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かわいそうな人

作者: 平井 七葉

白い陶器に、一点の黒い汚れがついている。

それは汚れと呼ぶにはあまりにも生々しさがなく、さもすれば模様と呼ぶほうが自然なほどのものだった。

女はただひたすらそれを見つめていた。体をゆらゆらと動かしながらも、その黒い点から目をそらさずじっと見つめている。

しかし間もなくして、女は発するべき言葉があることを思い出し、ゆっくりと口を開いた。

「分からない」

見つめるその黒点から、一切目を離さずにつぶやく。

だらしなく開いた口から、唾液と一緒に垂れ流したような声だった。

「分からないの?そんなことはないでしょう」

女の頭上に、ねっとりと絡みつくような低い声が降りる。

扉に寄り掛かるように立ち、床に座る彼女を見下ろしていた男が尋ねた。でっぷりとした腹を避けるように、胸の前で腕を組んでいる。

「分からない」

「嫌なの?でも君はそれを舐めるべきなんだ、分かるだろう?」

直後、男は顔をしかめ、自分の発言を後悔した。女が先ほどから繰り返す言葉を、あえて誘発するようなものだったからだ。

案の定、女は口を中途半端に開き、虚ろな目をしてつぶやく。

「分からない」

このホテルを訪れたうちの何人が、この小汚いトイレを使用したのだろう。

使い古されたそれは、人が腰かけるとギシギシと鳴く。先ほど女が少し手をかけただけで、大きく不快な音を立てた。

女は地べたに座り込み便器と向き合い、男はそれを扉にもたれながら見下ろしている。

「分からない」

男は大げさに肩を持ち上げながら大きく息を吸い、それを鼻から一気に吐き出した。

それは男の普段からの癖だったが、むしろ今は苛立ちを女に伝えるためあえて行っているようだった。

しかし女は頑なに便器から目を離さず、まるで何かを床に押し付けているかのようにピンと腕を伸ばしてじっとしている。

男は今度は小さなため息を吐き、胸の前で組んでいた腕をゆっくりとほどいた。

便器から視線を外そうとしない女の脇の下に腕を入れ込み、半ば無理やり立たせると、腰に手を回しベットへ誘導する。

女は抵抗することなく、男の腕の力に素直に従って歩いた。長く美しい髪の毛が、女の動きに反応して揺れる。それは男の性欲を大いに刺激するものだった。

「いつかは舐めてもらうよ。いや、君はいずれ自分から舐めさせて欲しいと懇願するようになるんだ」

男はわざと下品な笑顔を作り女に向けたが、女は相変わらず俯き、男の顔を見ようとはしなかった。

男も特にそのことを気にする様子を見せず、ベットに腰かけ、自分の腰のベルトを外した。

「舐めるんだ」

女はまたも反応を示さず虚ろな目を床へ落としていたが、やがて大儀そうに腰を下ろし、男のモノを手に取った。

白く小さな掌に包まれたそれは、まるで臓器のように強く脈打ち、女に愛されることを待ち構えている。

女はそこで初めて男の顔を見上げ、目線を外さないままゆっくりと口に含んだ。

性行為を行うために作られた部屋。ベッドだけは異常に立派で、生活感のない反面、どこか貧乏くさい印象を与えるその空間に、女の唾液の絡み合う音が充満する。

時折、男は満足げに息を吐き、女の頭を乱暴に撫でまわした。

「もういい」

男が女の髪を後方に引くと、女の首がカクッと折れたように曲がり、顔が不自然に上を向いた。

女は無表情に男を見つめる。最中に突然離されたせいで、半開きの口から唾液が垂れている。

「僕と契約する?」

「分からない」

「月いくらだったら、今の仕事を辞めて僕の所へ来る?」

「分からない」

「僕と一緒に住むことは?」

「分からない」

男がまた、苛立ちを隠さず大きなため息をつく。

「君が何も考えられない馬鹿な女になってしまった理由が自分で分かるか?」

「分からない」

「そうだろう、分からないだろう」

女の変わらない返答に、今度は嬉しそうに鼻を鳴らし、数度頷いた。

「君は忘れたい、辛い過去があるね?君の兄貴のことだ。

君を愛情なしにレイプして、おもちゃみたいな扱いをしたあの兄貴だよ。

君は兄貴に犯されるたびに心を麻痺させて、ついにはお人形みたいになにも考えられなくなってしまったんだ。

兄貴の友達に犯されても、こうして体で稼ぐことを強要されてもなにも感じない、つまらない女になってしまった」

その時、これまで一切の感情を見せようとしなかった女の顔に、悲しみとも、狼狽ともとれる表情が浮かんだ。しかし、男はそれに気づく様子もなく口を動かし続ける。

「感じたり考えたりしなければ、それはとても楽なことだからね。

でもね、それは楽ではあるけど、果たして幸せなことなのかな?

ああ、答えなくていいよ、どうせ君にはわからないんだから。

かわいそうに、君が悪いわけではないんだ。

そうしなければ君は辛すぎて耐えることができなかったんだからね。

僕は君を責めたりしないよ」

いつの間にか女の表情は、これまでの無感動なものへ戻っていた。

「君は今、憎むべき兄貴の人形だ。

ここで男に弄ばれて稼いだ金も、すべて兄貴に取られてしまう。

でも僕と契約すればどうなる?

君は僕の人形になるんだ、今までのようなかわいそうな人形じゃない。

とても幸せなお人形」

男はお人形、という言葉を発するとき、大げさに天井を仰ぎ、恍惚の表情を浮かべた。

「今まで辛かった男たちの相手はなくなって、僕との愛の調教が始まるんだ。もちろんお金は僕が払うんだから、それは全部君のモノ。誰にもとられないよ。

可愛い服だって買ってあげる。ワンピースは着る?似合うだろうな。

今の恰好じゃいかにも娼婦だ。白いワンピースを着させてあげるよ。

ねえ、君は世界一幸せな、何も考えないお人形になるんだ」

話している間、男はうっとりとしながら女の頬を撫でまわしていた。やがてその手は女の口元へ移動し、真っ赤な唇をぬぐうように触った。

「この口紅も」

男は忌々し気に吐き捨てる。

「この口紅もひどく下品だ。男を誘うためだけの色。君には似合わない」

女は、毒々しい赤い口紅を付けていた。それは確かに、白い肌を持つ若い女には不釣り合いのものであったが、むしろそのけばけばしい装飾が、女の本来の美しさを際立てているようにも見えるのである。

「僕と契約する?」

男は再度尋ねた。

「分からない」

男は、苛立つことも喜ぶこともせず、今度は顔一面に同情の念を浮かべて女を見つめた。

「かわいそうに。幸せはもう、手の届くところにあるというのに。

君が頷きさえすれば、夢のような生活が待っているのに。

でも仕方がないね。今日はいいだろう。

残った時間で君に幸せというものを味わせてあげる。

ええと、おもちゃはどこ?」

男は部屋全体をキョロキョロと見渡した後、自分の服を持ち上げながら忙しなく動き始めた。

女はその場から動くことはせず、男の挙動をただじっと見つめている。

「おもちゃがない!くそ!あの女たちが持っていったんだ!」

突然の大声に、女の肩がかすかに動く。その頭上に、男の怒声が大きく響いた。

「くそ!くそ!おもちゃがなくてどうしろというんだ!

あの女ども、馬鹿にしやがって」

その時、ベッドの脇に置かれていた携帯電話が鳴った。女が伸ばしかけた手を振り払い、男が素早く電話に出る。

「私だ。うん、問題ないんだ、料金は3人分払うんだからね。

ただ、そこにいる無能な2人がバッグを持って帰ってしまったせいで・・・」

男が話している間、女は自分の腕を何度もさすり、所在なさげに立っていた。そして男が電話を切り手招きすると、素直に目の前まで移動し、じっと男の顔を見つめた。

男は、再び女の頬に触れ、指先や手の甲で撫でまわした。

「残念だよ。今日はあの女たちのせいで君を幸せにしてあげられなかった。

でもね、これだけは分かってほしい。僕はね、君を今の不幸な状態から助けてあげられるよ。

君と僕は一緒になるべきなんだ。」

それを言うと男は、一度その場から離れて荷物の中から財布を取り出し、女に向き直った。

「いいかい?今日の料金は9万6千円だ」

両手を使って素早く9と6を示す。

「僕は今細かいお金を持っていないから、君に10万円を渡す。

お釣りの分は、次回の会計から引くんだ。

このことは電話で言ってあるからな。ごまかそうとするんじゃないぞ」

女が、戸惑ったようにゆっくりと頷く。ロボットのようにぎこちない動きだ。

お金を受け取り、どこにしまうかを考えているようだったが、結局小さく折りたたみ、掌で握りしめた。

女が身に着けるキャミソールやミニスカートにはポケットがついておらず、かばんも2人の同僚が持って帰ってしまっていた。

男は何かを言おうとしたが、結局あきらめた様子で、女の手を引き出口まで連れて行った。

女は外に出ると、男の方を振り返り、相変わらずゆっくりとした動作で頭を下げた。

「じゃあ、また次回」

男が扉を閉める音が聞こえるまで、女はじっと頭を下げ続けていた。


「大変だったでしょ、まだ入って間もないのにね」

「大変なんてもんじゃないですよ」

男から受け取った万札をスタッフに提出しながら、女は自分の首をマッサージするような動きをして見せた。

「ある程度は聞いてましたけど、あそこまで妄想が激しいと、かなり疲れます」

「便器は?なめさせられた?」

女は、2年以上在籍しているという同僚に人懐っこい笑顔を向けた。

いつの間にか、男の好みだからと着替えさせられた服から、普段使いのシンプルな恰好に戻っている。

「教えてもらった通り口半開きにして、分からないって繰り返してたら大丈夫でした」

「よかった。前残された子は、耐えれなくって舐めちゃったんだって」

その言葉を聞くと、女は口の端を小さく歪めた。未だ濃く残る赤い口紅が、動きに合わせてテラテラと光る。男の前でも浮かべた、複雑な表情だった。

「かわいそう」

それだけ言うと、近くに置かれたコットンを手に取り、ゆっくりと唇に押し付けた。

本当にかわいそうなのは誰だったのか

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