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恐ろしい計画を聞かされてからというもの、眠れぬ日々が続き、日常業務にも身が入らなかった。とくに、胡蝶の少女の世話が今までとはまた違った意味で辛くなってしまい、無邪気に話しかけてくる彼女に冷たく接してしまうこともしばしばあった。だが、胡蝶の少女は首をかしげるばかりで、あまり気にしていない様子だ。それがまた見ていて辛かった。
女王陛下はというと、これまでと全くお変わりない様子で胡蝶の少女を可愛がっていた。まさかその微笑みの裏であのような事を考えているなんて誰も思いもしないだろう。胡蝶の少女はすっかり自分が愛されていると信じて疑ってすらいない。それだけ、私室での二人きりの時間が甘いものなのだろう。だが、それは偽りのものだということを、胡蝶の少女に教えたくてたまらなかった。
そんなことをすればわたしはどうなる。
側近の立場ではなくなる程度ならば幸運だろう。下手すれば女王陛下を裏切った者として断罪されてしまう。いつかこの目で見た棘蟻姫のように、その首を平和ボケした王国民たちに晒され、何処となくのどかな今の時代に良くない刺激をもたらしてしまうだろう。
しかし、このままでいいのか。悩んでいる間に時間は経っていく。日々、世話をしている胡蝶の少女の身体も、だんだんと蛹化を迎える準備が整ってきている。
このままでは、この子は――。
「ねえ、具合悪いの? 大丈夫?」
話しかけられて、はっと我に返った。
女王陛下の私室にて、胡蝶の少女が心配そうにわたしを見つめている。
陛下は今、王の間においでだ。その間、胡蝶の少女の傍についているのがわたしの役目でもある。彼女に接するのは辛いが、辛いと言えば女王陛下の御心を損ないそうだと思うと怖くて拒否できない。もやもやとしたまま向き合えば、こうしてぼんやりとしてしまう事も多かった。
具合が悪く見えたのだろうか。まさかその理由を言えるはずもなく、わたしは力なく笑って答えた。
「何でもありません。ただちょっと寝不足なだけです」
「寝不足? じゃあ、仮眠する? お昼寝ごっこなら女王様もお許し下さるわ」
「いいえ、あなたと共に寝ていい者は女王陛下以外におりません。わたしの事はそう心配なさらずに」
「……そう? なんだか最近、冷たいのね」
「気のせいですよ。あなたとわたしの立場が変わってしまっただけです」
真っすぐ疑問をぶつけられ、内心戸惑ってしまった。わたしの態度など気にしていないと思っていたが、気のせいだったようだ。やっぱり気にしているのか。
まあ、考えてみれば当然だ。どんなに明るく振舞っていても、彼女だって不安だらけなのは間違いない。一歩間違えれば、すぐにでも殺されるかもしれない状況で、この国で一番偉い人に抱かれる毎日なのだから。ただその寵愛を受けて楽しんでいられるほど、楽観的ではないのだろう。
そんな彼女がもしもあの計画を知ってしまえば、途端に狂ってしまいかねない。想像しただけで可哀想な話だ。もどかしく、歯がゆい話だ。
気づけばわたしは、どうすれば、この子を助けられるのかという事ばかりを考えている。
「立場、か。まさかあたしも、こんなに大事にされるなんて思いもしなかった。女王様はいつだってお優しいの。美味しいものをいくらでも食べさせてくれるし、イイコトをするときはとても大切に扱ってくれる。……でもね、あたしイケナイ子だから、時々違うことを考えちゃうんだ。食糧庫――だっけ、あの場所に居た時に、いろんなひとたちの笑顔を観たことを思い出しちゃうの。……あなたとの思い出も」
そう語る胡蝶のつぶらな瞳は、いつもの化け物のような魅惑的な眼差しとは全く違う。違うけれど、やはり魅了の力は健在だ。
だが、切なげな顔でそんなことを言わないで欲しい。余計にこちらが悲しくなる。どうして陛下は、よりによってこの子を宴の主役にしようとしているのだろう。いつか確実に訪れる未来が怖くて仕方なかった。
「あたしね、あなたとイイコトするのも、結構好きだったんだよ。あなたはちょっと不器用だけど、不器用ながらに温かみがあったもの。女王様もお優しいけれど、少し違った魅力ね」
そんなことを言うのは、止めて欲しい。無邪気な姿が痛々しい。
「おやめなさい。女王陛下がお聞きになったら悲しまれますよ」
逃れるようにそう言うと、胡蝶の少女は苦笑した。
「……そうだね。この話はやめる」
寂しそうに笑いながら、彼女はそう言った。
もっと話してあげるべきだろうか。上手い助け方も思いつかないまま向かい合うのは怖い。だが、間違ってはいけない。不幸なのはわたしではなく、この哀れな胡蝶なのだ。
――それでも、わたしは意気地なしの虫けらだ。女王に生まれる者とそうでない者の違いは此処にあるのか。結局、この時は胡蝶の少女とまともに会話をすることも出来ないままだった。
だが、これでいいのか。
短い虫けらの人生を、こんな気持ちのまま過ごしていいのだろうか。
もやもやとしたままどうにもならなくなって、ついにある時、わたしは女王陛下に直談判するという、普段ならば考えられないほど大胆な行動に出ていた。
冷ややかな側近たちの視線を一斉に浴びながら跪くわたしに、女王陛下は短く促した。
「話すがいい」
その許しにすがりつくうように、わたしは申し出た。
「実は折り入ってご相談したいことがあるのです」
この場で直接言うわけにはいかない。それは分かっていた。
今にも少女のことを口にしたい気持ちを必死に抑え、女王陛下に目で訴える。陛下は聡明なお方だ。わたしの顔色を見れば、その深刻さをすぐに理解してくださるはず。そう信じた気持ちは裏切られることもなく、期待通りの反応をしてくださった。
「相談か。よかろう。月の時刻を過ぎるころ、前に話した小部屋にひとりで来るがいい」
大きな一歩だ。
直訴できる機会さえつかめれば、あとはわたし次第だ。
だが、いざ手にしてみれば恐怖心はぬぐえなかった。
心が落ち着かない。下手したら、胡蝶の少女を助けるどころではなくなってしまうだろう。まずは冷静にならないと。冷静に、言葉を選んでおかないと。
そわそわした気持ちと共に、わたしは再び思考の迷路に迷い込んでいた。時間というものはあっという間だ。退屈なときはあんなに遅いのに意地悪なものだ。
しかし、短くとも訴えたい気持ちは一つだけ。
上手く伝える方法に自信はないが、やるしかない。
強い思いを抱きながら、とうとう約束の時刻を迎えたのだった。
◆
「相談と言うのは、胡蝶の話だろう?」
二人きりになるなり、女王陛下はわたしを真っすぐ見据えてそう言った。
神々しいお姿がいまはただ恐ろしく思えてしまい、罪悪感にかられた。不徳にも、在りし日の敵対後継者たちの姿に重なってしまったのだ。あまりにも酷い心境に、我ながら驚いてしまった。内心、女王陛下に詫びながら、ただ肯いた。
女王陛下がどれだけわたしの心境をお察しになられているかは分からないが、軽く流すように呟いた。
「――だろうな。ここ数日、お前の様子は見ていた。なんせ、お前はあの胡蝶と深く関わった側近だ。おかげで、王国民たちの感情の動きもある程度は予測できそうだ」
「陛下、この間のお話は……」
消え入りそうな声でどうにか訊ねると、彼女は目を細めて答えた。
「もちろん、嘘ではない」
殴られたような気持ちになりながら、わたしは必死に彼女の顔を見つめた。
「どうしてなのです。あの子は陛下に懐いております。愛してくれていると信じているのですよ。そんな彼女を食材にするなんて……どうして……」
「お前は信じられないようだが、私はこの国の女王として国民たちの健康を考えねばならない。それには、質のいい食材が必要なのだ。あの胡蝶を飼いならしているのも、ゆくゆくは美味しく食べるために過ぎない。そう割り切って最初から接していたのだよ」
「懐かれていたとしても、心は揺らがないのですか?」
「……揺らぐ時はあるさ。けれど、蜜が出無くなれば、興味を失って彼女を養う意味に疑問を唱える者たちも現れるだろう」
「その時は国から追い出せばいいじゃないですか……」
「追い出すよりも、効率のいい方法が食べてしまうことだ」
どうやら、わたしと陛下の考え方は全く違うらしい。
同じ母から生まれているといっても、女王と女王でないものの違いはある。国を重んじるということは、それだけ非情にならなければいけないのだろうか。
震えそうになるのをこらえながら、わたしはどうにか食い下がった。
「けれど、もしも出された肉があの胡蝶のモノだという噂が漏れでもしたら……」
「漏れたとしても、その頃には誰もがあの胡蝶のことを忘れているだろう。お前は私の傍に仕え、毎日彼女と接しているから忘れられないだけだ。偵察隊によれば、かの胡蝶の記憶が薄れている国民も多くいると聞く。それに、香しく、美味しいその肉がなんだったのかを敢えて知りたいと思う者は稀有だろう」
結局、私は運が悪かったのだろう。
きっかけを作ったのは自分自身だが、貧乏くじを引いたように胡蝶の少女と関わってしまい、情を交わしてしまった。その結果が今の葛藤と苦しみだ。もしも、他の側近たちと全く同じならば、こんなにも辛くなかっただろうに。
だが、現状を恨んでいる場合でもない。どうにか陛下の考えを変えることはできないものか。考えに考えて、結局最後は哀願するしかなかった。
「陛下……どうかお願いです」
その場に平伏しながら、わたしは訴えた。
「あの子を殺さないでやってください。あの子は陛下の事を信用しているのです。一生、可愛がって欲しいなどとは言いません。ですが、追い出すだけにしてやってはくれませんか」
こんな風に必死に願ったことは一度だってなかった。
それでも、なりふり構っている場合ではない。訴えなければ、あの子は殺されてしまう。女王陛下の私室ですくすくと育ち、生き延びた国民のための特別な料理につかわれてしまう。そんな光景は絶対に見たくなかったのだ。
泣くまいと最初は思っていたが、涙は自然にこぼれていた。女王陛下はそんなわたしをただじっと見つめていた。その表情から伝わるのは、冷たさだけだ。
「どうやら、事前にお前の反応を確認したのは、正解だったようだ」
陛下はそう言って、微笑みを浮かべる。かつて見たままの輝かしい顔立ちだが、いつものように温かみはちっとも感じられなかった。凍り付くような尊さはいつものことだ。だが、そんな彼女を前にして、これほどまでに絶望を感じたことは今までなかっただろう。
「お前には休息が必要だ。しばらく奥の間で休むがいい。安心せよ、飢え死にはさせぬ。だが、胡蝶の少女には二度と関わるな」
「……陛下!」
奥の間というのは、王国の奥深くに作られた複数の小部屋である。病気になった精霊を隔離するためや、後継者争いに敗れ、降伏した女王候補者を一時的に隔離するために使われる恐ろしい印象のある部屋だ。
だが、そんな部屋に閉じ込められることが怖いのではない。恐怖はもっと別のところにある。休息なんて表面上のもの。本当の目的は、胡蝶の少女のことから私を遠ざけるためだ。
女王陛下は本気なのだ。その事実があまりにも重たく、わたしは必死になって哀願した。
「お許しください、陛下。わたしに休息など必要ありません。これまで通り、勤めを果たします。だから、どうか――」
「ならぬ。このままいつも通り過ごせば、お前の心に魔がさすかもしれない。そうなれば、いかに幼き頃より見知った姉妹とはいえ、処分は免れぬぞ。お前の為でもある。この件にはもう関わるな」
それは、胡蝶を救いたいわたしにとって、あまりにも厳しいお言葉だった。
女王陛下は視線を和らげ、小声で付け加える。
「一つだけ約束してやろう。お前にはあの黒小灰蝶を食わせたりしない。お前の知らないところですべては行われ、気付けば終わっているのだ。その頃までにせいぜい、あの子の事は忘れるのだ」
絶望しかない。
相談は失敗だった。だが、聡明な陛下の事だ。相談なんてしなくとも、遅かれ早かれこうなっていたのだろう。頭の中が真っ白になる中、陛下は部屋の外に向けて声をかけた。途端に、二人の衛兵が現れる。どちらも荒々しい気性と腕っぷしの強さが目立つ女王陛下の娘らだが、わたしからすればその母親たる女王陛下よりは可愛いくらいのものだった。
女王陛下は駆けつけた娘たちに告げる。
「どうやら疲れがたまっていたらしい。療養させることにした。奥の間へ連れていけ」
その言葉にちらりと衛兵たちの視線がこちらに向く。惨めなほど、その視線が痛い。だが、彼女らは何も言わぬまま、女王陛下の言葉に従った。
こうして、わたしは閉じ込められてしまったのだ。もう二度と、胡蝶の少女の姿を見れないのだろうか。そう思うと、本当に心が狂ってしまいそうだった。
このまま、諦めるしかないのか。
――あたしね、あなたとイイコトするのも、結構好きだったんだよ。
無邪気な笑顔が脳裏に浮かんだ。
いいや、どうして諦められるだろう。
決して広いとはいえない閉ざされた小部屋の中で、見張りの気配を外に感じつつも、わたしは全く諦めることが出来なかった。
かくなる上は、強硬手段しかない。訴えても無駄だ。胡蝶が食べられてしまう前に、どうにかこの王国から脱出させなくては。
独りきり、部屋の中でうずくまりながら、ぐるぐると回り続ける思考の渦の中で、わたしはあらゆる可能性について考えだしていた。
良い機会はいつか。どうやってこの部屋を抜け出すか。




