春を呼ぶ風
「おうぃ…、大丈夫かぁー?」
揺すり起こされている。
多分、男の人に。
「お嬢ちゃん、生きてっかー?」
「あい。」
答えながら顔を上げる。
おお、と、たじろぐような声が聞こえた。
目の前が真っ白だ。
腹ばいで雪の上に突っ伏していたらしい。
べちゃべちゃと、顔全体から雪のマスクが剥がれる。
直接冷やされていたところが切れるように痛んでいる。
強い力で引き起こされ、まり子は尻もちをついた。
「生きてたか!カーマイン領で20年ぶりに凍死者が出たかと焦ったぜ。」
起こしてくれた人は、となりに膝立ちをしながら全身に付着した雪を払ってくれている。
まり子より10歳くらいは年上の男性だ。
日焼けした肌にブルーの瞳。
うっすらと無精髭を生やしている。
髪の毛は赤く、オールバックのように軽くなでつけられていて、
薄いハイネックの黒いシャツと白のズボンは筋肉でもりあがっている。
まるで野球のメジャーリーガーのような風貌だ。
「城下町の子じゃあねえなあ?」
彼はまり子を立ち上がせると、自分も立った。
大きい。150cmに満たないまり子より、ゆうに頭ふたつ分は大きい。
立ち上がることで、周囲の様子がやっと見られた。
雪原だ。
ただ、雪は止み空には太陽が照っている。
背後に森っぽいものがあり、その先には雪山が連なる。
目の前の大男の先には、石造りの高い壁がそびえ立っている。
中の様子は見られない。
その手前には、幅20メートルほどの掘りのようなものがあり、かすかに水流の音が聞こえる。
「おぅーい…。お嬢ちゃんは一体どこから来たんだ?」
まり子は男性を見上げた。
「…わからないんです。」
彼は不思議そうにするも、うそをついたつもりはなかった。
直前までの記憶は、異形の美しい生き物、セルレウムがにじり寄って来たところで終わっている。
おそらくそこでなにかしらのまじないをかけられて、ここ『カーマイン』などという聞いたこともない土地に飛ばされたのだと思う。
しかし、その直前までいた場所が、あの…人と光の消えた世界が果たして本当に存在するのかは、わからない。
セルレウムは「取り戻せ」などと言っていたけれども、一体何が何によって失われたというのだろう…。
「記憶を食われとるんだなぁ。」
思わぬ言葉にまり子はきょとんとした目で男性を見上げた。
「お前さんがぶっ倒れてるすぐそばに魔獣がうろついてたんだわ。ホレ…。」
男性はバチンと指を鳴らした。
上空に、絶叫のような鳴き声が響く。
2人の上に大きな影が落ちた。
空を仰ぐと、矢のような勢いでそれが地に落下してきた。
風を巻き起こしながらまり子のほど近くに着陸したのは、巨大な怪鳥だった。
頭の位置は隣の男性よりも高く、翼を拡げると小型のヘリコプターくらいの大きさがある。
首は長く、嘴も鋭く伸びている。
何より異質なのは、全身を覆う羽毛だ。
まるで金属製の針のような質感で、光を鈍色に反射し、尾など纏まった部分は刃物のように鋭利に見える。
金属の鳥は、体の割に小さめな赤い瞳をまり子に向け、首の角度を変えつつしげしげと観察した。
「これがマジュウ?」
後ずさりしながら問う。
「いんや。こいつは俺の相棒のクラウディアだ。魔獣は」
男性はオトモダチに近づき、手袋をはめた手でその背中をぽんぽんと軽く叩いた。
するとクラウディアは嘴を開き、ぺっと何かを吐き出した。
「コレだ。」
毛むくじゃらの大型犬だ、と思った。
不自然に曲がった四肢を、わずかに動かしている。
三つ並んだ人間の女性の頭が、それぞれ恐ろしい形相でクラウディアを睨み、歯ぎしりをしている。
「人面犬ってやつかね?こんな化け物見たことあるかぁ?」
男性が「よし」と言うと、クラウディアは再びその魔獣を一瞬にして腹に収め、空へと飛び立って行った。
時の渡り鳥も鉄の鳥も充分におかしな生き物だったが、人面犬に比べればましだと思えてしまう。
「今月に入ってからだな。カーマイン周辺で、魔獣の目撃情報が増えたんだ。
運悪く襲われて、お前さんみたいに記憶を失った奴もいる。
魔獣なんか出現したら大騒ぎになるくらいだったのにな。」
最後は独り言のように小さな声だった。
記憶は失っていない。
自分が誰なのかも、どのような生活をしていたのかも分かっている。
しかし、記憶喪失を装った方が余計な詮索をさけられそうだ(本当のことを説明したところで理解を得られるとは思えないし…)。
「ところで、自分の名前は覚えているんか?」
「ええ。」
名前を偽る必要はない。
もしかしたらこの世界では変わった響きかもしれないけれど。
「まり子です。」
「うん?随分変わった名前だなぁ。」
やっぱりそうみたい。
「俺はカロンだ。カーマイン王付きの近衛騎士だよ。」
いまいち思い出せないが、何処かで聞いたか読むかした覚えのある名前だ。呪文のような、突拍子もない字面ではない。
「フー大陸の討伐隊長も務めてる。クラウディアに乗って魔獣やらが現れてないか、見回るんだな。国に戻るとこで、ちょうど現場を通りかかって良かったぜ。」
まり子はありがとうございました、と頭を下げた。
「まぁ、名前だけでも覚えてるならなんとかなるわ。」
カロンは腕組みをし、じっとまり子を見つめた。
「とりあえず今日は城に泊ったらいい。
ホレ、着いて来な。」
こともなげに言うなり、掘り沿いにずんずんと歩いていく彼の後を追う。
いきなり国外で倒れていた身元不明の不審者を受け容れる寛容な城があるのだろうか。
だが、やや粗野な印象ではあるが、カロンはここいらではそれなりに立場のある人のようだし彼に任せておけばひとまずはなんとかなりそうではある。
ほどなくして2人は、入国ゲートへと渡る橋までたどり着いた。
石壁にはまり込むようにして、金属製の両開きの門がある。
国を守るものというよりも、よく洋館にある門扉に近く、細い金棒で出来ているため中の様子は丸見えだし、おまけに薔薇の絡みつく瀟洒なデザインまで施されている。
その手前には小さな木の小屋。おそらく門番が控えているのだろう。
カロンはまっすぐそちらへ向かった。
チケットブースのような簡素な小屋のガラス戸を叩くと、そこが開き、中年男性が顔を出した。寒いのだろう、かなり厚着をしているが、やや震えている。
「おお、カロンか。歩いて入国とは珍しいじゃねえか。」
とくに怪しむ様子もなく、まり子に笑顔で会釈もする。
「黒の森あたりで、この子どもが魔物に襲われているところを見つけたんよ。
見たとこ怪我は無えが、記憶を食われちまってる。」
門番の顔色が、とたんに青ざめた。
「そいつはいけねえ。早く王女様のところへお連れした方がええ。」




