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 胡蝶の少女が王国に来てから、日の時間と月の時間がそれぞれ三回は過ぎていった。相変わらず、王国民たちは胡蝶の少女に夢中であったし、わたしの方は偵察のために胡蝶の少女と話をするたびに、イイコトをして陛下に報告に行くということを繰り返していた。

 胡蝶の言うイイコトとは何なのか。全てを自分から知ってしまったときは混乱した。後ろめたい気持ちにかられ、最初は逃げるように食糧庫を立ち去ったというのに、再度の偵察を陛下に命じられたときは、内心、彼女の元に向かう口実が出来たことに喜んでいた。


 勿論、これではいけない。

 胡蝶の元に行くのは情報収集がメインであって、イイコトがメインではない。ただ、この胡蝶が女王陛下を害する存在なのかどうかが分かればいいから行っているだけ。わたしの心は女王陛下一筋であるはず。


 そういうわけで、恥を忍んでわたしは胡蝶の少女とのイイコトを包み隠さず陛下に報告していた。陛下の側近たちも見ている前で、どうして王国民たちがあの胡蝶に夢中になってしまうのかを、体験談として語る。周囲の視線を感じるたびに羞恥心が芽生えるが、仕方ないことだとぐっと我慢した。

 ただ、聞いている方はどうやら、イイコトとやらをふしだらな行為だと思っていない様子だ。ただ純粋に興味を抱き、好奇心いっぱいの眼差しで聞いているだけだった。


 それは女王陛下も同じだった。


「一度、その胡蝶の少女に会ってみたい」


 彼女の口からその言葉が出る時が来てしまうことは、前々から恐れていた。ついに来てしまったか。何か終わってほしくない時代が終わってしまうような、そんな寂しさを感じた瞬間だった。


「その胡蝶を此処まで連れて来い。お前の言う、イイコトとやらを試してみようではないか」

「は……はい、かしこまりました」


 平伏しながら内心は泣きそうだった。

 きっと、あの胡蝶とのイイコトは女王陛下も気に入られることだろう。そうなれば、わたしは二度とイイコトが出来なくなってしまうかもしれない。哀しい。とても哀しかった。それに、陛下があの胡蝶に夢中になれば、側近の一人に過ぎないわたしなんて砂粒以下の存在になるだろう。それも辛かった。しかし、そんなわがままが通用するはずもない。女王陛下のご意向なのだから、従わずにはいられないのだ。

 そういうわけで、わたしはトボトボと胡蝶の少女の待つ食糧庫へと向かったのだ。


 胡蝶の少女は懐こい性格をしていた。

 最初はそれを生意気だと思ったものだが、肌を重ねるごとに情が湧いたのか最近では可愛いとさえ思えてきたばかりだ。胡蝶の少女はいつだって明るく、決して攻撃的な言葉を口にしない。少し話してみるとその主張はあまりにも楽観的過ぎて、王国民たちへの悪影響が心配なくらいだったが、会えば会うたびにこの少女の漂わせる独特な空気と魅惑的な甘い味が恋しくて、どうでもよくなってしまっていた。

 だが、これで最後だ。陛下のものになれば、国民には触れられないだろう。


 胡蝶の少女を陛下の元に連れて行かなくてはならない。


 そのことを倉庫番に伝えると、誰もが蒼ざめた。

 噂は瞬く間に広がり、王国全体に落胆のため息が漏れだした。それでも、不平不満を言う声はほんの一部だけだったようで、ほとんどが涙を呑んで彼女のことを諦めたようだった。そこまでは国民たちも落ちぶれていなかったのだろう。倉庫番たちもかなり辛そうだった。きっと、仕事の合間に何度も世話になっていたのだろう。胡蝶の少女が閉じ込められている石扉を開けるときも、ちらりとわたしの顔を振り返って悲しい目を浮かべた。わたしが静かに首を振ると、ため息を漏らしつつ、やっと開けてくれたのだ。


 中で待機していた胡蝶の少女は、すでに見知った顔のわたしに気づくと、輝くような笑みを浮かべた。

 この笑みとも、もうすぐお別れなのかと思うと、最後に一回だけ味わいたくなってしまった。倉庫番が扉を閉じるなり、胡蝶の少女を抱きしめると、親しいものとふざけ合っている時のように彼女は笑い出した。心行くまで楽しむと、いよいよ本題だった。

 ここから出ることになったこと、女王陛下の元に連れていくことを、甘い後味と共に出来るだけ丁寧に伝えると、胡蝶の少女は驚いた様子で言った。


「本当に? これから女王様にお会いできるの?」


 そして、嬉しそうに目を細めた。


「それは楽しみだわ。ねえ、女王様はどんな御方なの?」

「お会いすればすぐに分かるわ。それに、多分、ここにはもう戻ってこられない。陛下はあなたのイイコトに興味をお持ちのようよ」

「まあ! やっぱり女王様も気になっていたのね。きっと喜んでもらえるわ。あたし、自信があるの」


 以前ならば生意気としか思わぬ場面だが、今は違った。

 悔しいが認めよう。彼女ならば女王陛下に気に入られるに違いない。イイコトが無事に終われば、きっとこの胡蝶は王国民たちにとって聖域に等しい陛下の私室で養われることになり、二度とわたし達の前には現れない。……いや、そうだったらまだマシだろう。わたしは陛下のお世話係だ。嫌でも目にすることになる。その味を知っているのに、触れることを許されないなんて想像しただけで辛すぎる。胡蝶の味を楽しめない辛さと、大昔から慕ってきた女王陛下の心を独り占めされてしまう辛さを身近で味わうことになる。地獄の日々の始まりだ。


 しかし、そんなわたしの複雑な心境など知るよしもなく、胡蝶の少女はわくわくとした様子でわたしについて来たのだった。

 倉庫を出ると、倉庫番や行きかう王国民たちに無邪気に手を振る。そんな彼女に悲しそうな表情を見せつつも手を振り返す彼らの姿が痛々しい。同時に、彼女たちから胡蝶を奪っていくわたしへの視線もかなり痛々しかった。

 国民に会うたびに心をめった刺しにされながら、どうにか陛下の元に戻れたときは、まるでうっかり外の世界で迷ってから生還したかのような気分となった。

 胡蝶の少女は初めて見る女王の間に目を輝かせ、見慣れぬ側近たちの顔をひとりひとり不思議そうに眺めていた。側近たちもまた、噂にのみ聞いていた胡蝶の少女の姿を興味ありげに見つめ、そして無視できない甘い香りに気づくと、息を飲んでいた。


「それが例の胡蝶か」


 正面に座る陛下がそう訊ねると、くるくる動いていた胡蝶の少女の視線がぴたりと止まった。王国民たちとは明らかに違う、その神々しいお姿に驚いたようだ。だが、胡蝶の少女は全く恐れずに笑ってみせた。


「お目にかかれて光栄です、女王様」


 最低限の礼節を守ってくれたのは幸いだ。胡蝶の親子関係なんてよく知らないが、胡蝶なりの教育は受けているのかもしれない。


「王国の方々にはよくしていただきました。ありがとうございます。お礼に皆様にもイイコトをしてまいりました。王国の方々がお優しいのも、きっと女王様がお優しい方なのだからだと思っております。こうしてお会いできて、とても嬉しいです」

「お前の噂はよく聞いている。我が子らが夢中になったイイコトとやらがどういうものなのか、そちらにいる姉妹からもよく聞かせて貰った。私にも、その味を教えてくれるか」

「勿論です! きっと女王様にも気に入っていただけると自負しております」


 くすりと笑う胡蝶の眼差しに、周囲の姉妹たちがざわついた。

 此処にいる者たちのほとんどは、外の世界をあまり知らない。胡蝶についても、話には聞いたことがあっても、実際にその魅惑を知っているわけではない。蛹化もしていないお子様とはいえ、生きている胡蝶の魅惑に触れる機会などめったにないのだ。その未知の刺激に驚かないはずがなかった。

 女王陛下も、胡蝶の少女への興味を深めたらしい。彼女の方も怪しく微笑み、厳しい眼差しをわたしの方へを向けた。


「その者を部屋に通せ」


 当然のように命じられ、目眩がしそうだった。か細い声でどうにか返事をすると、虚しさは一気に広がっていった。



 女王陛下と胡蝶の少女のイイコトがどのようなものだったのか、その具体的な内容については、わたしのあずかり知るところではないが、きっと素晴らしいものだったのだろうというのは簡単に予想できた。

 わたしが思っていた通り、胡蝶の少女はうまく気に入られ、女王陛下の愛妾のような立場に収まった。かの少女のイイコトとやらを全く知らない側近たちも、一度だけ目にしたあの魅惑的な眼差しのためか疑問の声をあげることはなく、また、胡蝶の少女も私室から一歩も出なくなったため、王国民たちは次第に彼女のことを忘れていった。

 ただ、女王陛下のお世話をするわたし達だけは、胡蝶の少女のお世話も一緒に行うため、忘れようにも忘れられなかった。


 わたしと同じ仕事を担う姉妹たちは、皆、口々に胡蝶の少女の魅惑について語り合った。その誰もが実際にはイイコトについて知らない。ただ、この中でわたしだけは知っていたので、彼女たちの好奇心も自然とわたしへと向けられた。どんな味だったのか、どんな感触だったのか、無遠慮に聞き出そうとしてくるもので、わたしの方も無駄に争うのは嫌だったため、いちいち答えては一人勝手に落ち込むのだった。


 女王陛下に気に入られたいという気持ちが、こんな辛さを生むなんて思いもしなかった。

 日々の生活より鮮やかさが失われつつあるのを実感しながら、ただ責任を果たすためだけに女王陛下や胡蝶の少女の世話をせっせとする。これほどまでに骨抜きにされてしまうとは、やはり胡蝶が恐ろしい化け物であるという噂は本当だったのだろう。

 いったいいつまで、こんな日々が続くのだ。もしかして、一生なのだろうか。短い精霊人生の終わりがこんなものだなんて嫌すぎる。ため息を吐いては心から嘆く毎日だった。


 しかし、そんな日々は突然終わりを迎えた。

 胡蝶の少女が女王陛下のものとなってから、太陽と月の支配がさらに何度も入れ替わっていったある日のことだ。わたしは一人、女王陛下に呼び出されていた。ひと払いがなされ、密室にてふたりきりという恐ろしくも嬉しい時間が急に与えられ、どきどきしながらその意向を窺った。

 女王陛下は石扉の向こうで待機している見張りの気配すら気にしながら、そっとわたしに話したのだった。


「今から話すのは、我が王国統一の時からずっと傍にいたお前を信用してのことだ」


 その一言で、心にたまった鬱憤がだいぶ緩和された。

 久々にすぐ傍で目にする女王陛下は神々しい。今の時代、王国の血統のほとんどが彼女のものに代わっている。先代の子であるわたしには、その血統がとても羨ましいほどだったが、今だけは同じ時代に生まれ育ってきた者という誇らしさを久しぶりに感じることが出来た。

 だが、喜ぶのはこのくらいにしておこう。女王陛下は深刻なご様子だ。何か不安なことがあるのだろう。静かに肯くと、女王陛下はさらに声を潜めた。


「お前が探ってくれた胡蝶の少女の事だ」


 思わぬ話題に動揺してしまった。


「な、何か不都合でもございましたか?」


 粗相でもしてしまったのか。女王陛下に愛想をつかされれば、あの胡蝶の少女は瞬く間に肉のご馳走となるだろう。他の胡蝶ならば平然と受け入れられることだが、何度か肌を重ねたことのある相手となると話は別だ。それでも、女王陛下の命令ならば誰も逆らえない。

 嫌な予感への恐ろしさをぐっとこらえていると、女王陛下は怪しく微笑みながら首を振った。


「いや、何も不都合はない。噂通り、魅力的な胡蝶だ。それは違いない」

「……でしたら、いったい何なのです?」

「あの胡蝶の種族について、お前は何か知っているか?」

「いいえ……種族までは存じておりません」


 一般国民よりは長く生きているとはいえ、尊い身分でもないわたしの教養はたかが知れている。後継者の教育係は別に居るものだし、深い教養は女王陛下自らが後継者たちにお伝えになるものだ。よって、彼女の知ることのほとんどはわたしには想像もつかないことだった。


「そうだろうな。この王国であの種族の事をよく知る者はほとんどいない。私も先代から話で聞かされていただけだ」


 どうやら、陛下はあの胡蝶の種族についてご存知の様子だ。


「あれは黒小灰蝶くろしじみという種族の胡蝶だ。長き王国の歴史において、しばしば迷い込んできたのだと言い伝えられている。食料と引き換えに甘い蜜を我ら黒大蟻たちに提供するという。間違いないだろう」

「黒小灰蝶ですか……」


 名前を知ったところで、何だというのだろう。

 わたしは不安でたまらなかった。女王陛下の表情がそれだけ怪しかったせいだろう。ほくそ笑むようなこの表情はかつて何度も間近で見てきたのだ。王国が統一されるより前のことだ。多数の後継者と対立し、敵対勢力をいかに失墜させるかを計画していたあの頃の表情によく似ていた。

 あの少女が何故、陛下にこのような表情をさせるのかが分からず、恐ろしかった。


「黒小灰蝶はね、安全に成長するために我ら黒大蟻の協力を求めてくる。そのために蜜を出せるようになるのだ。だが、いつまでもそのような暮らしが出来るわけではない。そのうち蛹化の時を迎えるだろう」

「蛹化すると何かまずいことでも?」

「いや、まずいことはない。蛹化した後も甘い香りは残るそうだ。蜜は楽しめぬが、香りはきっと素晴らしいものだろう。だが、その役目も羽化すれば終わる。羽化した黒小灰蝶は甘い蜜は出せなくなるのだ。そうなれば、彼女はただの胡蝶になる」


 ただの胡蝶。

 

 その言葉に、はっとした。

 女王陛下は薄っすらと微笑みを浮かべてはいるが、その眼に含まれているお心はとても厳しい。お気に召したのは甘い味だけで、その心までもを奪われていらっしゃるのではないのだと思い知らされるような表情だ。

 ならば、あの胡蝶はどうなってしまうのか。怖くて訊ねられない。だが、訊ねるまでもなく、女王陛下はそのお心を私だけにお話しくださったのだ。


「黒小灰蝶は黒大蟻族の王国で蛹となり、羽化すれば国外へと出て行ってしまうそうだ。あの子も同じだ。共に眠るときは可愛がってやっているから、安心してあの部屋で蛹となるだろう」


 淡々と女王陛下は語る。


「それまでに、じっくりと育てれば上質な肉質となる。蛹になってから羽化するまでには時間がかかるようだが、羽化したての身体は瑞々しいとも聞いている。王国にとっては、貴重な食材となり得よう」

「……羽化したてのあの胡蝶を皆にふるまうおつもりですか」


 気が遠くなりそうな中、わたしはどうにか訊ねた。女王陛下は静かに肯いた。


 わたし達のことを信じて蛹化し、大人になる彼女を食料に。

 それは、少なくともわたしにとっては、今まで聞いた中で一番恐ろしい計画だった。


「けれど、あの胡蝶は我が王国民たちの心を掴んでしまいました。もしも、殺して食材なんかにしたら、反発する者が現れるかもしれません」


 声の震えは抑えられなかった。

 何より、陛下がちっとも悪びれないところが怖い。あれだけの内乱を生き抜き、棘蟻姫の脅威にも怯まなかっただけあるのだろう。でも、いつもならばすぐに賛同できるはずのわたしも、こればかりは異を唱えずにはいられなかった。

 そんなわたしに女王陛下は頷いてみせる。


「ああ、分かっているとも。だから、こうして声を潜めて話すしかないのだ。それに、お前はあの胡蝶の味を知っている唯一の側近だからな」


 声の冷たさは気のせいだろうか。

 いや、そうじゃない。陛下はわたしをお試しになっているのだ。わたしがどんな反応をするのか。国民たちをどう納得させるかを考えるためだろうか。

 逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、どうにかその眼を見つめていることしか出来ない。そんなわたしを見て、女王陛下は笑みを漏らした。


「なるほど、それが自然な反応か。この話は口外するんじゃないぞ、分かったか?」


 いつにもなく威圧的な雰囲気に、わたしは恐々肯いた。……肯くしかなかった。

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