第二章
「楓さんから連絡が来て、やっぱりあの行方不明者リスト、清水が保管してたリストと一致するって。」
香澄のその言葉に浩文は渋い顔をした。
「あと、案の定あの地域監視カメラが全然なくて、って言うかだいたいの人が消えたの山の中だし、どういう状況で消えたのかは掴めなかったや。ただ、家出とか、夜逃げとかそういう可能性は低そう。特に問題抱えてる人はいなかった。今時信じられないんだけどさ、個人用の携帯式高機能モバイルコンピュータが普及してる現代で行方不明者の二割ぐらいは個人用端末どころか携帯電話すら持ってなくて、残りのうち一割ぐらいが家に置きっ放しっていう感じだったんだけど、残りの人達の端末情報追って消えたときの動きを追ってみたよ。そしたら皆、不思議な動きしてた。一瞬で数キロ離れた場所に移動してたりとか、車も通れない山の中を時速四十キロオーバーで移動してたりとか。これ見ると清水の超能力者に誘拐されたって線が濃厚になってきたかも。行方不明の届けが出された順で纏めると、この地域周辺から始まって徐々に範囲が広がってってるし、消えた人の移動した方向が皆この方向へ向かってるから、犯人の潜伏先はこの山のどこかじゃないかな。一応、それはお兄ちゃんにも連絡して、お兄ちゃんからその山がある村の情報送ってくれって言われたから送っておいた。山の中に神社があって、そこで行われる独特のお祭りがあるから、それを題材に卒論書こうと思ってフィールドワークにきた大学生って設定で調査に入るって。そうすれば山の中探索しててもおかしくないし、人に聞き込みもしやすいからってさ。だからもし電話するならその設定で話ししろって、案外音漏れるからって言ってたよ。」
自分の端末を操作して必要な画像をテレビ画面に映しながらそんなことを言う香澄に、浩文は解ったと短く返事した。
「そうそう楓さんが、今回の件には失われた清水の情報が必要だろうから、人を向かわせるって。データは全部失っちゃったけど、その人が全部記憶してるから、何でもその人に聞いてって言ってたよ。」
それを聞いた涼花が眉根を寄せた。
「裕次郎が来るの?情報司令部隊の情報保管庫がわざわざ出てくるって何か裏がありそうで怖いんだけど。」
「あと、もう一人。青木沙依さんって人が来るって言ってました。」
それを聞いて、沙依も来るとかもう嫌な予感しかしないと言って頭を抑える涼花を見て香澄と浩文は疑問符を浮かべた。それを見た涼花が、青木沙依って無自覚トラブルメーカーだから、と呟くと、無自覚トラブルメーカーって何?と知らない声が聞こえてきて、そこにいた全員が驚いた。
「あ、ごめん。場所が割れてたから直接空間転移でここに来ちゃったんだけど、驚かせちゃったみたいだね。」
声のした方をみると、十七、八ぐらいのとても綺麗な女の子と十歳前後の茶髪の少年が立っていて、女の子の方が全く悪びれた様子もなくそう謝った。
「あなたが靑木沙依か。前会ったときは自己紹介する間もなく分かれたから名前を聞いても解らなかった。俺は特殊犯罪対策課課長の木村浩文だ。で、こっちが村上香澄と杉村涼花。今は現場に出てて留守にしてるが、あともう一人、村上俊樹っている男が特殊犯罪対策課には所属してる。」
そうメンバーを紹介する浩文に対し、沙依も改めて、龍籠から出向してきた第二部特殊部隊隊長の青木沙依だと自己紹介をし、隣にいる少年が情報司令部隊の副隊長、小暮裕次郎だと紹介した。
「あのさ、裕次郎はともかく何で戦闘員のお前が出張ってくるの?戦争でも始めるの?」
そう言う涼花の問いに、沙依が、戦争なんか始めるわけないじゃん、そうじゃなくてさ、と渋い顔で話しを始めようとし、その沙依の手を取って裕次郎がそこにスッと腕輪を嵌めて、沙依が、あーっと大きな声を上げた。
「ユウちゃん。本当につけた。こんなんつけられなくてもわたし何もしないって、確かに手加減って苦手だけど、ちゃんとするからって言ったのに。酷い。」
そう言いながら自分に嵌められた腕輪を外そうとして、やっぱ外れないかと溜め息を吐く沙依を見て、涼花がお前なにやらかしてここに来させられたの?と呟いた。
「大昔にちょっとある人にあるモノをあげただけだよ。必要だと思ったし。ただ、その人がそれをまだ使ってないらしくて、しかもそれを人間界にいる人が持ってるみたいで。それでその人がいるのが今あなたたちが調べてる件の現場辺りらしくて。もし、あなたたちの仮説が正しくて清水の人間や研究施設が残ってたとして、なんかの拍子にその人達の手に渡ると困るなってなってさ。わたしはそんなことありえないって言ったんだけどさ、そんな未来存在してないし。でも、清水の手に渡らなくてもそんなものが人間社会にあるってことが問題だから、責任とって回収するか処分してこいって、ナルに怒られて出向させられたんだよ。」
渋い顔でそう言うと沙依は大きな溜め息を吐いた。
「しかもさ、今の人間社会でそんなもん持ち歩いてたら即捕まるから置いていけって刀は取り上げられるしさ。刀がないからってわたしが術式主体で戦闘なんかしたらしゃれにならないからって、大昔の戦争でわたし達の力封じるのに人間が作った腕輪を技術開発部隊が改良して元の腕輪より更に強力にした腕輪嵌められるしさ。刀も取り上げられて力も封じられたら、わたし何にもできないじゃん。そんなむやみやたら暴れるわけないのに、どんだけわたし信用されてないのさ。」
「むやみやたら暴れなくても、何かあったら後先考えずに暴れるでしょ、お前脳筋なんだから。今の話し聞いただけでも成得の苦労が手に取るように解る気がする。」
「何そのわたしのイメージ。わたしそんな後先考えずに行動してないよ。ちゃんと考えて行動してるよ。」
「お前が考えてるつもりでも、考えが足りないからこうなるんでしょ。だからこっちで余計なことしないように裕次郎を監視につけられたんじゃないの?」
そう言われて、沙依はふて腐れたようにそうだけどさと呟いた。
「わたしが大丈夫って言ったら大丈夫なのに。わたしの未来視は信じてるくせにわたしのことは信じてくれないんだもんな。」
「お前が能力でちゃんと視た未来と、それを視て考えたお前の希望的観測は別だから。」
呆れたようにそう言って涼花は溜め息を吐いた。
「何か随分と雰囲気変わったけど、相変わらずみたいだね。」
そう言って小さく笑うと涼花は本題に戻るように話題を移した。
「ところで、お前が人に渡した清水に渡ったらしゃれにならない物って何?」
そう言う涼花に対し、沙依は一度裕次郎に視線を向け、裕次郎が頷くのを確認して口を開いた。
「わたしが人に渡したのは、最後に一つだけ残った人間を不老長寿の高見に昇華させるための術だよ。」
それを聞いて息を呑む面々を静かに見つめて、沙依は話しを始めた。
「大昔、地上を手に入れようとした天上の者がいた。その人はその企みを知り止めようとしたお兄さんと戦闘になり、相打ちという形で封じられた。封じられる前に魂の一欠片を外に逃がしたその人は、その状態でも地上を自分の物とすることを諦めなかった。そしてあるとき、自分で動くことができないその人は、我らが地上の子を唆し力を与えわたし達と争わせ、地上の神の末裔であるわたし達達ターチェを滅ぼし、わたし達が授かった地上を統べる為の力を奪おうとした。結局その戦争でわたし達から力を奪うことができなかったその人は、自分が復活する為の糧とするために、力を与えた人間を不老長寿の高見へと昇華させ力を蓄えさせた。その時、力を与えられ不老長寿の肉体を与えられた人達が後に仙人と呼ばれるようになり繁栄をする事となった。天上の人の贄とされるために力を蓄えさせられてるとも知らず、その後も才能のある人間が集められ、彼らは自分が求める高見を目指し修行を積み、基準に満たった者達は次々と不老長寿にされていった。そして、仙人達の力が充分に蓄えられた時、天上の人の策略で人間界をも巻き込んだ大きな戦争が起こされ、仙人達もまた滅ぼされそうになった。で、その人を倒そうと機械を伺ってた人達がその戦争の騒動に便乗してその人を倒して、人間を不老長寿の高見へと昇華させる力を持っていたその人がいなくなったことで、仙人界から不老長寿の技法は失われた訳なんだけど。実は一つだけ人間を不老長寿にするときに使ってた丸薬が残っててさ。それをわたし人にあげちゃったんだよね。でもそれ自体はただの栄養補強の丸薬で、ある一定以上素養を持った人がそれを飲むと不老長寿になるように細工してある感じだから、誰かの手に渡って調べられた所で不老長寿の技法が解明される訳もないし、全然問題ないと思うんだけど・・・。」
「それで下手な奴が飲んで不老長寿になったら面倒でしょうが。」
「うっ。ナルと同じこと言われた。まぁ不老長寿になるってことは、人間が本来人間には不可能な領域の術式も組めるようになるって事だし、ちょっと脅威になる可能性もあるかもしれないけど、そんな人が一人出てきたところで大したことないじゃん。」
「お前にとって大したことなくても、それってわたし達からしたらかなりの脅威だから。今の人間社会に術式を使える存在なんてそんなにいない挙げ句、現存してる術者もターチェと戦争したときほどの能力は持ってないからね。超能力なんて非現実的でありえないって認識が一般的なこの時代、本来人間に使用できる領域以上の術式を使える術者なんかが現れて戦闘になったら対応できないから。まったく、その考えなしが無自覚トラブルメーカーだって言うのよ。お前、昔からさらっとこれくらいたいしたことないでしょとか言って結構凄いことやらかしてるからね。お前はいつも涼しい顔してたけど、いつも周りがどんだけ気を揉んでたか解る?本当、龍籠の中ならなんとかなるかもしれないけどこっち巻き込むの止めて。お前の起こすトラブルに巻き込まれたらうちらじゃ対応できないから。」
心底げんなりした様子で淡々と涼花に責められて、沙依はごめんなさいと呟いた。
「涼花さんがナルとおんなじようなこと言って怒ってくる。ナルに散々怒られたし、解ってるよ。わたしが悪かったよ。悪かったからさ、ちゃんと言われた通り問題の処理のためにこっちに来たんじゃん。そんなに怒らなくても良いのに。」
「そう言って全然悪いと思ってないのが見え見えだから怒られるんでしょ。」
そう突っ込んで涼花は深く溜め息を吐いた。
「じゃあ靑木さんはその丸薬を回収するためにここに来たのであって、うちの件とは関係ないのか?」
その浩文の問いに沙依は、そうなるのかな、と言って首を傾げた。
「実は大昔に色々あってさ、今丸薬持ってる人にわたし嫌われてるから、返してって言って返してもらえるとも思えなくてさ。現場に出てる村上俊樹さんって腕の良い泥棒なんでしょ?わたしの代わりに盗って来てもらえないかななんて思って、お願いしに来たんだ。でも仕事が片付かないとそっちに手を回せないだろうから、手伝えることがあるなら何でもするよ。」
そう言って沙依が調査の進捗情報を訊ね、香澄から資料を受け取り話しを聞きながらその資料に目を通していった。
「鬼鎮祭ね。強大な力を持って大暴れした鬼を山に封じ、その鬼が再び暴れることがないよう封じられた鬼の気を鎮める為に行われる祭事。元となった話しが事実なら、この山に封じられてる鬼って、あの戦争で呪われた誰かってことになるのかな。そしたら今も封印の中で怒りに魂が縛られ魂を穢されて、人間を恨み続けて生きているのかな。本当にこんなお祭りで鬼の気が少しでも鎮まるならいいんだけどね。」
そう呟く沙依を見て香澄が疑問符を浮かべた。
「人間の間でも色々と語られ怖れられている鬼だけど、実在した鬼っていうのはね、元はターチェなんだ。人間との間に起こされた戦争で、わたし達ターチェは酷い侵略と虐殺の限りを尽くされ、どの国も一度滅びることとなった。まぁその件に関しては人間はさっき話した天上の人の道具として使われただけだし、当時わたしも人間の味方してさ、国が滅ぶ方向に誘導しちゃった所もあるし、わたしは人間は別に悪くないと思ってるんだけど。でも、そうじゃない人も多いから。そんな事情を知らなくて全部人間が悪いって思ってる人もいれば、知っててもやっぱり人間を許せないって人も結構いるしさ。ターチェから人間って恨まれてるんだ。その恨みとか怒りとかそう言う感情があの戦争が起きた当時に爆発しちゃった人はね、天上の人に呪いをかけられて、そんな感情で魂を縛られて、自分が何者だったのかも思い出せないほど魂が穢されて、ただ衝動の赴くままに破壊を繰り返す鬼へと変化させられた。鬼って言うのは自我を失い破壊の限りを尽くすだけの存在にされたわたし達の仲間なんだ。」
淡々とそう話す沙依を見て、香澄はこの人はこんな話をしているのにそれに何も感じてないんだと思って少し沙依の存在が怖くなった。思念系統の能力者である香澄はたまに人の考えている事が聞こえてくることがある程度で大した力は持っていなかったが、人の考えている事まではわからなくても人の感情の動きだけならばいつでも掴むことができた。いつも無表情で感情の読み取れない淡々とした話し方をしている楓でさえ話をしていればそこに感情が見えるのに、今目の前で話しているこの人物は表情はころころ変わるのにそこに全く感情が見えなくて、香澄は背筋が寒くなった。そんな香澄を見て、香澄ちゃんは勘が良いんだねと呟く沙依にちょっとだけ、寂しそうな、悲しそうな、後ろめたさそうな、そんななんとも言えない感情を見ることができて、香澄は少しだけ安心して、勘ならわたしよりお兄ちゃんの方がいいですよと言って笑った。
そんな話をしていると裕次郎に裾を引っ張られて、沙依は彼に視線を落とした。
「××にて、鬼退治を行った術師が鬼の腹から出てきた子供を連れ帰るのを確認。泳がせて観察を行う。術師は自分の子として鬼の子を育て、術師としての修練をつけている模様。泳がせて観察を継続。鬼の子の素養は素晴らしく、人の姿でありながらその能力は鬼のそれと一致。また術への適応力、使用の限度の限界値も高く、術を使用しても寿命を削ることもないもよう。研究対象として回収を決定。捕らえた鬼の子に対し実験を行う。基礎観察終了。得られた情報、検体を本部へ。鬼に対する研究を実施。鬼であるという自覚を持たせ、鬼として覚醒させようとするも失敗。鬼としては不完全な個体のため鬼の研究対象から除外。兵器としての活用を検討。他の研究を元に強化を行い、実用を開始。予想以上の成果を確認。兵器開発の研究へと移行。実験開始。順調に成果が見られている。実験継続。実験中、鬼の子の暴走を確認。滅するに敵わず、研究施設を閉鎖し封印。続行不可能につき、研究終了。」
「ユウちゃん、その研究施設があった場所ってさ・・・。」
沙依の問いに答え裕次郎が指で示した場所を確認し、沙依はなるほどねと呟いた。
「ねぇ、ユウちゃん。ユウちゃんと離れることになるけど、わたしここに行ってきてもいいかな?」
そう訊かれ、裕次郎は良いとも悪いとも答えずじっと沙依を見つめていた。
「これが繋がりがあるなら、鬼鎮祭って本来鬼を封じてる結界を維持するためのものでしょ?今の人間社会にまともな術師はいないみたいだし、そもそも本来の意味を失った祭りにその効果があるとは思えない。封印の効力が弱まって封じられた鬼が出てきて力を得るために霊力の強い人間を襲ってる。この清水のリストに則った連続行方不明事件はそういうことなんじゃないかな。もしそうなら、もう相当の人が食われてる。長い間封印されて力が枯渇していたとしても、その鬼が本来の力を取り戻すのも時間の問題。それ以上に成長する可能性だってある。こんな腕輪じゃ完全にわたしの力を封じることなんてできないよ。今の状態でも、破られた封印の状態にもよるけど、わたしならそれを活用して封印し直すこともできるし。それが不可能な状態だったとしてもしばらくの間足止めしておくことくらいできる。本来ほどの戦闘はできなくてもそれくらいならできる。わたしが時間稼ぎをしている間にいくらでも対応は考えられるでしょ。行かせて。」
沙依がそう言うと、裕次郎は暫くそのまま沙依をじっと見つめて、それから一つ頷いて涼花の方を見た。その視線を受けて、どこに送れば良いの?と言う涼花に、沙依は俊樹さんのところと答えた。
「こっちで何かできることはあるか?」
そう言う浩文に対し、沙依は少し考える素振りを見せて浩文の方へ視線を向け、全部終わったら、と何か言いかけて、やっぱいいと言って笑った。
「浩文さん、ありがとう。いつだってあなたはわたしの希望だ。あなたはずっとそのままでいて。」
そう言われて浩文は意味が解らなくて眉根を寄せた。
「あの時腹にいた子供は元気か?」
そして何故か浩文の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「ちゃんと無事に産まれて元気にしてるよ。その後もう一人できて、わたし今じゃ二児の母だからね。」
「旦那とは相変わらず仲が良いのか?」
「結婚してないから、旦那じゃなくて恋人だよ。仲は相変わらずかな。」
「相変わらずあの調子で恋人から愛されてて、小さい子供も二人いるならな。ちゃんとそいつらの元に戻ってこいよ。結婚してなくたって家族だろ。家族は誰が欠けたってダメなんだからさ。」
そう言って、浩文はそういうことかと妙に自分の言葉に納得した。なんとなくここを出たら沙依がそのまま消えてしまいそうな気がしたのだ。別に沙依から死を覚悟した雰囲気を感じた訳でもない。何か切羽詰まったような雰囲気を感じた訳でもない。本当にただなんとなく、そのままスッと消えてしまう、そんな気がして自然と言葉が口から出ていた。
浩文の言葉を聞いた沙依は小さく笑うと、大丈夫ちゃんと戻るよと呟いた。
「俊樹と連絡とって人気のないところに移動してもらった。座標の設定も完了したからいつでも飛べるよ。」
そう声を掛けられて沙依は、じゃあちょっと行ってくるねと言って、涼花の空間移動の能力により現場へと送られていった。
○ ○
「俺に天上の娘さんとやらから丸薬盗ませたいとか嘘だろ。監視役から離れて単独行動とれるように計って何を企んでるんだ?事と次第によったら香澄にあっちにいる奴等に報告させるぞ。」
お互いの情報交換を終えた後、普通の話しをするようにサラッと俊樹にそう言われ沙依は笑った。
「元々さ、丸薬をどうにかするのにわたしみたいな不確定要素投入する必要なんてないんだよ。それこそ情報司令部の人がこっそり動けばすぐ終わる。わたしなんか出向させたら余計な仕事が増えるだけだって解ってるのに、ナルはさ皆のためにこうさせたんだよ。」
そう返事になってないような事を言って沙依は、ナルは優しいからさと呟いた。
「で、あんたの目的は何なんだ?」
「そうだね、今回に関して言えばあなたを助けることになるのかな。ちょっと今回の敵はやっかいだよ。術式の訓練を受けた上に強化されたターチェ。今の涼花さん程度の実力じゃ、アレに太刀打ちはできない。涼花さんじゃあなたを助けに来たところで一緒に逃げるのが精一杯。そもそもあなたが助けを求めてから来るんじゃ、間に合わない可能性の方が高い。それに逃げたところで、充分に力を取り戻し、更に人を襲って力を増したアレは大暴れして、わたし達が介入して収束させるまでに酷い被害が出ることになる。それを阻止して、被害を最小限に抑えて事態を収束させるのがわたしの目的かな。ナルはそういうこと理解した上でわたしを送り出してるし、ユウちゃんもわたしの行動は想定内。報告されたところで困ることはないよ。好きにすれば。」
そう言って沙依は俊樹に視線を向けた。
「儀式を執り行うに当たり、神社に封印の場所の詳細が残されてたでしょ?案内して。ほとんどダメになってるだろうけど、封印された施設内にある資料を見れば敵の詳細を知ることができるかもしれない。そうすれば対策できるでしょ。そこに着いたら、わたしはそこがまだ封印として機能させることができるのか状態を確認するから、あなたは資料の回収をお願い。」
そう言われ、俊樹は沙依を一瞥してから、こっちだと案内した。それを見て沙依は、俊樹君は本当に勘が良いねと言って笑った。
「わたしが本当はそんなこと必要だと思ってないって解ってるんでしょ?なのにどうしてそんなところに案内させるのか気にならないの?わたしのこと疑ってるのに、何をわたしがしようとしてるのか、訊かないの?」
「どうせ訊いたってあんたはぐらかすだろ。あんたの目的が被害を最小に抑えて事態を収束させることだってのが本当ならあとはどうでもいい。何も解らないのに余計なことに時間割いてたら事態を悪化させかねないから、おとなしく言われた通りにした方が賢明だと思った、それだけだ。」
さらっとそう言われ、沙依はそっかと呟いて小さく笑った。
「わたしの未来視も万能じゃないからさ、そもそも常に全部見てるわけじゃないし。知ってからじゃ遅かったってことも色々あるんだよ。今回のことも、もっと前から知ってたら、全部が上手くいく未来を勝ち取ることができたのかもしれない。でも、今のわたしがこれを知ったときには、もうその未来への道は閉ざされた後だった。色々どうにかできないか探ってはみたんだけどね、ダメだった。一番被害を少なくするためにはさ、どうしてもアレを避けることができなかった。まぁ、しかたがないことだよねって思うけど、そんなこと言ったらまたあの人わたしのこと怒ってわたしのこと軽蔑するんだろうなとかさ、しかたがないとことだよねで、わたしが本当に自分の中で処理できちゃってるって知ったらナルはどう思うかなとかさ、そんなことを考えるとちょっともやもやする。昔は人からどう見られるとか思われるとか、そんなこと気にしたこともなかったのに、凄く不思議な気分。」
歩きながら沙依はそんなことを言って、また、ナルは優しいからさと呟いた。
「ナルもきっと気が付いてて、わたしに騙されていたいから騙されてるフリしてるだけなんだと思う。でも、実際に実感を伴って知られたくないなって思っちゃう。わたしが本当はナルが思ってるような良い子じゃないって、本当に平気で酷い選択ができちゃうような奴なんだって、それをした後しょうがないじゃんで済ませれちゃうような非情な奴だって。わたしがそれを繕ってるんじゃなくて、本当に根っからそういう奴だって知られたくないと思っちゃう。唯の儀なんかして魂が繋がっちゃったらさ、バレちゃうじゃん。わたしが本当に何も感じてないって。だから、結婚なんかしたくないの。」
そんな独り言を話す沙依に、俊樹は今誰と話してるんだ、と訊いた。それを聞いて沙依がはっとした顔をする。
「もしかして調子悪いんじゃないか?なんていうか、あんたの存在が希薄に見える。目を離したら消えてそうで、ちょっと怖い。」
俊樹がそんなことを言うと、沙依は今から話すこと内緒にしててくれる?と言って困ったような顔で笑った。
「最近どんどん自分の境界があやしくなってきてるんだ。今、自分がどの時間軸のどの世界線上にいるのか解らなくなるときがある。このままじゃわたしさ、そのうち他の時間軸の自分との境界線が完全に解らなくなって、人の領域に留まっていられなくなる。そうなればこの世界のわたしは消える。清水家を崩壊させたとき、人の領分を越えてちょっと神様の力を使いすぎた。人であるわたしには本来使えない力を、禁忌を犯して神の領分に干渉して、わたしは使った。あの時ちょっと頑張り過ぎちゃった。だって余りにも絶望的な未来が多すぎてさ、どうにかするためには神様の方のわたしの力を使うしかなかったんだ。でも神様としての力を使っときながら、人の領分にいたいなんてわがままが通じる訳がないんだよね。あの時から、神様になった方の自分との同化が始まっちゃった。未来を視れば視るほどわたしは神に近づいて、人の領域での存在が危うくなっていく。なのに今回ちょっと沢山視すぎちゃったからさ、同化が一気に加速した。このままじゃわたし、人の領域に留まっていられるのも時間の問題だなって思う。でも、人の領域に留まっていられるようにする手立てがないわけじゃないんだ。ナルと唯の儀をして結婚すれば、この世界のナルと繋がるのはここにいるわたしだけだから、ナルがわたしの座標になってくれる。魂の繋がりが自分の存在の在処を明確にしてくれて、わたしはわたしを見失うことなくこの領域に留まることができる。ナルもずっと結婚してって言ってきてるし、わたしもナルと結婚したい気持ちはあるんだ。でも、勇気がまだ持てなくて良い返事ができない。こういう話をしたらナルは迷わずわたしとすぐにでも唯の儀をあげるって言い出すに決まってるから、自分がもうすぐ消えちゃうかもなんて話しもできてない。」
そう独白する沙依の言葉を興味なさそうに聞き流して、俊樹はそんなんで大丈夫なのか?と訊いた。
「何をするつもりか知らないけど、そんな状態であんたは最後までもつのか?なにかやりかけで途中で消えるとか止めてくれよ。対処できないから。」
そう言う俊樹に沙依は何も答えず笑顔を向けた。
「着いたね。資料を回収したら、涼花さんに連絡してあなたは皆のいるところに待避して。待避したら資料はユウちゃんに渡してね。」
「あんたは?」
「もう少ししたら、ここに封じられていた存在が一度戻ってくるから、それを迎え撃つ。本当、人間が研究した術式を使いこなす人外の存在って面倒臭い。おかげでアレに自然現象であるわたしの眷属の力は通じないから、今のわたしにアレを倒す術はなくてさ。あなたが資料を回収して涼花さんと退避する時間稼ぎするくらいしか今のわたしにはできないんだよ。」
「その後は?」
「天上の娘さんと合流して敵を倒す。天上の娘さんもわたしと同じ神の欠片だから、彼女もまた人の領域に在って神に最も近い存在だから。彼女が本来の力を取り戻せばわたしと同等以上の実力があるから、彼女には彼女が望まなくても覚醒してもらって戦えないわたしの代わりに戦ってもらう。彼女を覚醒させるまでできればあとはわたしがいなくても大丈夫。もし、そこまでいけなくても、あなたが資料を持ち帰ってくれることで、それに合わせた増援が来る。それまでの時間稼ぎはやっぱり天上の娘さんやその仲間がしてくれる。ここまで来ればどう転んでも被害の増減が多少変わるだけで、今日中にはけりがつくから大丈夫だよ。」
そう言う沙依に促されて俊樹は放棄された施設に入り探索を開始した。施設内はどこもかしこもボロボロで、所々に焼け焦げたような跡があり、とても何かが残っているようには思えなかった。そして施設の形状やそこかしろに転がっている壊れた物の残骸を目にして、俊樹はとても嫌なものを感じた。本当に昔からあいつらはろくな事をしてないんだな、そんなことを思いながら俊樹は探索を続け、探索を終える頃にはいくつかの記録を手に入れていた。
端末を使って連絡を入れ、俊樹は迎えを待つ少しの間、沙依が言っていた言葉の意味を考えていた。しかし考えが纏まる前に涼花が現れて、考えるのを止めた。
「沙依は?」
「外で応戦中。今回の敵はお前じゃ太刀打ちできないし、あいつでも時間稼ぎが精一杯だって。これ持って帰ってユウちゃんって奴に渡せばそれに合わせた応援が来るから、俺たちだけで退避しろってさ。」
それを聞いて涼花がそうと言ってすぐ退避しようとして、俊樹は、あいつはどこまで信じられんの、と訊いていた。
「全面的に信じて大丈夫だよ。沙依はただの脳筋だから。考えが足りないだけで人を欺いてどうこうするような奴じゃないし。自分っていうのが薄い分、他人の為にばっか動く奴だし。味方でいるうちは安全。敵に回ったら多分躊躇も何もしないで容赦なくこっち潰してくるだろうけどね。情が薄いんだよ、昔から。基準がいつだって身近な誰かで、その誰かを基点にしか物事を考えられないし。今の基点は成得だろうから。成得は本当にムカつく奴だけど、絶対的に信頼できる奴だから大丈夫だよ。まぁ、沙依の奴、昔とだいぶ雰囲気変わったし今はどうか知らないけど、悪い方には変わってないと思うよ。」
そう言うと涼花は、ほら帰るよと言って俊樹の裾を掴んだ。そして涼花の能力である空間転移で特殊犯罪対策課に戻って、俊樹は裕次郎に資料渡し状況報告を行った。
無表情で黙々と資料に目を通す裕次郎を眺めながら、俊樹は現地に残った沙依に思いを馳せた。沙依の言っていた言葉の意味は良く解らないことが多かった。本当に沙依の言っていた通り全てが上手くいく選択肢がないのかどうかも解らない。でも、今ここで行われている全てのことはもう意味をなさない気がした。もう既に全てが終わっている、そんな気がして、俊樹はなんとなく窓の外に視線を向けた。
○ ○
「磁生、ちょっと助けなさい。」
そう言いながら淑英が診療所の扉を勢いよく開けて入ってきて、磁生はうんざりした視線を彼女に向けた。
「久しぶりに会ってろくな挨拶もせずにそれかよ。あいかわらずだな。海渡ってまでこんなとこまで来て、何かあったのか?」
そう言いながら磁生は座るように促しお茶を淹れ、促されるまま椅子に座った淑英は良く解らないと呟いた。
「春麗から連絡が入って、郭が血相変えて堅仁連れて飛び出してったのよ。何があったか解らないんだけど、今の春麗ってただの人間だから昔みたいにろくに術式使えないし、戦えもしないじゃない。娘もいるし。杞憂ならいいんだけど、飛び出してった郭の様子見ると何か余程のことが起きてるんじゃないかと思って。あんたの助けが必要になるんじゃないかって思ったの。郭のこと助けに行ってあげて。あんたがいればあいつらも心強いでしょ。」
そう言われて磁生は、別に良いけどすぐには出れないぞと答えた。
「俺はこの国に帰化してるからな。国外に出掛けるのに許可がいる。まぁ、事情話して頼めばすぐ出してくれると思うけどな。春麗がいるの人間界だろ?そうそうそんな戦闘とかにはならないんじゃないか?索敵に特化した堅仁連れだしたってことは、娘が遭難したとかそんなんかもよ。」
そう言いながら磁生は電話を取って誰かに連絡を取って、暫く話をしていた。そして電話を切ると別の所にかけ話しをし始める。
「あ、沙依か?今、電話平気か?」
『平気って言えば平気だけど、どうかした?』
「いや、春麗んとこで何かあったらしくて郭が飛び出してったらしいんだけど、今あんた春麗が住んでんとこに行ってるって言うからさ、何か知ってるかと思って。淑英が何かあったんじゃないかってすげー心配してんだよ。」
『あー。結構しゃれにならない事態が起きてる。人間に捕まって色々されて狂っちゃった仲間が封印されてたみたいなんだけど、封印が解けて出てきちゃって人襲ってるんだよね。自分の練気を補充するために霊力の強い人を襲ってるから、天上の娘さんやその子供は危ないかも。実はほんのちょっと前にそれと戦闘してたんだけど、わたしも腕輪で力封じられてるし刀は取り上げられてるしでまともに戦えなくてさ。応援が来るまでの時間稼ぎに封じようと思ったんだけど、すんでの所で取り逃がしちゃって、今追ってるところ。』
「捕まえられそうか?」
『気配消すのや幻術の類いが上手くて、正直ちょっと難しいかも。今、見失っちゃってて、痕跡辿って追いかけてるとこだから。』
「任務中に私情挟んで悪いんだが、春麗達を先に避難させてもらうことは可能か?」
『別に良いよ。もしかすると痕跡追うよりそっちの方が早く敵を見つけられるかもしれないし。天上の娘さんの気配を辿って接触してみる。』
「悪いな。頼む。郭と堅仁も向かってるって言うし、俺と淑英もすぐそっち行くから。」
『正直手が足りなくてさ。そんだけ戦力が来るならちょっと手伝ってもらえると助かるかも。なんて言ったって外で起きてることだし、わたしやユウちゃん出向させるにもだいぶナル苦労してるはずだから、いくら事態が事態でもちゃんとした作戦部隊送るとなると手間取ると思うんだよね。わたしも努力するけど、その手間取ってる間に何かあっても困るし、ダメかな?』
「ダメとは言わねーよ。手伝うなんて当たり前だろ。」
「ありがとう。とりあえず天上の娘さんを保護するのは任せて。お子さんには会ったことがないから難しいけど、天上の娘さんなら追えるし、天上の娘さんを見つければそこから辿ってお子さんも見つけられると思うから。また、合流したら細かい話しするね。』
それで電話が切られ、磁生は淑英に視線を向けた。
「お前ここに不法入国したろ。ターチェの国であるここに仙女のお前が不法入国とか、殺されてもおかしくないからな。ターチェにとって俺たち仙人がどういう存在なのか忘れた訳じゃないだろ。来る前に連絡入れりゃちゃんと話しつけといてやったのに。郭のこととやかく言う前にお前も少しは落ち着きを身につけろよ。」
支度をしながらそう小言を言う磁生に淑英はだってしかたがないでしょと噛み付いた。
「しかたがなくない。状況も解らず突っ走ったのは間違いないだろ。いいか、ここの最高責任者である靑木高英がお前の存在にいち早く気付いて処理してくれたから今回はなにもなかったが、そうじゃなきゃ殺される可能性もあったし、拘束されて余計な時間を割くことになったかもしれないんだぞ。あと、お前のその勝手な行動で崑崙と龍籠の同盟に亀裂が入る可能性だってあったんだ。自分達を滅ぼしかけた恨んでも恨みきれないほどの相手である仙人達とここの連中が同盟を結ぶために、いったいどれだけの苦労があったと思う?今でも納得できてない連中もいるし、そういう奴らがどれだけの我慢をしてどんな思いで俺たちを受け入れてると思う?お前の自分勝手な感情だけでそういうの全部台無しにしようとしてたのに、それをしかたがないとか言うなよ。それ以上言い訳したら許さねーぞ。二度とこんなことすんな、解ったな。」
磁生が支度する手を一度止めそう言って淑英を睨みつけて、淑英はふて腐れたような顔をして小さくごめんなさいと呟き、だってと続けそうになったのを飲み込んだ。
「支度できたから行くぞ。春麗が住んでるとこまで一発で飛べるか?」
「任せて。これくらいの距離なら楽勝よ。」
そう言って淑英が空間転移の為の術式を展開し、二人は春麗が住む村へと飛んだ。
○ ○
村の境界に張っていた結界が破られたのを感知し、美晴は郭に連絡を取った。
『春麗、どうかしたのか?』
春麗。自分の前世での名であるその名前を呼ぶ郭の声を聞いて、美晴は安心感を覚えた。前世での出会いは結界越しのお互いに姿も見えない状態でだった。触れ合うことも、目を合わせることさえできない状況で逢瀬を重ね、ただ言葉を交わし、心を通わせ、お互い惹かれ合った。いつだって彼の声に癒やされ、安心感を覚えていた。だから、こうして彼の声を聞くとそれだけで彼を身近に感じることができてとても安心できた。
「村の境界に張っていた結界が破られたわ。とても強力で何か良くないものが村に入ろうとしたみたい。まだ入って来た気配はないけれど、結界が破られた以上いつ何が起こるか解らないから、出掛けている祥子ちゃんを連れ戻してうちの周りの結界を強化して外に出ないようにして待ってるから、来てくれる?」
そう言うと、すぐ向かうとだけ返事があって電話が切れて、美晴は小さく笑った。緊急事態だもの、急だけどお父さんに来てもらうのはしかたがないわよね。少し前に娘とした会話を思い出して美晴はそんなことを思った。こんなに急にお父さんと会うことになって、また祥子ちゃん怒るかしら。わたしがした話を受け止めるまで少し時間が欲しいと言っていたけれど、話をしてからまだそれほど日も経っていないし、急に人ではない危険なものが近づいてるから家に帰りましょうなんて言っても信じてもらえるかしら。何か連れ戻すための口実を考えなくてはいけないかしらね。そんなことを考えながら、美晴は娘の居場所を探すために家を出た。
祥子ちゃん、出掛けるときはいつもどこに行くのか言ってから出掛けていたのに、今日はどこに行くのか言わずに出掛けちゃったのよね。携帯電話も家に置きっ放しだったから、多分、遠出はしてないんだと思うけれど。そんなことを考えながら、美晴は娘の気配を追うべく術式を展開させた。昔の自分だったら一気に村全体を捜索することも簡単だったのに、今の自分にはそんな範囲で術式を展開させることができなくて、美晴はもどかしい思いがした。元来、人間は奇跡体現ができないようにできている。人間にとって奇跡体現を行うために自分の体内に流れる気を他に活用できる形に練ることも、練った気を使って奇跡体現を行うこともとても大変なことで、それは寿命を削る事だった。それは、前世が天帝の娘であり、その正体が輪廻転生を司る女神が現世に流した女神の欠片である美晴にとっても、今は人間の器に入っている以上同じだった。ただ普通の人間よりもはるかに多くの気を持っているため、自分の命を削らなくても多少の術式は組めるだけ。ただ、それでも器にはかなりの負担を強いるためあまり長時間術式を使用することはできない。使いすぎれば器が耐えきれず結局死に至ってしまう。そのことが、かつては強大で強力な術式をいくつも同時に展開させることができた美晴にとってはとてももどかしかった。
娘の所在を掴んで美晴は一息ついてから、娘のいる方へ向かった。娘が幼馴染みの豊中歩と一緒にいることが解って、告白の返事をするのに出掛けたから恥ずかしくてどこに行くのか言えなかったのかしらなんて考えて、もう少しそっとしておいた方がいいのかしらなんて考えて、やっぱりすぐに迎えに行こうと考えを決めた。娘が豊中に恋をしていることはずっと前から解っていた。素直になれず色々言ながらも思いを募らせてモヤモヤしている娘を見て、祥子ちゃんもそんな年頃なのねなんて微笑ましく思っていた。そんな娘が想いを寄せる豊中から告白を受けて、それで色々思い悩んでいる様子を見て、素直に告白を受けて付き合ってしまえばいいのに、祥子ちゃんは本当に素直じゃないわなんて思って、おかしくなった。歩君と一緒にいるところを邪魔しちゃったら怒られるかしら。でも、緊急事態だものね。歩君も一緒に避難してもらえばいいかしら。そんなことを思いながら二人のいる方へ向かっていると、二人の気配が神社に着いたところでぱっと消えて、美晴は焦った。そしてなりふり構わず空間転移の術式を展開させ一気に神社まで飛んで、そこにあった惨状に背筋が凍った。
そこには首と胴が切り離された豊中の死体が転がっていて娘の姿はなかった。
死んだ豊中の表情を確認し、切られた断面を確認し、美晴は意識を集中させた。これは器を気にして力を抑えている状況じゃない。今の自分にどれだけのことができるのか解らないけれど、なんとかしなくてわ。村に入られていたことに全く気が付かなかった。今も、こんなに意識を凝らして探しているのにわずかな波としてしか存在を捕らえることができない。熟練され卓越した術の使用。相手はただ者ではない。そんな気持ちに気が焦りながらも、美晴は必死に捜索し、娘の大きな感情の揺れを掴んでその場所へと空間転移した。
空間転移で飛んだ先で娘が何者かに襲われているのを見て、美晴は娘に覆い被さるそれを術式で吹き飛ばした。ここに来るまでの間にもだいぶ無理をしていた。美晴の身体はもう悲鳴をあげはじめていたが、でも今はそれを理由に膝を折るわけにはいかなかった。何か術式をかけられていたのであろう意識の朦朧としている娘に声を掛け、自分を認識した娘に逃げるように伝えると、まだぼんやりとした様子のまま娘がアユ兄は?と呟いて、美晴は胸が苦しくなった。
「祥子ちゃん、歩君は死んだのよ。だから、歩君の幻を見ても騙されてはいけないわ。」
そう伝え、それを聞いた娘が現実を受け止められず呆然とする姿を見て、美晴はこういうときはどうすれば良いのかしらと思った。祥子ちゃんはただの子供。こんな事態に慣れてもいなければ、こういう事態に対応できるような修練を積んできたわけでもない。どうして歩君は殺されて祥子ちゃんは連れ去られたのか。アレが何をしようとしていたのか解らない。でも、アレはわたし達を無事に逃がしてはくれない。今のわたしに祥子ちゃんを護りながらアレと戦うほどの力量はない。いくら祥子ちゃんが現実を受け止められなくても、ここはわたしが抑えている間に祥子ちゃんには一人で逃げてもらわないと・・・。そんなことを考えながら、美晴は視線で敵を牽制しつつどうにか娘の意識がしっかりするように働きかけていた。
なかなか現実に戻ってこられない娘に焦りを覚えながら、美晴は術式を放つ準備をしていた。今は少しの間だけでもアレから離れ身を隠して祥子ちゃんをどうにかしないと。そんなことを思いながらそこにいた者に話しかけ、その存在がターチェのなれの果てであることを認識し、美晴は縁というものは切れないものねと呟いた。これもあの人が地上を手に入れようと彼らにしたことの結果なのかしら。あの人を止めることができなかったお父様達の罪なのかしら。そしてその罰を今わたしが受けようとしているのだとしたらとんだ因果だと思う。罰だったのだとしても、そんなもの受ける気はないし、親の因果を娘に科すつもりもない。でも、責任を果たせと言うのなら、命をかけてでもこの手で葬るべきなのだろう。祥子ちゃんを逃がしたら、全力で相手をしてあげる。そんなことを考えて美晴はそこにいた者に術式を放ち、娘を連れて身を隠した。
「祥子ちゃん。混乱するのは解るけど、しっかりして。気をしっかり持つのよ。現実を受け入れなくても良いから、夢を見ているのだと思って良いから、今はちゃんと立って。必死になって逃げなさい。」
そう言って美晴は娘を強く抱きしめ、その存在をしっかりと心に焼き付けた。
「祥子ちゃん、愛してるわ。」
そう伝え、訳がわからないという様子で自分を見つめる娘の頬を撫でて、美晴は笑った。祥子ちゃんは本当にお父さん似だ。本当、お父さんの双子の妹にそっくり。見た目だけじゃない、性格もよく似てる。一緒に暮らしていなくても似るなんて、やっぱり血は争えないのね。そんなことを思いながら、美晴の中に今まで娘と過ごしてきた時間が走馬燈のように溢れてきて、本当にあなたが産まれてきてくれて幸せだったわと心の中で呟いた。
「お母さんも一緒に逃げよう。」
そう言われ、美晴はそれに微笑みで返した。
「一人で逃げるのよ。」
そう、わたしはこれからアレと対峙しなくてはいけない。だから、ここはどうしても祥子ちゃん一人で逃げなきゃダメなのよ。
「もう小さな子供ではないのだから、ちゃんとできるわね。お母さんなら大丈夫。こう見えてお母さんとても強いのよ。なんとかして見せるわ。」
そう言って美晴は、行きなさいと厳しい口調で叫んだ。それと同時に戦闘が始まり、美晴は離れていく娘の気配を感じながら攻撃を防いでいた。もう少し、も少し祥子ちゃんが離れるまでは・・・。そんなことを思いながら防戦に徹し、急に動きを止めた相手に美晴は疑問符を浮かべた。
「お前は人間なのか?魔物なのか?不思議な気配がする。お前はいったい何者だ?」
そう問われ、美晴は、あなた意識がはっきりしているの、と訊いていた。
「意識?いつだって俺ははっきりしてる。俺が何をすべきなのかちゃんと解ってる。」
それを聞いて、美晴は意識がはっきりしているのなら、まだ大丈夫なのかもしれないと思って言葉を紡いでいた。
「あなたはターチェでしょ?戦争の後ずっと一人で生きていたの?もうとっくに戦争は終わっている。あなたたちを苦しめた存在ももうとうの昔に葬られた。もう、あなたが戦う理由はないと思うの。あなたはまだ完全に鬼へと堕ちていないようだから、きっと正常に戻れるわ。だからこんな戦いは止めにすることはできないかしら?」
そう言う美晴に、ソレは心底意味が解らないという視線を向けた。
「ターチェ?戦争?そんなものは知らない。俺は鬼だ。俺は鬼だから、鬼らしく、破壊の限りをつくさなくてはいけない。俺は鬼だから、人を襲って人を食らう。そうやって力を蓄えて、俺は人間を全部滅ぼさなくてはいけないんだ。俺は鬼だから・・・。」
譫言のようにそう言葉を紡ぐソレに狂気を感じて、美晴は思わず距離をとり、今まで自分がいた所にソレがヌッと現れて目を見張った。術式を発動させた様子も感じなかった、なのにどうやってあの距離を縮めたの?そんなことを考えて臨戦態勢をとる。
「お前は不思議な臭いがする。人とは違う何かとても強大な力を感じる。お前を食えば、俺はきっともっと強くなれる。」
そう耳元で声がして、美晴は術式を発動させ攻撃をしていた。しかし、攻撃は当たらず、そこにはもうソレはいなかった。ただ声が聞こえ、時々ちらつくその姿に無駄に攻撃を重ね、美晴はどんどん消耗していった。完全に相手の術中に嵌まっている自覚はあったが、今の美晴に対応する術はなかった。気を抜けばきっと殺される。でも、このままを続けていてもいずれ消耗して倒れてしまう。本体はいったいどこにいるの?どうすれば・・・。そんなことを思いながら、だんだん目が霞み意識が朦朧としてきて、美晴は歯を食いしばった。こんな所で倒れるわけにはいかない。コレをなんとかしないと、大変なことになる。そうは思っても、どんどん身体は言うことをきかなくなっていき、術式を発動させようと手を上げようとして、美晴はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
朦朧とした意識の中で自分を見下ろす存在と目が合って、美晴はなんとか攻撃をしようとし、術式を発動させることができなくて顔を顰めた。その瞬間、何かの攻撃を受け、その存在の姿がかき消えて美晴は攻撃が放たれた方に視線を向けた。
「大丈夫か、春麗?」
そう言いながら郭が駆け寄ってきて、彼に抱きかかえられて、美晴はなんとも言えない気持ちになった。
「気をしっかり持て。もう大丈夫だから。」
そう言われて美晴は、祥子ちゃんは、と呟いていた。
「家で寝てる。心配ない。皆がついてる。お前もここはいったん退くぞ。こんな無茶して、また俺のことを置いて逝くつもりか。」
泣きそうな顔でそう言う郭の顔を見て、美晴はごめんなさいと呟いていた。あぁ、本当に姿形も、その声も、自分の知っている郭そのものだな、そんなことを思って、美晴は胸が苦しくなった。
「春麗。もう二度と俺を置いて逝かないでくれ。ずっと一緒にいよう。」
そう言われ強く抱きしめられて、美晴は心の中で郭に助けを求めた。ダメ。これは郭じゃない。どんなに彼によく似ていても、彼のように振る舞っていても、これは彼じゃない。気を許してはいけない。そう思うのに、耳に響くその声がとても心地よく感じて心が彼を求めそうになるのを、美晴は必死に抑え付けた。
「この周辺に結界を張っておいた、しばらくは大丈夫なはずだ。少し休んだら皆のところに行こう。春麗、お願いだから気をしっかり持ってくれ。愛してる。」
そう言って口づけをされて、まるで回復をさせるために練気を譲渡されるかのように優しく気脈を侵食されていくのを感じ、美晴は固く目を瞑った。今ここにいる郭が本物でないことは解っている。今のこれが自分に練気を譲渡し回復させるための行為でなく、逆に自分から霊力を奪う為の行為であることも解っている。なのに、今ここにいる彼に全て預けそうになっている自分を感じて、美晴は苦しくなった。コレは人の心につけ込むのが上手い。人を欺き惑わす類いの術を使うのが、とても巧い。郭。わたし、解ってるのに、気を抜けばすぐにでもコレに溺れてしまいそうになってる。お願い、郭、助けて。本当のあなたが傍に来てくれれば、わたし絶対に・・・。そんなことを考えながら、美晴の意識はしだいにはっきりしなくなっていった。
「こんな幻に惑わされるなんて、あなたも随分と落ちたものだね。」
そう女性の声がして、美晴ははっとした。
「ねぇ、わたしが欲しい?わたしの力を奪いたいでしょ?ならおいでよ。ほら、遠慮しないで、好きなだけ奪って、好きなだけ壊せば良いよ。夢の中でね。」
感情の読み取れないそんな声が近づいてきて、美晴のすぐ傍で、おやすみの時間だよと声がした。そして郭のフリをした何者かが意識を失うように崩れ落ち、解放され、美晴はぼやけた視界で声の主を仰ぎ見た。
「お久しぶり、天上の娘さん。いや、今はもう地上の子なのだから、天上の娘さんというのはおかしいのかな?どちらにせよ、あなたもわたしと同じ神の欠片なのだから、本質はどちらにも当てはまらないね。人の領域に顕在した神の一部。わたし達はお互いにこの世界の異物だ。」
淡々とそう語るその人を見て、美晴は清廉賢母と呟いた。かつて仙人界最強と謳われた仙女。その実、仙人界に捕らえられ研究の材料にされていたターチェ。その正体は地上の神の末娘。龍籠の第二部特殊部隊隊長、靑木沙依。地上の神と人間の間の子であるはずの彼女が神の欠片とはいったいどういうことなのだろう、そんな疑問が頭をよぎり、自分を見下ろす彼女を眺めて、あぁこの人は完全に人ではないのかと認識した。
「わたしと違って、あなたの与えられた形は魂だから、あなたは器がなくては活動することができない。でも、欠片とはいえ神の一部を受け入れられるだけの器など人の領域に存在するわけがない。天帝の娘であった以前のあなたでも、器が耐えきれず本来の力の発揮することはできなかったでしょ?今のあなたならなおさら。無理をするから、ほら器がもう壊れかけている。このままじゃあなた死んでしまうよ。また何も言わずに勝手にいなくなるの?それとも今すぐ人間を辞めて生き残るの?」
全てを見透かされているような吸い込まれそうなほど綺麗な漆黒の瞳で見つめられながらそう問われ、美晴は言葉を詰まらせた。
「こんなことを言ったらあなたは怒るかもしれないけど、かつてあなたが絶対的な悪だと決めつけた地上を手に入れようとしたあの人と、あなたは何も変わらないよ。わたし自身も変わらないと今でも思ってる。何かを求めるというのは、何かの犠牲がつきものだ。その支払うべき犠牲が他の人にとって受け入れられるかられないかの違いだけ、そこに正義も悪も本当はありはしないよ。それでもあなたは今でも絶対的な何かがあると言い切るの?今でもわたしは解らないんだ。何が正しくて、何が間違ってるのか。何かを欲することが悪いことなのかどうか。昔より随分と色々なことを考えられるようになってはきたけれど、今でもわたしには解らない。地上の神の娘としてわたしを無責任だと言ったあなたの言葉の意味が今でも解らない。わたしはいったいどうするのが正しいんだろう。わたしはあなたほどの正義感も何も持ってないし、今でもそんなもの必要ないと思ってる。そんなわたしをあなたはやっぱり無責任だと言って軽蔑する?」
そう言って沙依は遠くを見て、正義感や責任感だけじゃ永遠に意思を貫き通すことなんてできないよと呟いた。
「ねぇ、天上の娘さん。どうしてあなたは今その身体に生まれる前の記憶を持っているの?あなたはあの時死を選んで、そして自分の正体を知った。それはどうして?ねぇ、天上の娘さん、それがいったい何を意味しているのかあなたに解る?」
そう問われ、美晴は疑問符を浮かべた。
「それは、世界が終焉に向かって再び動き出すということだよ。かつて世界の終焉を止めるために自身を始まりと終わりの場所の贄えへと差し出し、軛となったあの人は。結局は神の孤独に耐えられずあなたを現世に流し、かつて愛した人と自分の欠片が出会うことを願った。そして、彼を見付け想いを通じ合わせた自分の欠片を今度は記憶を流さず彼の元へと送った。じゃあ、その次は?その次は何が起こると思う?欲求っていうものはどんどん膨らんでいくものなんだ、これで終わるわけがない。それにね、世界は終焉を迎えたがっている。一から多へ広がり、そして多から一へと戻ることが世界の摂理。世界は一に戻ることを望んでいる。最後には一に戻るようにいつでも全てに働きかけている。その世界の摂理に後どれだけ彼女はあらがい続けていられるんだろうね。かつて彼女は世界を救ったわけじゃない。かつて彼女がしたことは、自分のわがままで世界の摂理をねじ曲げて今の世界を作り出しただけ。そして今度は自分のわがままで世界を終焉に導くんだよ。それでもわたしはそれが悪いことだとは思わない。世界の誰もが彼女のことを無責任だと責め立てても、わたしは彼女を責めたりしない。そんなことはできない。だって独りぼっちは寂しいよ。全て視えているのに、何もできないって辛いよ。自分は解っているのに、誰にも認識されず、触れ合うこともできず、声も届かない。どれだけ大切に想ってどれだけ手を差し伸べて助けたとしても、誰にも理解されることもない。神様はいつだって孤独で、だからこそわがままで自分勝手な存在なんだ。世界を継続させるのも、終わらせるのもいつだって神様の意思一つなんだ。それを誰も責めたりなんかできないよ。できないはずなのに、人は弱いから、どうしても力のあるモノに絶対を求めてしまうんだよね。自分がなにもできないことは棚に上げて、他人を責め立てるんだよね。だから、わたしは神様なんかになりたくない。軛になんかなりたくない。世界に続いて欲しいとは思うけど、あの人が耐えられなくなったら、世界なんて終わってしまっても良いんじゃないかなって思う。一に戻れば皆一緒。一に戻った後は、また多に広がって新しい世界が始まりを迎えるだけなんだから。別に一度世界が終焉を迎えたっていいじゃないって思う。でも、それはやっぱりわがままで無責任なことなのかな。」
独白するようにそう語って、沙依は困ったように笑った。
「ねぇ、天上の娘さん。あなたがわたしのお願いをきいてくれるなら、わたしがあなたを助けてあげる。まだ生きていたいでしょ?彼や子供の所に帰りたいでしょ?人間は辞めなくてはいけないけれど、あなたの魂に耐えうる器が手に入り、あなたは大切な誰かを護る力を得ることができる。悪い条件ではないと思うんだ。」
そう言われて美晴はわたしは何をすれば良いのと訊いた。
「わたしの代わりにこの人を殺してあげて。見ての通り、わたしは武器も持ってなければ術式も封じられてるんだ。それでも使い慣れてる夢封じくらいできるから、こうやって時間稼ぎはできるけどさ、それも長くは持たないよ。それにこの人は死を望んでる。本人も忘れてしまっているけれど、人の道を違えたら殺してくれるって約束をしてたから、殺して欲しくて人を襲っていたんだよ。人になりたかったのに人になることを許されなかったこの人は、壊されてしまったその心で、大切だったモノを全部忘れてしまって、自分の意思と植え付けられた何かの区別かつかなくなっても、それでも必死に足掻いていたんだ。だからこのまま生きながらえて苦しみを継続するより、死んで楽になったっていいと思うんだ。娘を深く傷つけられたあなたはこの人を許せないかもしれないけど。この人に救いを与えるのではなく報いとして引導をわたすことはできるでしょ?あなたは憎い相手に苦しみ続けて欲しいなんて願うような人ではないって信じてるよ。」
沙依はそう言って美晴に何かを施すと横たわる何かの元に行ってしゃがみ込み、地面に横たわり眠っている存在の頭を撫でた。ソレは今は十五・六の少年の姿をしていた。穏やかに眠るその顔はさっきまで相対していた化け物には見えず、本当にただの少年に見えた。
「わたしはあなたを鬼だとは思わないよ。あなたはちゃんと人だった。あなたは人の道を違えさせられてしまったけど、あなたは最後まで人であろうと足掻いた人だったよ。心が正常に動くように戻ってしまったら、あなたは自分のしてきたことに耐えられないから。だからこのまま、約束通りお父さんが殺してくれた夢を見て、そして死んで。」
そう少年に声を掛けて、沙依は立ち上がると美晴に、じゃあよろしくねと声を掛けた。そう言われ美晴は沙依を見返し、一度少年に視線を移し、自分の心に向き合った。自分が何か決断の言葉を口にする前に彼女に人間を辞めさせられてしまった。もう自分は人間ではない。それどころか天帝の娘であった頃よりはるかに身体が軽く感じ、より強大な力を扱えるという確信が溢れてきていた。この力を使ってわたしは言われた通りにこの少年を殺すのか。いくら許されないことをしてきたとはいえ、自分自身彼を許せないという思いを抱いていたとしても、それをしてしまった事情も何も解らないまま無抵抗の少年を自分は手にかけるのか。そんな葛藤を抱きながら、美晴は心の中で沙依の言葉を反芻し、そして、意を決して術式を発動させた。
○ ○
「春麗。良かった、無事だったのね。」
家の前に着くと外で待っていた淑英に抱きつかれて、美晴は小さく笑った。
「淑英も来てくれていたのね。ありがとう。」
そう言うと、皆もいるわよと家の中に連れてかれて、美晴はそこにいた面々に笑顔を向けた。
「堅仁、磁生まで。ありがとう。皆来てくれて。こうして皆が揃うとなんだか昔に戻ったみたいね。」
そう言いながら、美晴は横になっている娘の所に行き、娘に付き添う郭と視線を合わせた。
「ありがとう、郭。来てくれて。」
「結局来ただけで俺は何もしてない。」
「それでも来てくれて嬉しいわ。こうやって祥子ちゃんの傍に付いていてくれて、ありがとう。」
そう言って美晴は眠る娘の頬をそっと撫でた。
「磁生が診てくれて今は薬で眠ってる。擦り傷程度で大した怪我はしてないそうだ。ただ・・・。」
そう言って言葉を詰まらせる郭を見て、美晴はそうねと呟いた。
「随分と辛い思いをさせてしまったわ。わたしが呑気に構えてないでもっと早く対応していれば、こんな辛い思いをさせずにすんだのに。わたしはダメな母親ね。」
「それを言ったら俺は父親失格だ。あまり自分を責めるな。」
そう言われ、抱き寄せられて、美晴はそっと目を閉じた。あぁ、ここにいるのは紛れもなく本物の郭だ。そう思って美晴は安心してその身を彼に預けた。
「これからどうしたらいいのかしら。わたしもう人間ではなくなってしまったわ。だからもうこのままずっとこの子と一緒にここに居つづけることはできない。でも今のこの子を一人置いていくわけにもいかない。」
「なら二人とも仙人界に来て三人で暮らすか?」
「そうね。辛いことがあった場所から離れるのも必要かもしれないし。でも、きっと勝手に決めてしまったら祥子ちゃんは怒ると思うから、目が覚めてちゃんと話ができるようなら、三人でちゃんと話し合いましょう。祥子ちゃんがどうにもならないような状態なら、その時は・・・。」
「みんなで支えてやればいいさ。大丈夫、俺たちの子供だ。きっといつかは立ち直れる。な?」
そう言って郭が後ろを振り向いて、そこにいた面々が肯定の視線を二人に向けた。それを見て美晴は微笑んで、皆ありがとうと呟いた。
お茶を淹れ、談笑しながらくつろぐ面々を眺め、磁生はそっとその場を離れ、家の外に出た。
「お疲れ様。大丈夫か?」
家の外で縁石に腰掛け空を仰いでいた沙依に声を掛け、磁生は彼女の横に腰掛けた。
「大丈夫。大変だったのは中にいる人達だけで、わたし何もしてないし。」
そう言う沙依に小瓶を渡して、磁生はそうでもないだろと呟いた。
「本当、昔からあんたはかわいげがないよな。無理してんのバレてるぞ。あんたの彼氏にも。」
そう言われて沙依は解ってると呟いた。
「あんた、昔と同じ事するつもりか?また大切な奴に何にも言わないまま一人で勝手に死のうとか考えてないよな?相手の中では相手が思ってる通りの自分のまま何も知られずにいなくなりたいとか考えてないよな?あいつと付き合うようになってだいぶマシになったように思えてたけど、いいかげんにしろよ。あんたはもうガキじゃないだろ。恋人だけじゃなくて小さい子供が二人もいるのに、自分勝手に消えようとすんなよ。」
磁生に強い口調でそう言われて、沙依は自分の膝に顔を埋めた。
「解ってる。あの時と今じゃ色々と違うって。わたしだってあの時みたいなこと考えてる訳じゃないんだ。ちゃんとナルと話さなきゃいけないって思ってる。それにナルなら全部受け止めてくれるって信じてる。わたしがどんなでも全部受け止めて、受け入れて、それでずっと好きでいてくれるって信じてる。でも、それと同じくらい、わたしがいなくてもナルならちゃんと子供達のことしっかり育ててくれるって思ってる。わたしがいなくても大丈夫だって確信してる。」
そう言って、磁生に頭を小突かれて、沙依は頭を抑えて顔を少し上げて彼を見上げた。
「本当、バカじゃねーの。本当、自分勝手もいいかげんにしろ。確かにあいつならあんたがいなくなってもちゃんとするだろうけどな、だからといっていなくなっていいってもんじゃねーだろ。子供達だって辛い思いするんだぞ。で、自分だって辛いのにあいつはそれを押し殺して子供達のフォローに必死になんだろ。あんたはどれだけあいつに辛い思いさせる気なんだよ。あれだけ溺愛されて大切にされて、あんたもあいつに甘えまくって散々イチャついときながら、あいつのポロポーズ断り続けるなんてひでーことしまくっといて、その上更にもっと酷いことしよーってか?そんなことあいつが許しても俺が許さないからな。」
そう言う磁生に睨み付けられて、沙依はうんと言って小さく笑った。
「なんかわたし昔から磁生に怒られてばっかな気がするな。」
「あんたが怒られるようなことばっかするからだろ。」
そう言われて、沙依はそうだねと言って立ち上がった。
「わたし帰るよ。」
そう言う沙依の姿を見て、磁生は気をつけて帰れよと声を掛けた。
「ありがとう、磁生。大好き。」
そう言って満面の笑顔を向けられて、磁生は苦笑した。
「あんた、それ誤解を生むから止めた方がいいぞ。あんたの恋人に浮気相手と勘違いされても困る。」
そう言うと、沙依が小さく笑ってその姿を消して、磁生も小さく笑って、そして深い溜め息を吐いた。沙依の方はきっと大丈夫だなと思う。あとは・・・。そう思って、磁生は家の方に視線を向けた。目の前で大切な者を殺される。それがどんなことなのか、かつて目の前で自分の妻を殺されたことのある磁生には嫌というほど解っていた。自分を蝕み苦しめ続ける記憶。周囲に助けられ立ち直って久しい今でもそれはまだ時々胸を苦しめる。でも、大切な人がいたという記憶はかけがえのないものだった。生前妻が言っていた、磁生の手は誰かを助けたがっているという言葉に背中を押され、自分は医者になった。医者になっていったい何ができただろう。友人の精神疾患を診ることになった時は結局なにもできなかった。周りに助けられ、自分は言われた通りのことをただ意味も解らず行うことしかできなかった。それでも、それをえて自分は成長したと思う。医者として成長した今の自分なら、あの子と同じ思いをしたことのある自分なら、あの子の心に寄り添って、立ち直る手助けができるかもしれない。そんなことを考えながら、磁生は友人の娘がちゃんと今を乗り越えてこれからを生きていけるようにと願った。
○ ○
「ただいま。」
そう言って背中にくっついてきた沙依の存在を認識して、成得はおかえりと呟いた。
「お疲れ様。俺も仕事あるしお前がいつ帰ってくるか解らなかったから沙衣のとこに子供達預けてるけど、どうする?今から迎えに行くか?」
そう問われて、沙依は明日迎えに行くと答えた。
「今から迎えに行ったら優美ちゃん絶対寝ないし。この時間じゃ幸ちゃんも完全に寝てるだろうから、起こしたらぐずられるだろうし。それに、今日はナルと二人が良い。」
そんなことを良いながら沙依が後ろから腕を回してぎゅっと抱きついてきて、成得は小さく笑った。
「今日はやけに甘えん坊だな。なんかあった?」
「何もないけど。ただ、ちょっとナルにこうしたいだけ。」
そう言って、沙依は成得の背中に顔を埋めていた。
「ナルってさ、一見細身に見えるけど結構がっしりしてるよね。脱ぐと結構マッチョだし。」
「そりゃ、うちの軍内でも特にでかい奴が揃ってる脳筋ムキムキ軍団のお前の部隊の連中と比べたら非戦闘員で事務職の俺は細身に見えるだろうけど。だからっていくら事務職でも軍人がそんなひょろいわけないだろ。」
呆れたようにそう言って、成得は、まったく本当どうしたの、と訊いた。
「ナルは龍籠の男の人にしては背も低くて小柄だけど、頼もしいなと思って。」
そう言って沙依は、わたし人の背中にくっつくの好きだったんだと呟いた。
「なんかさ、こうしてると安心できて昔はこうしてるのが好きだったんだけど、でも、やっぱナルには前からぎゅっとされる方が好きだな。」
自分の背中にくっついたままそんなことを沙依が言ってきて、成得は溜め息を吐いて沙依の腕を自分からはがし、向き直って彼女をぎゅっと抱きしめた。
「ほら、これでいい?」
「うん。これでいい。」
そう言って自分の胸に顔を埋めて目を閉じる沙依の頭を優しく撫でて、成得はまた、おかえりと言った。
「疲れたんだろ?何か食べるか?作ってやるぞ。」
「ナルが作ってくれるならオムライスがいいな。ナルって子供が喜ぶような料理得意だよね。おかげで優美ちゃんはわたしが作るよりナルが作った方が大喜びだもん。幸ちゃんももう少し大きくなってご飯が食べられるようになったら、優美ちゃんみたいにわたしがご飯作るとブーブー言ってお父さんのご飯の方がいいとか言うようになるんだよきっと。」
「それが嫌ならお前も少しは子供が喜びそうなもの作る練習しろよ。」
「んー。わたしが料理するのやめて、ナルが全部作ってくれるっていうのもありだと思う。」
「俺の勤務はかなり不規則なんだからそんなわがまま言わないの。俺、仕事止めて主夫になる気ないぞ。」
「実家じゃ何にもやってなかったわたしがちゃんと家事やってるだけで偉いと思うんだ。だからこれ以上は頑張れないよ。」
そう言って笑う沙依の頭をぽんぽん撫でてから離れようとし、そこを抱きつかれて思いっきり抱きしめられて、成得はにやけつつ、こらくっついてたら料理できないだろと呆れたように言った。
「もう少しこうしてたい。」
「もう、本当、今日は甘えん坊だな。どうしたの?お前からそんなくっついてくるとかレアすぎて怖いんだけど。」
そう言いながら成得は沙依に口づけをしてぎゅっと抱きしめ返した。
「こんな甘えてくるとか、マジでかわいい。お前がそんな珍しいことしてくるからさ、もう、俺ちょっとヤバいんだけど。どうしてくれるの。このままくっついてたらご飯の前に押し倒すぞ。そしたらお前、ご飯どころじゃなくなっちゃうけどいいの?」
軽い口調でそんなことを言うと沙依が別にそれでもいいよと返してきて、成得は固まった。
「ナル、大好き。」
そう言って沙依から口づけをされて、成得は一気に顔が熱くなって頭が真っ白になった。
「ナル、顔真っ赤。アレだね、わたしがナルに告白の返事した時みたいだね。」
「あれはお前が何の前触れもなく恋人になってずっと一緒にいてとか言ってきたからだろ。普通あんな唐突に告白の返事とかしないからね。こっちにも心の準備ってもんが必要なのに、本当、唐突にいきなりだったからな。良い返事だったからあれだけど、それでお断りの返事だったら俺マジで死んでたから。精神的に撃沈してたから。」
「だってあの時、そういえばナルに返事してないなちゃんと返事しないとなとか思って、ナルの事わたしどう思ってるんだろって考えてたら丁度ナルがいてさ。ナルの事見たら急に思い立ったんだもん。しかたがないじゃん。」
そう言って沙依は成得の胸に顔を埋めてそっと目を閉じた。
「ナルが好き。本当に。わたしの傍にいてくれる人はナルじゃなきゃ嫌だって思うくらい、ナルの事が好き。」
「じゃあさ、いいかげん結婚してよ。幸が生まれるずっと前にさ、もう少し自信が付くまで待っててって言っときながらあれから何年経ってると思うの。どれだけ俺を待たせれば気が済むの。いくらでも待つとは言ったけど、いいかげん痺れがきれてくるぞ。」
そんなことを酷く優しい声音と口調で言われて、沙依は目を開けた。
「ナルはさ、本当は気が付いてるんでしょ?わたしが隠してること。」
「あぁ、気が付いてるよ。だから痺れがきれるんだろ。お前がそんな隠し事してなきゃ、これからだっていくらでも俺は待てるよ。俺が待てるのはさ、お前が俺のことを好きだって確信できて、待ってればそのうちお前の気持ちがちゃんとできて一緒になれるって思ってるからなんだから。その前にお前がいなくなるのは想定に入ってないからな。」
そう言って成得はようやくなんか吐く気になったかと言って真剣な目を沙依に向けた。
「俺に隠し事ができるとでも思ってたか?」
「思ってないけど、ナルは騙されてるフリをし続けてくれるとは思ってた。それこそわたしが消えるその瞬間まで。」
「本当、お前って奴は酷い奴だな。」
「それでも、ナルはわたしのことが好き?」
「あぁ好きだよ。本当に。俺はお前を離したくない。何があったって、どんなことされたって、お前が本当は俺のこと大っ嫌いでも、俺から離れたいと思ってても、俺はお前を離したくない。俺にはお前が必要なんだ。」
そう言われ真っ直ぐ見つめられて、沙依はナルのその想いがわたしが縛った結果だったとしても?と問いかけた。
「ナル。わたしはね。父様が自分の一部を切り取って作った人形なんだよ。母様のお腹から出てきはしたけれど、わたしには人の要素は一欠片だってありはしない。だからわたしは何度生まれ変わったって同じ見た目をしてる。そもそもわたしは本当は生まれ変わってすらいない。本来わたしは父様と一緒に神の領域に行くはずだった。父様の神の孤独を癒やすために父様が思い出をつめこんで作った慰み人形、それがわたし。兄様はわたしがそうなることを阻止しようとし、わたしを人の領域に留める為に画策した。兄様は自身の能力を使ってわたしに感情を与え、わたしを人にしようとした。わたしの能力を封じ、わたしに自分の能力が確定された未来が不規則に見える能力だと思い込ませて、わたしに自主的に神の力を使わせないようにして神の領域からわたしを遠ざけた。そんなことをしながら何度も何度も同じ時を繰り返して、そしてようやく兄様が望むような形になったのが今のわたし。」
そう言って、沙依は成得から離れた。
「わたしの感情が薄いのは、元々わたしには感情なんかなかったからだよ。兄様が植え付けた感情を、わたしに関わる全ての人達が育んで、そしてわたしは自我を持った。そこに至るまでにも本当に沢山の時を繰り返した。ナル。だからね。ナルが兄様のせいだと思ってる全ての悲劇は、全部わたしのせいだよ。わたしに暴言を吐く人達の言うとおり、わたしは厄災の御子だ。だって、わたしが兄様にそうさせてたんだもん。兄様があんなことを繰り返したのは全部わたしのせいなんだ。ナルの家族が不幸な目に遭ったのも、ナルが大好きなお父さんを手にかけなきゃいけなくなったのも、あの戦争が起きたのも、全部わたしのせいだよ。」
そう言って沙依は泣きそうな顔で笑った。
「それに、わたしには父様の慰み人形以外にもう一つ役割がある。それは今世界の軛になっている人に変わって新しい軛となること。元々わたしの能力は父様の物だよ。父様は最初から全部解ってたんだ。解っててわたし達にこれを繰り返させてた。父様は神様だから、世界の終焉を望んでる。でも、人が望むなら世界が続く先を見てもみたいとも思ってる。どんなにながらえてもいずれ世界は終焉を迎え一に戻るときが来るから。時間の概念に縛られない父様にとって、終焉が来くるのが今だろうとすっと先まで延ばされようとも関係ないんだよ。だから、終焉に向かって再び世界が動き出したとき、また終焉がおとすれるのを先延ばしにするための手段としてわたしを作った。だからさ、その時が来ればわたしは選択しなくてはいけないんだ。自分が軛になるか、そのまま世界を終わらせるのか。わたしはね、どうしようもないくらい神様なんだ。本当はこうやって人の領域にいちゃいけない存在なんだ。」
そう言って沙依は、それでもと叫んだ。
「それでもわたしはここにいたい。ここで、ずっと過ごしていたい。みんなと一緒にいたい。神様なんかになりたくない。また独りぼっちになるくらいなら、世界なんて終わってしまえばいいってそう思うんだ。わたしはさ、どうしようもなくわがままで自分勝手で、そんな自分の欲求の為にナルを犠牲にしたんだよ。ナルがわたしのことを想うのは、どこかの時間軸のわたしがナルと契ったから。だからナルはわたしに縛られてるだけなんだ。神様と契るってそういうことだよ。死が二人を分かつまで互いを互いに縛り付けるだけの唯の儀なんて比じゃない。神様と一度契ったら、永遠にその人は神様の物。死んで生まれ変わったって、どんなに姿形が変わって全てを忘れてしまったって、その人の全ては神様の物。」
そう言って沙依は心当たりがあるでしょと呟いた。
「ナルはいったいいつからわたしのことが好きだった?いつからわたしのことが特別だった?最初からでしょ?わたしを初めて見たその瞬間から、わたしのことが特別だったでしょ?他の誰かと一緒になっても、その誰かを心の底から求めて想うことはできなかったでしょ?それはね、ナルがわたしに縛られてたせいだよ。でもね、ナル。契りを交わしたのは今この時のわたし達じゃない。だから、今のわたしが消えれば今のナルは自由になれるよ。」
そう言って真っ直ぐ見つめてくる沙依を、成得は同じように真っ直ぐ見つめ返した。
「お前はいつからそれを知ってたの?」
「ちょっと前。今回の案件を未来視で知ったあたりかな。どうにかできないか神の領域に入り込んで色々やってるうちに、他の時間軸の自分と今の自分の境界が曖昧になってきて、それで父様と一緒に神の領域に行って神様になった方の自分とほとんど同化しちゃって、全部を知った。」
それを聞いて成得はそうと呟いてソファーに座ると、沙依を呼んだ。
「ほら、こっちに来て。お前は俺のとこ来るの嫌なの?」
そう言われて、沙依は戸惑ったように少し躊躇って、それから成得の横に座った。そして身体を引き寄せられ、抱きしめられて、沙依は涙が出てきそうになってそれを堪えた。
「沙依。どっか別の時間軸でお前と一緒になった俺はお前に騙されて一緒になったのか?お前と一緒になった俺は不幸せに見えたか?」
そう言って成得は優しく沙依の頭を撫でた。
「お前が消えて、自由になって、俺が幸せになれると思ってるのか?俺がお前を忘れて他の誰かと一緒になれると思ってるのか?本当、バカじゃねーの。お前はさ、本当バカだろ。そんなこと言うくらいなら、責任とって俺と一緒になってずっと俺の傍にいろよ。それで、俺にお前と一緒になったこと後悔させないようにしろ。」
そう言って、成得はそっと沙依に口づけをした。
「好きだ、沙依。お前も俺のことが好きなんだろ?なら、俺と結婚しろ。お前に縛られるなら本望だ。俺の全部、死んだ先もずっと、この先永遠にずっとお前の物になってやる。だから俺と結婚しろ。これ以上余計なことごちゃごちゃ言うなら本気で怒るぞ。」
そう言って成得は沙依を強く抱きしめて、彼女の耳元で好きだと呟いた。
「沙依。お前は昔からずっと俺の支えだったんだ。それがお前に縛られた結果だったとしてもかまわない。お前が居てくれたから、俺は挫けずにすんだ。お前が居てくれたから、俺は壊れないですんだ。お前が居てくれたから、俺は今こうして居られるんだ。解るか、沙依?俺はお前が思ってるほど強くないぞ。お前が支えてくれるから強くいられるだけで、お前がいなくなったら俺はこのままでなんかでいられない。どんなに繕ったってそのうち限界がくる。俺にはお前が必要だ。お前がいないとダメなんだ。だから、騙されてたっていいよ。それでもお前が傍にいてくれるなら、お前の本当の気持ちがどんなだっていい。お前が俺を利用して、騙して、都合良く使ってるだけだったとしても、それでも俺にはお前が必要なんだ。もうこんなに一緒にいて、こんなに俺に期待させといて、今更俺の前からいなくなるなよ。この世界から消えてなくなるなんて許さない。」
そう言って成得は沙依の腕に嵌められた腕輪をそっと撫でた。
「お前なら理矢理壊して外せただろ?でも、そうしなかったのは俺の気持ちが解ってるからじゃないのか?」
「ナルは兄様と同じで、わたしに神の力を使わせないようにしてわたしが神の領域に引っ張られるのを止めたかったんでしょ。一時しのぎにしかならなくても、できるだけ長くわたしをこの人の領域に留まらせるために、ナルはこれをわたしに嵌めさせた。」
「日に日にお前の存在が薄くなってる。どんどんお前の存在が遠くなってくのが解るよ。なぁ、沙依。本当に俺と結婚して。唯の儀で魂が繋がれば、そうすれば、例えお前の存在が目の前から消えてしまっても、その絆はずっと繋がってられるだろ。姿は見えなくたって、触れることも話すこともできなくなったって、ずっとお前の存在を感じることはできるだろ。お前だって神様になったって、ずっと独りぼっちじゃなくなるぞ。心はずっと一緒だ。お前になら永遠に縛られたって良い。他の誰とも繋がれなくてもいい。俺はお前だけが欲しいんだ。だから、お願い。沙依、俺と結婚して。」
そう懇願する成得の頬に手を添えてそっと撫でて、沙依は笑った。
「ナルってさ、結構まつげ長いよね。」
「俺、真面目に話ししてんだけど。」
「うん。解ってる。」
「時間がないって思うから焦ってるの解る?」
「うん。解ってる。」
「ならさ・・・。」
成得の言葉を最後まで言わせずに、沙依は彼に口づけた。
「ちょっ、沙依。真面目に話聞いてんの?」
「聞いてるよ。ただ、わたしこうやってまじまじとナルの事見たことなかったなって。自分からこうやって触れたり、キスしたり、そういうことしてこなかったなって。」
そう言って沙依はまた成得に口づけをして、彼の頬を愛おしそうに撫でた。
「ナル、いつもありがとう。本当にありがとう。わたし、わたしさ・・・。」
そう言って、沙依は今度は深く口づけをした。
「沙依。ちょっと、お前さ・・・。」
「ナル、大好きだよ。」
そう言って笑うと沙依は成得の胸に頭を埋めた。
「ナルにこうしてるの好き。ナルの心臓の音聞いてると凄く安心する。」
そう呟いて、沙依は、ねぇナルと声を掛けた。
「いつか決断の時が来たら、わたしのわがままでさ、世界を終わらせちゃっても良いと思う?」
「好きにすれば良いよ。言わなきゃお前が決めたなんて誰にも解らない。人に言えば人は他人事だから、簡単にお前に犠牲になることを強要してくるだろうけどさ。言わなきゃそんな時が来たことさえどうせ誰にも解らないだろ。俺はお前に父さんと一緒に封じられてた時みたいなあんな思い二度とさせたくない。世界の軛になるってことは、あの時と似たような状況に身をやつすってことだろ?なら俺は、お前が世界の終焉を望むならそれはそれでいいよ。お前にあんな思いをさせるくらいなら、世界が終わった方がいいとさえ思う。お前が軛になってそんな思いしてるって知ったら、俺、お前を自由にして世界を終わらせるために動く自信あるぞ。」
成得のそんな言葉を耳にしながら沙依はそっと目を閉じた。
「ナル。わたしさ、まだナルに内緒にしてることがあるんだ。」
「何?」
「わたしさ、ナルと結婚すればこのままここにいられるんだ。結婚すれば、ナルが座標になってくれて、そして今のわたしはナルを基点にこの領域に縛られるから。」
沙依のその言葉を聞いて成得は、はぁ?と大きな声を上げた。
「お前、なんでそんな大切なこともっと早く言わないの。本当、バカじゃないの。俺のここまでの葛藤とか、不安とか、色々思い悩んで苦しんでた時間返せよ。俺がどんだけ辛かったか解る?マジでふざけんな。」
そうかなり本気の様子で怒られて、沙依は笑った。そんな沙依を見て成得は大きな溜め息を吐く。
「もちろん俺と結婚するんだよな?これで嫌だとか言ったら、マジでしばくぞ。」
「わたしこんなだし、これからも多分ナルの事色々振り回すけど、それでも結婚してくれる?」
「当たり前だろ。ってか、俺は散々結婚してって言ってんの。お前がうんって言えばそれで済む話しなの。お前がわがままで自分勝手でどうしようもないのも知ってるから。平気な顔してしれっと酷いことするような奴なのも知ってるから。俺、お前が思ってるほどお前に幻想抱いてないからね。お前の笑顔に騙されてたいから、騙されてるフリしてるだけだからね。って、本当はそんなこと解ってるでしょ。」
そう言われて沙依はうん解ってると満面の笑顔を成得に向けた。
「じゃあ、俺と結婚してくれますか?」
「うん。結婚しよう。」
そう言い合って、二人はそっと口づけを交わした。