自虐
しゃしゃり、しゃり
お母さんは言っていた。
「これは、お砂がありさを歓迎している声なのよ」
しゃしゃり、しゃり
でもわたしは、ちがうと思った。どうしてそう思ったのかなんてわすれちゃったけど。
でもわたしは、ちがうと思う。だって、ぜんぜん明るくないもの。
前に見た海はお空の青色をしていたのに、今は黒のクレヨンでぬりつぶしたみたい。お日さまのひかりでおけしょうしていたはずなのに、ギラギラしたたてものの光で、むかしテレビで見たこわいおばさんみたい。
こっちに来るなって、なにかがそう言っている気がして。さらさらのすなにペラペラのスリッパがひっかかる。
しゃしゃり、しゃり
だけど、わたしは歩くことにした。わるいことをしていると思うと、むねの中からトゲトゲした灰色がおっこちていく気がした。それがとてもうれしかった。
くらくて見えない足元から、足をずぼっとひきぬくたび、そのかんじはいっぱいになった。入りこむすなつぶだって気にならない。どうせもう、わるいことはしてしまったから。ゆっくりと、だけどはやあしに、わたしは歩いた。
そうしていると、わたしをここへよんだ女の子が、いつのまにかむこうにいた。
「来たのね。」
「よばれたから」
しゃしゃり、しゃり
わたしが歩けば、女の子も歩いてくる。女の子が歩いてくるから、わたしも歩いているのかも。少しおかしくて。でも、ふしぎとわらわなかった。わらえなかった。
ふしぎといえば、女の子がよびに来たのもとつぜんだった。
お母さんが作ってくれた、ぎゅうにゅうパックでできたふみだい。のるとべこりとへこむそれに立ってお皿をあらっていると、女の子はいつのまにかよこに立っている。こわくなるくらいつめたい目で、わたしを見上げている。
「しみるでしょ。」
「なれたよ」
「くさいでしょ。」
「それもなれたよ」
手には赤くスジが入ってて、水にぬらすとじんじん痛い。わたしの手のとどかないところで、いつかの夜ごはんのキャベツがくさっている。女の子に会うのははじめてじゃなかったけど、話すのはいつもこのおだいどころのことだった。
ほかにお話はないのときいても、女の子はくびをふったし、それがぎゃくになっても、おんなじこと。かがみのかわりにしかならないテレビ、げんかんのドアにぎっしりつまったままのしんぶん。話せることなんてなんにもない。
だから、女の子がこう言ったとき、わたしの心はびくんとはねた。
「海に、いきましょ。」
「え……?」
おどろいて、びっくりして、大きらいな音がなった。思わず落としたカップが割れたのだ。
隠さなきゃ。あたまの中はそれでいっぱいになって、あごがかくかく言うのをひっしにこらえながら、はへんをあつめる。切れたゆびからつうっとながれる血もきれいにふきとって、あつめる。
そんなわたしをいつもとかわらないで、もしかしたらいつもより悲しそうに見上げながら、女の子はつづけた。
「海に、いきましょ。」
「だ、だめだよ、だって、かってに出かけたら……」
「だいじょうぶよ。だって、お母さんは海がすきだもの。」
「海……」
そうだ、お母さんはたしかに海がすきだった。お父さんがすきだったから、お母さんもすきで、だからわたしもすきだった。お父さんがいなくなるまでは、カーテンのあけはなたれたマドから、いつもきらきら光っていた海。
カーテンのうらがわにあるはずのそれを思い出すと、わたしのふるえはウソのようにきえていた。
しゃしゃり、しゃり
「お母さんもよべばよかったかな」
「どうしてそう思うの。」
だいぶ近くまでくると、なんだか女の子がゆらめいて見えた。糸のようにほそくなった三日月といっしょに、ゆらゆらと。
「お母さんは、きっとよろこぶから」
「お母さんは、絶対怒るわ。」
しゃしゃり、しゃり
海のにおいがする。ちょっとむせかえるようで、どこかなつかしい、そんなにおい。むかし三人でわらいあったときのにおい。
それをむねいっぱいにすいこむと、いよいよ水が足にかかるくらいまで来た。
「いたっ!」
「痛いでしょ。」
海の水はおだいどころの水よりよくしみた。そのキズは、この前のおしおきのときのキズ。あたまの中に、あのお母さんのかおがうかぶ。
「辛いでしょ。」
わたしのところまでやってきた女の子が言う。
「しかたないよ」
「しかたなくない。」
「わたしのせいだもの」
「わたしのせいじゃない」
もう、すなの音はしない。かわりに、まっ黒の水をおしわける音がする。
「お父さんが出てっちゃったのも」
「ちがう」
「お母さんが変わっちゃったのも」
「ちがう」
いつもは海の方からくるかぜが、今日はわたしのせなかの方からふいてくる。
だんだんとわたしをつつむ海。それはなみだよりあたたかい。
「わたしががんばれば」
「わたしはがんばってる」
「お母さんはまた」
「お母さんはもう」
声がだんだん出なくなる。
声が出てもふるえてる。
言いたいことがわからない。
わたしのあたまはとっくのとうにぐちゃぐちゃで。
「あれ?」
「あなたはどうして、さかさに立っているの」
「わたしが、あなたのぎゃくだから」
歩けば歩くだけ、海にうつったわたしとわたしが重なっていく。しびれたみたいにかんかくのなくなった足で、それでも私は歩きつづけることしかできなかった。
しゃしゃり、しゃり
きこえないはずの音がきこえる。
「おすながいたいってさけんでるの?」
「そんなはずないじゃない。これはお砂がありさを歓迎してる声なのよ」
ききたかったはずの声が、聞こえた。