帝国
ランドルフは帝国の宮廷に潜り込んでいた。帝都に着いたその日のうちに、彼は宮廷に新しく勤める使用人の一人と入れ替わったのだ。
宮廷を外から伺っている時にたまたま見つけた相手だった。もの慣れない風で、おどおどと中を覗いていた。親切なふりをして、どうしたのか聞いてみると、今日から勤めることになっているのだが、乗ってきた馬車の車輪が何かの溝に嵌まり、立ち往生しているうちに約束の時間をだいぶ過ぎてしまったのだと、泣きそうな顔で言った。ランドルフは適当な理由をつけて彼を人気のない路地に引き込むと、図らずもガルシアと同じように男を気絶させ、彼の代わりに宮廷に乗り込んだ。
そもそも、帝国には、神官のふりをして入り込んだのだ。神殿は大陸中の国々に点在している。神官たちはどの国にも属さず、彼らの通行を妨げることはどの国の王にも許されていない。当然、神官たちには自らの身分を証明する証明書が必要となり、もし偽造しようものなら恐ろしい罰が待っている。彼らは信仰のためにたびたび他国の神殿を巡礼するが、一つの国から別の国に移動するたびに毎回、証明書を新たに用意しなければならない。だが、エリシダにとって証明書を用意することは実に容易いことだ。仲間たちの分を移動の度に一々用意するのは確かに手間ではある。しかし、彼は、複数人の手による複雑かつ慎重な審査をいつも易々と切り抜けて、証明書を持ってくる。その審査の場を見ることの出来ないランドルフには、彼が毎回どうしているのか想像も出来なかったが、ともかく彼の力がなければ、自分たちは他国にこうも簡単には潜入出来ない。
首尾は上々だった。これ以上ないほど上手く進んでいる。
ランドルフは装飾華美なお仕着せを身に纏い、水差しを抱えながら、煌びやかな廊下を進んだ。野心的な帝国の王と、その家族が暮らす一角である。下っ端の召使いの通行が許される場所ではなかったが、もし見つかったら新入りで道に迷ったのだと言い訳するつもりだった。
数刻前、王に訪問者があった。客はまだ帰っていない。彼らは絢爛豪華な謁見の間ではなく、その豪華さでは引けを取らない王の私室で会合しているらしい。
王の私室の扉は、当然閉められている。ランドルフはその隣の、ひっそりと備え付けられた扉を、音をたてないよう慎重に開け、するりと中に入り込んだ。部屋の主が留守なのは確認済みだ。そこは召使いの部屋だった。王がいつでも用事を言いつけられるように、王の部屋と内部で繋がっている。扉を閉める音を聞きつけられないように、扉は薄く開けたままにして、足音を潜ませて内部を進んだ。王の部屋と繋がる扉に耳をつける。
「陛下のお役に立てて、我が主もお喜びのことでございましょう」
老人のしわがれた声が聞こえた。ランドルフはその声にふと既視感を覚えたが、それが何であるのか考える前に、別の声に思考を遮られた。
「調子の良いことばかり言いおる。余の役に立てて、ではなく、お前たちの利益に叶って喜ばしいのだろう」
聞こえてきたのは、他ならぬ帝国の王の声だ。王は初老と呼んでいい年だったが、その声の覇気が衰えることはない。ランドルフは息を詰めて、会話に聞き入る。
「わたくし共の利益が、陛下の利益に繋がりますればこそでございます」
老人が恭しく答える。王は快活に笑った。
「お互い甘い汁を吸えるというわけだな。お前達がしくじらないことを祈るとしよう」
「ご心配は不要にございます。あれは既に我らの手の中も同然にて」
再び、王の愉快そうな笑い声が響く。
「どれ、一つ乾杯するとするか」
「恐縮でございます、陛下」
おそらく二人は杯を手に取ったのだろう。ほんの少しの間があってから、王の声がした。
「我が帝国の更なる繁栄に」
ランドルフは来たときと同じように、音をたてないように部屋を出た。人目を避けて廊下を進みながら、先程の会話を思い出す。
王の元に来ていたあの客が、オリバーの雇い主に繋がっているのは間違いない。だが、正体が分からない。
ランドルフはこれまでも何度か帝国に潜入したことがある。彼はある意味では帝国出身とも言える出自の持ち主であり、王の影達からは、帝国に潜入する任務においては彼が一番の適任者だと目されている。これまでに帝国の貴族達と接する機会も多くあった。あの老人の声はどこかで聞いたことがある。だが、どこだっただろう?
ランドルフは悩みながら廊下の角を曲がり、召使い達が忙しく立ち働く厨房に入った。