長風呂は好きですか?
突然だが、お風呂は好きだろうか。
毎日行う事柄の部類には入るものの、必ずしもそうではない。
五月原千恵子もその一人。
「その物言いは間違っているわ。入れないんじゃなくてつかれないの。」
一人スカーレッドの浴槽でごちる千恵子はタバコを蒸かしながら白いため息をついた。
実に38時間ぶりの入浴は残った体力を奪い思考を霞ませ眠りという回復へと誘おうとしている。
このままでは永眠しかねないが、それを阻止する様にタバコの燻した甘い匂いが鼻をくすぐってタールを摂取するようにと命令を下してかろうじて意識を保っている。
ニコチン中毒ではないものの、やはり、最近の仕事量を考えればこれだけはやめられない。
明確な作用は精神安定の一言だが、コレ以外に依存すればもっと健康的にもっとヒューマニズムに溢れた生活ができるに違いない。
「はい…今?裸でお湯の中にいるわ。勿論、独りよ。」
突然かかってきた電話を取ると誰かもわからず現状を報告するのは仕事で培ったホウレンソウの賜物…ではなく、悪癖。
「素直に風呂に入っていると言えば良いだろう。それに、そう言うときはとらなくていい。」
「あら、私の思考はあなたより前に構築されたモノだから、セクハラの概念はある程度融通が利くのに残念だわ。どこから洗うか、どこがどれほど膨らみがあるか興味なくて?」
「…これだから年上は扱いに困るんだ。逆セクハラなんて言葉も珍しくない。気を付けることだな。」
「可愛い坊やですこと。それで?私のスリーサイズ発表までのカウントダウンはいつかしら?」
「言いたいなら勝手に言っていろ。明日の仕事について聞きたい。」
「朝は9時にポートピアタワーにて眠気を誘う業務報告の会議、13時には水木建設の酒田様と会食。胃に豪華な食べ物を詰め込んだら16時までに書類を片付けて頂いて、18時の浅黄銀行取締役の松下様との会食に間に合えばオールクリア。松下様のご希望でお若いお嬢様方のお店もリサーチ済みよ。勿論、好みであろう容姿の娘もリストアップ済み。それぞれ何人かにはオヤスミコースまでお願いしてあるわ。」
「…用意周到なことで。」
「あらやだ、気が利くといって欲しいものですわ。」
手のひらを水滴が撫でていく、湯の暖かさが心地よく少しばかり長い睫毛を震わせて目を瞑ると心地よい温度に意識が引きずられそうだ。
くゆる煙に鼻先が擽られてすぐに意識を戻すと灰を排水溝に落として欠伸を噛み殺す。
「良ければ私の騎士にならない?」
血色の良くなった唇で薄く笑う。
十分に暖まった体はそろそろ急速を求めて認識以上に重くなるに違いない。
その前に助けあげてくれるパートナーが必要だ。
「騎士ではなく、獲物の間違いだろ。」
「あらやだ、人を猛獣扱い?」
「なんだ、間違っていないだろ。」
そんなことを言っていながら気づかれないとでも思っているのだろうか。
「…坊や、部屋の前に居るなら早く入りなさい。」
自宅のマンションロビーのBGMなんて聞き飽きてるに決まっている。ましてや、毎回彼の電話に入り込むものだから余計に覚えてしまった。
玄関の開く音が通話の端から聞こえる。
また、お風呂に浸かれない日々が始まるのかと思うと投げ出したくなる気持ちになる。
それでも、彼の温かい愛にどっぷりと浸かるのは悪くない。