序段 つれづれなるまゝに
徒然草 序段 原文
つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
日は高く、職員室。俺以外に人の姿は無い。カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。窓の外で華やかに咲き誇る満開の桜とは対称的に室内は薄暗く、自分の為だけに照明をつけるのが躊躇われた。
卜部兼好。二十八歳。婚約者あり。来年の春に挙式予定。この四月から南部中学校に赴任してきた国語教師だ。三年四組の担任を命じられ、明日の始業式を前に新しいクラスでの最初の学級通信を作っていた。
「出来た……終わったー!」
深く息を吐いてグッと伸びた後、とうに冷めてしまったコーヒーに口をつける。
「ふう。やっぱりぬるいコーヒーは不味いな」
淹れ直そうか悩んでいると、部活を終えたジャージ姿の若い女性教師が入ってきた。
「お疲れ様です卜部先生、これ、私の原稿が入ってるUSBです」
黒髪ショートが似合うキリリとした美人は今川先生。背も高くモデルの様な、如何にも仕事が出来そうなキャリアウーマン然としている。そして巨乳……おっと、俺は婚約者一筋だからな、決して今川先生を変な目で見たりはしていない。
彼女は二十五歳、三年目の英語教師で、三年四組の副担任として一緒に生徒達を支えてくれる相棒だ。
「ありがとうございます。ちょうど私の方も書き終わった所なんで、こちらの原稿に貼り合わせちゃいますね」
俺にメモリを渡すと、彼女はハッと何かを思い出して申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、すみません、体育館の施錠を忘れていまして……」
今川先生は女子バスケ部の顧問で、その厳しい指導は生徒達から恐れられているらしい。春休みといえど土日以外は毎日体育館で練習に精を出している。
「やっておくんで大丈夫ですよ。戻ってきたら一緒に最終チェックして印刷しましょう。ゆっくり戸締まりしてきてください」
「すみません、ちょっと行ってきます」
職員室を出ていく彼女を見送って、メモリを挿し込み仕上げの作業に取り掛かる。作業、といってもカット&ペーストの簡単なお仕事だ。大した仕事じゃない。
「これでよし、と」
俺の原稿に今川先生の原稿を貼り付けて学級通信第一号が出来上がった。おかしな所が無いかチェックしていく。
うん、問題ない。
第一号の内容は主に俺と今川先生の自己紹介、それと挨拶だ。学級通信と言えばいつもネタに困る厄介者だが、四月のうちは年度の予定や級訓の発表などお約束の物だけでしのげるから楽と言える。
……遅いな今川先生。十分ほど経つが、まだ帰ってこない。
暇だ。
他に仕事が無い訳じゃないが、俺は複数の仕事を同時にこなすのが苦手だ。一つずつ確実に終わらせて次の仕事に取り掛かりたいタイプなのだ。
念の為もう一度原稿をチェックする。何回も確認しているとおかしくもないのに気になってくる。
問題はない。けど、普通すぎやしないだろうか。
例えば二人の座右の銘。
俺は――温故知新――と書いた。国語教師として古文に触れる機会が多いが、先人の歴史や知恵などが今の世でも役に立つ事は少なくない。最近は目まぐるしく時代が流れるが、こんな時勢だからこそ立ち止まって古きを調べる事も大事だろう。
真面目か。
次に今川先生の座右の銘。英語教師らしく横文字だ。実に洒落ている。
――A rolling stone gathers no moss.――
日本語訳が添えられており――転石苔むさず――転がる石に苔はつかない、つまり居場所や仕事をコロコロと変える人は大成しないという意味だ。一つの場所にとどまり一所懸命に働く事で成功を手に入れられる、という古代ローマの作家の言葉らしい。
真面目か。
他にも血液型や誕生日はそのまま書かれ、今年度の決意なども当たり障りの無い無難な言葉が並ぶ。
真面目か。
……。
…………。
………………ボケた方がいいんじゃないだろうか?
『徒然ww2 序段 つれづれなるまゝに』
日は高く、職員室。薄暗い室内にはカタカタとキーボードを叩く音が軽快に響く。
卜部兼好。(永遠の)十五歳。誕生日はアインシュタインと同じ♡。血液型はカブトムシ寄りのクワガタ。身長は五尺九寸。体重はリンゴを食べると血が出ます。出身校はあけぼの幼稚園。好きなおでんの具は大体友達YOYO。
完璧だ。
これぐらいボケた方が生徒も親しみが湧きやすいと言う物だろう。
顔写真も加工してしまおう。スマホをパソコンに繋ぎ、顔写真をアプリでイケメン化していく。俺は鼻が低いのがコンプレックスだった。目鼻立ちをはっきりさせてハリウッド俳優みたいにしていく。
うむ。これでいい。
こうなると今川先生もそのままだとおかしいだろう。彼女は素で美人だからな。加工するより全く別人の写真にすり替えた方が面白いんじゃないか。
スマホで検索し、やがて好みの画像をゲット。フリー素材であることを確認し原稿に貼り付けていく。
うん、こんなものだろう。
最初の真面目な学級通信からはかけ離れてしまったが、俺の心は達成感で満たされていた。印刷ボタンを押してコピー機を起動させた時、スマホの明滅が友人からのメールの着信を知らせた。
俺には現役大学生の友人がいる。ひょんな縁で出会い、度々彼からは悩み相談を受けたりしている。今回のメールもアドバイスを求めているようだ。
――レンタルビデオ屋にいるんですが、ポニーテール幼馴染みモノかショートカット美人教師モノかで悩んでます。どちらがいいでしょうか? ジャケット写真を添付しておきます。ご意見ください――
添付の画像には艶やかな表情を浮かべる色気ムンムンの女性が映るAVのパッケージ写真。すぐに吟味して返事を送ってやりたい所だが今は仕事中だ。「お仕事中」というスタンプだけ送ろうとした時、ガラガラと扉が開かれ今川先生が戻ってきた。慌ててスマホの画面を消す。
彼女はジャージからタイトな黒のスーツに着替えており、奇しくも先ほど見たAVのパッケージ写真によく似ていた。
「お待たせしました。すみません、汗が気持ち悪くて着替えていたら時間がかかってしまって。あ、印刷してくれたんですね、どれどれ?」
コピー機から吐き出された学級通信を取り上げ、俺の隣の机に着席。刷りたての熱をまとった紙に目を通していくが、次第に表情を険しくさせて俺の自己紹介文を読み上げる。
「――オッス! オラ卜部! 吉田中からリハウスしてきました。ぶっとび~~! ……って、卜部先生、何ですかコレ?」
「ユ、ユーモアがあった方が生徒も喜んでくれるかなあって」
「……卜部先生の座右の銘、――右は1.0、左は0.8――って何ですかコレ」
流石は英語教師、mottoの発音がネイティブで感動するが、彼女の据わった目が問いへの返事以外の言葉を発するのを禁じている。
「座右の銘ならぬ、さ、左右の目の視力です。なんちゃって」
彼女の呆れきった冷たい視線に俺はカエル。蛇に睨まれたカエル。ため息を吐きながら彼女は続ける。
「はあ。卜部先生だけならまだしも、何ですか私の顔写真。お内裏様?」
今川先生の顔写真には公家の様な格好をした肖像画が貼り付けてあった。雛人形の様な台座に座り、顔は白粉で化粧されている。
「い、今川義元です。桶狭間で討たれた、戦国時代の」
「マニアック過ぎだろ! 今川義元の肖像画見た事ある奴なんていねーよ! もう、どこでこんな画像見つけてきたんですか」
俺も今川義元の肖像画があるなんて知らなかった。最近のネットはスゴい。
「ス、スマホで検索したら出てきました」
「はあ……もっとマシな画像無かったんですか? ちょっと貸してください」
そう言って今川先生は俺のスマホを手に取った。慌てて止めようとするが、間に合わず彼女はスリーブ画面を解除する。
そこに映し出されたのは今川先生に雰囲気の似たセクシー女優の、机の上で淫らに乱れるAVのパッケージ写真。
あ、オレ死んだわ。
「し、神聖な職員室で何を検索してるんですか」
わなわなと肩を震わせ、キッと目が吊り上がる。
「ち、違うんです。スマホを操作してたら丁度メールが来て、そこに今川先生が戻って来て……」
必死に取り繕うが、既に彼女はその右手を振りかぶっていた。
「言い訳無用!」
バチーン!と左頬に痛烈なインパクト。
「直しとけ! いいな!」
そのままの勢いで職員室を出ていく。
取り残され、真っ赤になった頬っぺたをすっかり冷たくなったマグカップで冷ます。ひんやりとして気持ちがいい。
「……元に戻すか」
職員室には再度キーボードを叩く音がカタカタと空しく響くのだった。
徒然草 序段 現代文意訳
やる事がなく時間が空いたので、一日中、ペンを握りしめ机に向かい、浮かんできた何でもない事をそのままに書いてみたならば、何とも言えない怪しげな文章が出来上がってしまった。
【解説】
世間では「気の向くままに」と訳される事が多いですがそれは誤りで、「徒然」の本来の意味は「やる事がなくて手持ち無沙汰な様子」です。
どちらかと言えば「心に移りゆくよしなし事を」の部分が気の向くままにと訳す事が出来るのではないでしょうか。
熊本弁に忙しい事を表す方言として「とぜんない」という言葉があるらしいですが、とぜんは徒然と書くそうです。