ホワイトアウト
大晦日を翌日に控えた夜の首都高速道路上には、ブレーキランプの赤い列が延々と続いている。
重厚なドイツ車の後部座席、革製シートに小柄な身体を預ける少女は、苛立ちながらラジオとカーナビゲーションを駆使し渋滞情報を得ようとしている運転席の母をぼんやり見ていた。
窓が空いているとはいえ、母の紅い唇に咥えられたタバコは、臭い。
「ああ、おばあちゃんの家着くの、明日になっちゃう。まるっきり動きやしない。いつもはここまで混まないのに…、事故情報も無いわ。ねえ、まり子、突然トイレ行きたいとか言わないでよ?」
「うん、へいき。」
八つ当たりのように厳めしい顔を向けてくる母に、まり子と呼ばれた少女はやわらかにほほ笑みながら返した。
やや色素の薄いショートヘア。
丸顔に、メタルフレームの眼鏡をかけており、きちっと矯正された歯並びと、同世代の少女にくらべるとかなり華奢な身にまとう仕立てのよいワンピースからも生活水準の高さをうかがわせる。
実際彼女は、お嬢様学校と呼ばれる私立の女子校に小学校の時分から通わせてもらっていた。
自宅も神奈川県の一等地にあり、欲しいと言った物はなんでも与えてもらうことができた。
物質的には何不自由なく生まれ育ってきたのだ。
そう、数年前に父が会社の若い女の人を好きになってしまい、毎回の長期休みを母と2人で東京の葛飾区にある母方の祖母宅で過ごすようになるまでは
自分が日本一恵まれた女の子の1人だと思っていた。
まり子はお気に入りの小さなショルダーバッグから、やけに分厚く汚らしいノートを取り出し、天井部のルームランプを点灯させた。
心のときめきを感じながら、薄明かりを頼りにカビ臭いそれを開く。
「走ってる時は電気点けないでって言ってるでしょう?!」
停まりっぱなしやんけ!
思わず心の中で父の方言を真似ながら、スイッチをOFFにする。
母はランプの光で他車から車内の様子が見えるのがイヤなのだ。
分かってはいたが、どうしてもこのノートを読み進めたくてたまらない。
膝の上に大切そうに抱えながら、待ち遠しそうに車窓の外を見やる。
冬休み直前、まり子は図書館で休暇中に読む本を物色していた。
中、高、大学まで一貫校で、ごく一部の学生しか受験をする者がいないため受験勉強をする生徒の姿もなく、図書館は静まり返っていた。
部活にも所属しておらず、父のご乱心で精神に異常を来たした母に変わって勉強以外の時間を家事のほとんどにあてていたまり子には友人を持つ余裕もなく、
唯一の趣味というか息抜きが読書だった。
中学入学時からの3年間で、全校生徒中、図書館蔵書貸し出し数No.1になってしまったほどである。
ただストーブの燃える音の響く中、
もうほとんど読んでしまった外国文学の棚を眺めていた時。
一番下の段の端に、背表紙の擦り切れてしまって作品名の読めない本を見つけ手に取った。途端。
バサリ。ハードカバーから何かが抜け落ちた。
はじめは経年劣化に耐えかねて、ついに表紙と中身が分離してしまったのかと思ったが、よく見れば落ちたそれにも(かなりのボロだが)表紙らしきものがある。
まり子は抜け殻のカバーだけを書棚に戻し、床に落ちたものを拾って開いてみた。
数百枚の紙でできた、とても厚いノートだ。
中にはびっしりと文字が書かれている。
横文字の人名や身長体重などのプロフィール、そして「」書きにされたセリフが脈略なく連なっている。
所々荒々しく消されたり、強い走り書きでされたり…。かなりのエネルギーが伝わる。
おそらく、この学校に通っている(た?)誰かが書いた物語の設定メモだろう。
まり子は胸の高鳴りを抑え、胸にそのノートをかかえて逃げるように図書室をあとにした。
図書室の片隅で、誰かに読まれる日を待っていた、誰かの秘密の物語。
かつてないほどの高揚感を抱きながら、祖母宅での休暇時にじっくりノートを読もうと、家事も宿題も猛スピードかつ完璧にこなし過ごすことができた。
バサリっ。
膝の上のノートが落ちた?!
まり子は急激に覚醒した。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ノートを拾おうとかがみこむも、足元にはなにもない。
「ごめん、ママ、シートの下に物を落としたかも…?」
運転席を見て愕然とした。
母の姿がない。
シートベルトを外し、身を乗り出して覗き込む。
母がしめていたはずのシートベルトはロックされた状態で座席にへばりついている。
ポータブルの灰皿から、煙が立ち上っている。
まり子はあわててそれをもみ消した。
キーは刺さったままだがエンジンは消えており、車内にほのかに暖房の余熱が感じられる。
助手席には母のかばんと携帯電話が置いてある。
とても不自然だ。
これではまるで、そこから母だけが消えてしまったみたいじゃないか…。
その時はじめて車外に目をやり、猛吹雪に気づいた。
時折ぶんぶんと車が揺さぶられる。
闇夜の中、街灯らしきオレンジの光が揺れる。
ひっきりなしに白い粒がガラスに打ち付ける。
まり子は自らのカバンから携帯電話を取り出した。
祖母に連絡をとろうと試みたが
「えっ…、充電してきたのに…」
充電切れか、ディスプレイはなんの反応も示さない。
母の携帯電話でも試したが、そちらも同じだった。
吹雪に見舞われ車が立ち往生し、母は助けを求めに出たのか?(シートベルトを外さず、私を起こさないほど慌てて…?)??
とにかく、誰でもいい。人の姿を見て安心がしたかった。
不安に押されるように、傍に置いていたグレーのダッフルコートと桃色のマフラー、カバンを急いで身につけ、脱いでいたローファーを履いてドアをオープンした。
強烈な風と雪が襲いくる。
ようやっと、現在地が明らかとなった。
高速道路上だ。
まり子の乗ってきた車を先頭とし、背後にずらっと渋滞ができている。
ただそのどれもヘッドライトを消しており、運転席に人の気配もない。
先ほど街頭だと思っていたものの正体は、進行方向右手側にそそり立つ東京タワーだ。
周りに群生するビルは明かりひとつついておらず、そのオレンジの輝きは神聖なまでに美しい。
道路上、前方、数十メートル離れたあたりに煙を上げるものがあった。
その先に車が1台も見当たらない様子から、それが渋滞を引き起こした原因であると思われた。
そして、まり子のかなり弱い視力と視界の悪さを配慮しても窺い見るに…。
嫌な胸騒ぎを感じつつ、足は自然とそちらへ進む。
踏み出すごとに、徐々に道路上に積もりだした雪が、ローファーとタイツ越しにしみてくる。
だんだんと強烈なオイル臭とこげたにおいが鼻をつく。
黒い煙を上げるのは、母のドイツ車よりも遥かに高価なスポーツカーだったものだ。
黒塗りのそれは、右半分が高速道路の壁にぶつかり、潰れている。
おそらく中で誰かが亡くなっている。
ほんの一瞥をしただけなのに、寒さではなく恐怖で全身が震えている。
とにかく離れなくては危険だ。
そして怖い。
前方は唯一の光源である東京タワーから離れるため、暗闇に包まれている。
来た道を戻ろう。
その瞬間。
暴風雪の叫ぶような音も、スポーツカーの内部が危険に爆ぜる音も、すべてが止まった。
まったくの無音、無風状態だ。
髪から、眼鏡からポタポタと雪が滴る。
ーきみは…?
背後から鈴のなるような優美な声が聞こえ、まり子は振り向き息を飲んだ。
空色の毛並み輝く猫のような…、しかし小さなクチバシと白い羽を持つ、おそらく誰もが見たこともない、だがとても美しい生物が佇んでいたのだ。
その生き物は小首を傾げると、ルビーのような赤い瞳をしばたき、長い尾を降った。
尾の先に不自然に浮いている二つの金の輪っかが、しゃらんしゃらんと静かに鳴る。
ーまぁ、誰でもいいや。
私はセルレウム。
きみにお願いがあるんだ。
やっぱりこれが喋ってる。
明らかに異様な現象を目の当たりにしているが、生き物と出会えたと言うだけで、まり子の心は少し落ち着きを取り戻しつつあるのも事実だった。
ー喋ってはいないよ、君の心に伝えてるんだ。
えっ…!
この猫、人の心を読めてしまうのか…。
ー猫じゃない、私は時の渡り鳥だよ。
いいんだよ、そんなことは。
時間がないの。
君は、この世界とともに消えるか、失われたものを取り戻すか、どちらを選ぶ?
何を言ってるんだろう?
この世界が消える?
しかし、先ほど目が覚めてから目撃してきたことから推察するに、あながち嘘とも思えない。
今、唯一の光であるあのタワーの光が消えたら、世界は本当に消えてしまうのかもしれない。
ーどちらを選ぶことが出来るのも、君しかいない。
「よく分からないけど…。私にできるなら、取り戻すよ。」
ーありがとう。
声に出して応えたまり子に、セルレウムが歩み寄る。
おなかの奥底から、なにか暖かいものが全身にみなぎっていく感じがする。
東京タワーの光がどんどん強まり、太陽光のように世界を圧倒的に照らして