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女王陛下がわたしをお嫌いになったわけではないことは、奥の間生活が始まってすぐに分かった。
奥の間で過ごす羽目になった大黒蟻たちの中には、囚人さながらの生活を強いられる者もいると聞く。病人はもちろんその限りではないが、それでも普通に暮らす精霊たちと比べて贅沢が出来なくなるということは知っていた。
ところが、奥の間に追いやられた次の日、わたしに出されたのは今まで口にしたこともないような贅沢な食材だった。
飛蝗や陽炎、胡蜂といった多種族精霊たちの栄養豊富な亡骸に、森の外の世界で暮らしている人間たちが生み出すという蜜飴の欠片や、加工された動物の肉片などだ。こんなものを拾ったとしても、ここ最近、それを口にできる者は未来を担う蛹化前の子どもたちや、女王陛下やいずれ新たな王国を築くために旅立つ姫殿下くらいのものだった。
そういうご馳走を何故、わたしが与えられるのか。
世話係に任命された女王陛下の娘のひとりによれば、きっとわたしが陛下の”戦友”だからなのだろうとのことだった。
もちろん、そんな考えは、まだ若い娘だからこそなのだろう。戦友などではないのだということは、わたしがよく自覚している。それでも、この待遇は意外だった。もしかしたら、陛下はわたしに後ろめたさを感じていらっしゃるのかもしれない。
だが、そうであるとして何の慰めになるだろう。
あの計画が間違いなく遂行されるのならば、わたしの気持ちは変わらなかった。何度もここで寝泊まりして、外に出してもらえない日々が続いたとしても、同じことだ。
「王国はどうなっているのか教えてちょうだい」
ある日、世話をしに来てくれた姉妹に向かって世間話でもするかのように、そう訊ねた。
その声は出来る限り弱々しく、呟くように、そしてすべてを諦めているように意識する。王国民たちにとってわたしは病人であり、事情を知る側近たちにとっては女王陛下の恩情で生かされている危険人物だ。しかし、こうして奥の間に閉じ込められてしまった以上、どうすることも出来ないのは誰にだって分かる。
ここは見張りも多く、下手な動きをすれば女王陛下の寵愛も失ってしまう。そうなれば、わたしは今度こそ虚しい最期を迎えるだろう。そんな結末を誰もが恐れるはずだから、わたしの絶望だって想像に容易いはず。狙い通り、姉妹は静かに受け答えてくれた。
「外は相変わらず大忙しよ。胡蝶も一緒に冬を越さなくてはいけないから、食糧を運んでも運びきった気にならないのよね。皆、一生懸命働いているわ」
「陛下はお元気?」
「それは勿論。神々しいお姿は相変わらずよ。よくは知らないけれど、胡蝶の少女との”イイコト”っていうのが女王陛下のご健康を支えているそうね」
「そう、それはよかった」
「でも心配している人もいるわ」
「心配?」
「ええ、胡蝶の子はいつか蛹になる。そうなると、甘い蜜を出せなくなるって陛下は仰っていたわ。そうなると、食糧問題はやっぱり深刻なものになるでしょうね。今のうちにたくさん貯めておかないとって、皆が意気込んでいるわ」
彼女が蛹化したとき、わたしの計画は始まる。
反逆でもあるし、裏切りにもなってしまうだろう。このことで陛下がお心を痛めるとしたらと思うと、やはりわたしにだって後ろめたさはある。
それでも、あの胡蝶がただ殺されるのを見捨てることは、やっぱり出来ない。
いつになるかは分からないが、機会を見失ってはいけない。
それまでずっと閉じ込められるのだとしても、外の様子には敏感にならなければ。ちょっとした変化も見逃さないようにするにはどうすればいいか。
あらゆる感情を心の中に一緒にしまい込んで、わたしは姉妹に向かって述べた。
「その子が蛹化したら、食べ物も質を落としてほしいと伝えてくださらない?」
「伝えるのはいいけれど、あなたは病人なんでしょう? 聞いてくださるかは分からないわよ」
「いいの。とにかく、お願い」
念を押すように頼み込むと、不本意そうにしながらも姉妹は受け入れてくれた。
その返事がどういうものであろうと、必ず何かしらの形で返答があるだろう。石扉の向こうの状況は、世間話程度でしか分からないけれど、どのタイミングであの胡蝶が蛹になるのかは分かるはずだ。
羽化すれば、あの子は料理されてしまう。その前に助け出さなければいけない。蛹になった彼女なら、連れ出して逃げることも出来るのではないか。
希望を失わないようにしながら、わたしは外の噂話に耳を傾け続けた。
そうして、眠りと目覚めを何度も繰り返してどのくらい経っただろう。胡蝶の噂も、外の寒さも分からない。すっかり奥の間がわたしの世界になりかけていた頃になって、ようやく変化は訪れた。
「――そういえば、あの胡蝶が無事に蛹化したのよ」
教えてくれたのは、閉じ込められて以来、一番よく話をしてくれた姉妹だった。
心優しく懐こい性格の彼女は、いつもわたしとの雑談に付き合ってくれた。外の様子も噂程度には教えてくれたし、その中にはわたしにとってかなり貴重なものも含まれていた。胡蝶と女王陛下の様子もその一つだ。
とうとうこの時が来た。
「陛下が仰ったの。蛹になったあの子をお部屋で大事に寝かせていらっしゃるそうよ。いい香りは相変わらずだけど、お世話の手間がなくなって、皆ずいぶんと楽になったって言っていたわね。ちょっと寂しそうだったけれど」
「その蛹、陛下はどうなさるおつもりなのかしら」
「分からない。ただ、寝かしていればいつかは羽化するって聞いたわ。でもね、胡蝶たちの羽化はとても大変だから、失敗して死んでしまう事もあるそうよ。どちらに転ぶかは陛下にも分からないのですって」
わたしには分かってしまった。このままでは必ず失敗してしまうのだ。
羽化に失敗して大人になれなかった胡蝶の子を、供養のために王国民に食べさせる。王国民の中にはあの胡蝶と”イイコト”をした者も含まれるだろう。でも、彼らはそれを知らずに食べてしまう。側近たちは不幸な結果による供養と理解するから、何の疑問も持たない。そういうことだろう。
「ともあれ、しばらく静かな日が続きそうね。あなたの病気も良くなるといいんだけど」
くすりと笑って彼女はわたしに背を向ける。
無防備な背中だ。
「じゃあ、そろそろ私は行かなきゃ。あとは別の姉妹が――」
その背中めがけて音もなく近寄り、勢いよく首を絞めた。
きっと、この彼女は根っからの平和主義者なのだろう。
だからこそ、こんなことをされるなんて予想もしていなかったのだと思う。殺すつもりはないが、かといって、殺さないように力を抜く余裕もなかった。
幸い、彼女は死ななかった。気絶しただけらしい。安心して、寝台へと引きずっていった。
「御免なさい」
短く詫びて石扉をノックする。
そろそろ世話係の交代時間だったためだろう。何の警戒もなく扉は開かれた。と、同時に、不意打ち開いた見張りを不意打ちする。
単なる世話係に過ぎなかった病人のわたしが入れられている部屋だからこそ、こういう危険など想像もしていなかったのだろう。無遠慮の一撃は二人の見張りの両方を気絶させ、あっという間に道は開けたのだった。
◆
思っていた通り、王国全体が平和ボケしているようだ。
少し前までは誰もが戦う覚悟があったものだったのに嘆かわしい。それでも、そのおかげでこうして事がうまく運んでいるのだから複雑なものだ。
それに、平和ボケしているのはわたしも一緒だ。殺伐とした時代が夢か何かであったかのように、あの時の日常以上の緊迫を感じていた。それもそうだ。あの頃は自分の信じたひとを女王にすることで精いっぱいだったのだ。今は、そのひとを裏切るようなことをしている。恐ろしくないわけがない。
それでも、立ち止まることはなかった。まるで敵対種族のスパイのようにこそこそと歩みだし、そして、聖域たる女王陛下の私室へと忍び込んだのだ。
見張りは殆どいない。
忍び込んだ先の部屋は、仕事のために頻繁に訪れていた頃とほとんど変わっていなかった。ただ、話に聞いたように、甘い香りが充満している。その原因たるものは、すぐに分かった。
蛹だ。腕の中に抱えられるほどの大きさの蛹が、無防備にぽつんと置かれていた。すぐに駆け寄って触れてみると、かすかにだが温かかみを感じた。
この香りは間違いない。愛らしさで王国民を骨抜きにしたあの子の香りだ。恐ろしい計画を知らずにこの中で大人になろうとしているのだろう。
守らなくては。
すぐさま抱えて振り返る。
我が王国民たちはどこまで平和ボケしているのだろうか。見張りらしきものはいない。それどころか、奥の間でのびているはずの見張りや世話係もまだ見つけてもらっていないらしい。
申し訳ないが、もう少し眠っていただこう。
わたしは胡蝶を抱えてすぐさま部屋を飛び出した。
そこで、わたしは自分の浅はかさに気づいたのだった。
鉢合わせたのは見張りでも世話係でもない。
女王陛下そのひとだったのだ。
――どうして。
目と目が合って、頭の中が真っ白になった。
彼女は行く手を阻むように立っていた。まるで、わたしが此処に来ることを分かっていたかのように。だって、いつもならば、もっと王の間にいるはずなのだ。少女も蛹になった今なら、私室にこもるのは眠る時だけのはず。まだその時ではないはずだったのに。
「久しぶりだな」
薄っすらと笑いながら、彼女は先に口を開いた。
「ずいぶんと元気そうで安心した。だが、元気すぎるのも考え物だ」
「陛下……」
息を飲みつつ、どうにか口を開く。
ぼんやりしている場合じゃない。蛹を抱えている以上、何の言い訳も、言い逃れも出来ない。
きっと殺されるだろう。だが、試さずに捕まって諦めるくらいなら、その方がましに思えた。わたしだけ助かって胡蝶が食べられてしまうのならば、胡蝶と共にわたしも殺された方がましに思えたのだ。
もちろん、このまま何もせずにただ殺されるつもりなんてなかった。
「正直、お前は気弱な姉妹に過ぎないと思っていたが、考えを改めるべきだな。私の傍に辛抱強く仕えた日々の事は忘れていない。だが、私の意に沿わぬと言うのならば、こちらも相応の態度を取らせてもらうぞ」
静かな声で脅すその姿は、まるで怒れる女神のようだ。
しかし、屈服する気にはならなかった。
「わたしはあなた様のことをお慕いしておりました。その気持ちは今も変わってはおりません。けれど、これだけは……これだけは納得がいかないのです」
震える声でどうにか反論し、目を逸らしたい気持ちを抑えて真っすぐ見据えた。
まさかこのひとにこのような態度を取る日が来るなんて思いもしなかった。わたしという存在そのものを揺るがす事態だが、腕の中で眠る胡蝶の命の気配が支えとなってくれた。
「私よりも、部外者の命を優先するわけか」
責め立てるように言われるも、わたしは必死に首を振った。
「この子はあなた様の健やかな日々を支えてきたはずです。その行いはわが国民の働きに等しいはずです。なんせ、我々にとってあなた様は全てですから」
「確かに、その胡蝶は非常に役に立った。だが、それはお互いの利害が一致していたからに過ぎない。情に惑わされるわけにはいかぬのだ。王国の存続のためにも、その貴重な食材を持ち出すことは許可できない」
これが最後の訴えだ。
失敗に終わった以上、わたし達は対立せざるを得ない。
女王陛下はわたしたちの全てだ。その気持ちは本心であるし、疑いようがない正義だ。
ならば、わたしは悪なのだろうか。悪だとしても、この子は渡したせない。渡すことが正義だと言うのならば、わたしは悪になってしまおう。
「諦めろ」
女王陛下は短い言葉でおっしゃった。
「お前の力ではこれまでだ。命が惜しくば、そのまま跪け。大人しく従ってくれれば、大目に見てやろう。奥の間で気絶している我が子らにも、納得のいくような擁護をしてやろうとも」
とんでもない計らいだ。
けれど、有難いとはちっとも思えなかった。
わたしの表情を見て、女王陛下の眼差しも変わる。
「――そうか。残念だ」
厳しい口調でこちらに牙を剥く。
「では、力尽くで分からせてやろう。覚悟しろ」
衛兵は来ていない。一対一の真っ向勝負だ。
だからと言って、こちらにも分があるだなんて、どうして信じられるだろう。相手は己の力で頂点に上り詰めた生まれながらの女王だというのに。
それでもわたしは意思を曲げなかった。女王陛下の攻撃がこちらに向けられても、この蛹だけは離さずに抱きしめて、立ち向かった。
無論、心より忠誠を誓ったひとに怪我をさせたいわけがない。
わたしのすることは逃亡だけだ。
女王陛下の攻撃をかいくぐって、どうにか王国から脱出してしまおう。そして、この蛹を温かくて安全な場所に隠してしまうのだ。
その後のことなど、わたしの頭には全くなかった。どうせ短い一生なのだ。この蛹さえ守れたら悔いはない。そんな思いでわたしは走った。女王の攻撃に怯まずに、その僅かな隙を見逃さずに……。
けれど、王国の母はわたしが信じていたよりもずっと神々しい御方だった。
わたしに逃げる機会など端から存在しなかったのだ。翻弄する動きなど、陛下には通用しなかった。平和ボケしていた王国民たちは惑わせても、一国を担う彼女には全く通用しなかった。
最初から無理があったのは分かっている。わたしのしたことは、ただただ自分の命を粗末にしただけだったのかもしれない。それでも、後悔はなかった。この子を見捨てて生き延びるくらいならば、わずかでも可能性にかけたかったのだから。
そうはいっても、やはり怖かった。
力尽くで地面に抑え込まれれば、震えが止まらなかった。その恐怖から逃れるように、遠ざけるように、わたしは蛹を抱きしめ続けた。
「蛹を渡せ。今ならまだ命乞いを聞いてやろう」
声は出なかった。必死に首を振って否定することしか出来ない。
ただ、意思だけは強く保った。
「本当にいいのだな。罪は重いぞ。軽い罰では済まされない。胡蝶と心中するつもりか」
「陛下のお好きなようになさってください。わたしの気持ちは変わりません」
「――そうか」
短く呆れたように呟くと、女王陛下は非常に冷たい眼差しでわたしを見下ろした。
いよいよ終わりが訪れる。かつて目にした敵対候補者のように、王国を恐怖に陥れた棘蟻姫のように、わたしの首は刈り取られてしまうのだろう。
胡蝶よりも一足先に、わたしは物言わぬ食材となる。その恐怖は計り知れないものだった。それでも、意思を捻じ曲げて命乞いをすることなんて、不可能だった。
女王陛下の刃が迫ってくる。
味わう羽目になるだろう痛みを覚悟し、わたしは蛹を抱きしめながらぐっと目を瞑った。
一瞬だけ時が止まってしまったかのようだった。
「本気なのだな」
声はとても冷たい。目を開けてみれば、女王陛下はわたしに刃を突き付けたまま、こちらを覗き込んでいた。
時間をかけられればかけられるだけ心身の苦痛も酷くなっていく。これが、彼女に敗北した者達の恐怖なのか。まさか自分が知ることになるとは思わなかったが、それでも後悔だけはしなかった。
蛹を抱えながら何度も頷くと、女王陛下は気の抜けたような声で小さく「そうか」と呟いてから、打って変わって雷鳴かと思うような声を上げた。
「次の月の時刻、お前への罰を告げる。それまで蛹共々奥の間に戻るがいい」
こうして、わたし自身の終わりは明日へと引き延ばされたのだった。