこちらへと近づき、俺に気付くと表情を崩した。
「あれ、また先生かい?」
「あ、どうも」
朝の警察官ではない。近くの交番に勤める人で、何度か話した事がある。
「また? 先生ってそんなに警察のお世話になってるの?」
堀江が驚くが、警察官はそんな堀江の言葉を笑い飛ばした。
「あははは、生徒さんかな? この人ね、交番でも有名なんだよ。一人じゃ歩けなくなった酔っぱらいを担いできたり、道に迷った外国人を連れてきたりとか、しょっちゅう交番に来るんだ。そうそう、こないだなんてさ、お金拾ったって届けに来てくれたんだけど、いくらだったと思う? 十円だよ十円! 笑っちゃうだろ? いや、警察が笑っちゃいけないんだけどさ」
「十円? 先生、それ本当?」
「……十円でも届けなきゃ駄目だろ」
「ぷっ、あはははは! やっぱり百個バカだ」
笑いが止まらない堀江を横目に、お爺さんに話を聞いていた警察官もこちらへやってきて俺に告げる。
「あのお爺さんが動揺してつい轢かれたと言ってしまったそうです。本当は一人で転んでしまっただけだと。謝りたいと」
「そうですか、わかりました」
俺への疑いも晴れ、ホッと胸を撫で下ろした。
お爺さんは救急車で運ばれ、念のため警察に状況の説明を求められた。解放されるまで俺が不利な状況になったら庇うつもりだったのか堀江はずっと俺の隣にいてくれた。
やがて解散となり、助けてくれたお礼にすぐそこのコンビニに移動してジュースを買って、俺の車のボンネットをテーブル代わりにして一息つく。
「ありがとうな堀江。でもああいう時にすぐに首を突っ込むのは考えた方がいいぞ。損する時もあるからな」
「そのセリフそのまま先生に返したいんだけど。今だって実際に損しかけたし」
その通り過ぎて言葉が出ない。誇れた事じゃないが、俺ほど反面教師という表現が当てはまる奴もいないだろう。
「……俺はいいんだよ。人生ちょぼちょぼの損ぐらいが幸せだと思ってるからな」
「はあ、まあ、先生らしいっちゃらしいけど。いい人ってのも大変だね」
俺がいい人かどうかは知らない。さっきだって体が勝手に動いた訳じゃない。帰りが遅くなっちゃうなあとか、面倒だなあなんて思いが浮かんで一瞬通り過ぎようとしたのは事実だ。
だけど、見て見ぬ振りをしてしまった後に気になるのだ。あの人は困っていたんじゃないか、助けた方が良かったんじゃないか。小心者の俺は勝手にそんな風に自己嫌悪に陥ってずっとしこりになる。だから手を差し伸べているに過ぎない。大きな括りで言えば自分の為なのだ。ちょぼちょぼの損ってのも、自分が下になって相対的に周囲が上になれば安心するのだ。いわゆる免罪符というか、コンプレックスを拗らせた姑息な人生観に過ぎない。
「堀江だっていい人じゃないか。あれだけの人だかりの中に入って、興奮してるお爺さんに面と向かって否定するなんて、大人でも躊躇うぞ。ありがとう」
「でも、学校じゃ颯馬に酷い事を言った」
堀江はそう呟いて、ギュッと唇を噛んだ。
「本心じゃないってのは俺も、稲垣だってわかってるよ」
「ダセえよね俺。本当は颯馬や先生みたいにいい事やって、いい人になりたいって思ってるのにさ、人から冷やかされたりするのが恥ずかしくて、なのに俺自身が冷やかす立場になっちゃってさ。ダセえ」
人間は眩しい物を見ると反射的に目を逸らしてしまう。逸らすだけならまだしも、色眼鏡をかけて見えなくしてしまったりする。反抗期というのはその代表的なものだろう。成長するに連れて親のひたむきさがわかるようになり、感謝の気持ちとは裏腹に酷い言葉や態度を取って、そして後悔する。
「自分の行いをダサいって認められるのはそれだけで凄いことだよ。それだけじゃなくてそんな自分を変えようとさっき俺をかばってくれた。めちゃくちゃカッコいいぞ」
「……先生は本当に生徒を躊躇いなく褒めるよね」
褒めて伸ばす、なんて言葉があるが、俺のコレはちょっと違う。凄いと思うから反射的に褒めてしまうだけだ。そんな策略があっての行動じゃない。
「ああ、いい子達ばかりで本当に良かったよ」
「あは、出た百個バカ発言」
「前言撤回。教師をバカなんて言う生徒はいい子じゃないな」
「でも悪い気しないだろ」
「……まあな」
そう俺が答えると堀江は大声で笑った。つられて俺も笑ってしまった。
次の日、朝。
教室に入ると同時、櫻井憧子の呆れた声が耳に入ってきた。近づいてみると稲垣、堀江の両名に折り紙を教えているようだ。二人は懸命に鶴を折っていた。
「だからちゃんと折り目つけて丁寧にって言ったでしょ? 何でこんなにフニャフニャになるのよ」
「そんな事言ったって折り紙なんて久し振りだからしょうがないだろ。形になってるだけでも俺にとってはすごい事だぞ」
櫻井の前にある鶴は真っ直ぐでピンと立っているが、堀江の折った鶴は翼の長さも左右で違っておりコロンと片方に傾いてしまっている。確かに鶴って意外に難しいからな。
「どうした、折り紙なんて珍しいな」
声を掛けると稲垣が返事をくれた。
「幼稚園の子どもたちに折り紙をリクエストされちゃって、僕たち折り方知らないから櫻井さんに教えて貰ってたんです」
「そうか、堀江も手伝ってるのか」
「俺も幼稚園にボランティアとして行ってみようと思って」
「へえ、思い切ったな。じゃあ堀江の通知表にも書かなくちゃな」
「いや、俺はまだいいよ。二学期が終わる頃にまだ続けてたらさ、その時はお願いするかも」
そう言ってまた新しい紙を取って鶴を折っていく。その顔は真剣そのもの。
「よし出来た! どうだ櫻井!」
「うーん、まあ、及第点。忘れない内にあと十枚」
「えー! 厳しいな櫻井先生は。なあ颯馬」
「まあまあ、練習あるのみだよ」
愚痴を言いながらも手を動かしていく。出来栄えを見たくて堀江の折った鶴を一つ取ってまじまじと見つめる。
「何だよ先生、不器用って言いたいの?」
「いや、上手いよ」
「とか言いながらニヤニヤしてるじゃん。やっぱり下手くそって思ってるんだろ?」
決して綺麗とは言えない。けど、不器用ながら一生懸命に折った鶴の曲がったクチバシが俺には微笑んでるように見えて。嬉しくて。つい釣られて俺も笑顔になってしまった。
徒然草 三十八段 現代意訳
名声に焦がれて、周りが見えず常にバタバタと忙しく、それだけに囚われて一生を送るのは実に馬鹿馬鹿しい事だ。
財産が多い人は、それを守ることで精一杯になる。どころか、強盗や詐欺師など、悪党どもを呼び寄せる撒き餌にもなる。夜空に輝く北斗星を支えんばかりにそびえる黄金の塔を建てられるほど金を持っても、死んでしまえばあの世で使うことは出来ない。道楽に湯水の如く使って世間の人の好奇心を満たすのもまた、むなしいだけだ。黒塗りの高級車や大きいダイヤをいくつも付けたアクセサリーなども、賢い人から見れば「下品」であり「心が貧しい人」と思われるだけである。金塊は山に埋め、宝石なら川に投げるのが一番だろう。物質的な幸福が豊かさと思い込むのは馬鹿馬鹿しい事だ。
名声を手にし、未来永劫語り継がれる事こそ理想だと思われるかもしれない。しかし、社会的に偉い人が立派な人間かと言われるとそうとも言えない。欲に塗れた低俗な人間でも、生まれた家や周りの環境、タイミング次第で自動的に身分を得、それを鼻にかけてしまったりする。一般的に人格者と言える人は、目立たず、主張せず、人知れず事を成すことが多い。やたらと高い身分や役職に拘ることも馬鹿馬鹿しい事だ。
「智恵と勇気、そして汚れなき心を持っている立派な人間だ」と皆に思われたい、せめてこう思うかもしれない。しかしだ、それさえも人からどう思われるか気になっているだけだ。あなたを肯定する人、否定する人、その人達もいずれ死ぬ。語り部がいたとして、やがてそれは途絶える。誰にも注目されない事を恥じ、自分のしてきたことを喧伝したいというのは意味のない事だ。死後に名前が残ったとしても、それが何になるというのか。全く馬鹿馬鹿しい事だ。
それでも、あえて知恵を求め、賢くあろうとする人に告げよう。老子曰く、「知恵とは巧妙な嘘を作り出すものだ。才能とは肥大した煩悩の成れの果てなのだ。人から聞いた事を丸暗記すらるのが知恵ではない。では何を知恵というのか、それは誰にもわからない」と。莊子曰く、「何を持って善悪の区別とするのか。善とは何か、悪とは何か、それは誰にもわからない」と。真の賢人とは、知恵もなく、人徳もなければ、功績も名声も何ない。それは賢人が自分の能力を隠しているからではない。最初から知恵も人徳も、功績も名声さえもどうでもいい、そういう境地にいるからなのだ。
立派な人間になりたいという人の願いなど、この程度の事だ。知恵も人徳も、功績も名声も全ては幻で、何の意味も持たない。
【解説】
この三十八段にて、吉田兼好は中国の文献から多くの引用をしています。「金をして北斗を支う」というのは白氏文集から。「智恵出ては偽りあり」とは老子から。他にも晋書や文選といった有名どころから引用して自らのエッセイの説得力を増しています。古典の原文の中に言い回しが独特だったり突拍子もない例えが出てきたりしたら中国古典からの引用の可能性があります。気になったら調べてみたりすると、古文へのさらなる理解が拓けるかもしれません。




