黒猫
不審な物音を聞いた気がして、彼は足を止めた。すらりと細身の身体に、緊張が走る。素早く辺りに目を走らせたが、、何分霧深い森の中だ。薄ぼんやりした木々の影が見えるだけだった。
物音はまた聞こえた。今度はもう少しはっきりと、金属のぶつかり合う音を聞き取れた。
彼は咄嗟に音の聞こえた方に走り出していた。彼にとっては耳慣れた戦いの音だ。
視界の悪さには苛立ったが、目的地は確実に近づいている。微かに人の呻き声も聞き取れた。
戦いの現場は唐突に目の前に現れた。霧のせいで距離感が掴めなかったのだ。
一台の幌馬車が賊に襲われていた。御者と思しき老人が地面に倒れている。賊は三人、相対しているのは背の高い男一人だった。まだ誰も彼には気づいていない。
彼は腰の剣を素早く抜き放つと、男を後ろから襲おうとしていた賊の剣を受け止めた。突然の乱入者に、賊も男も驚いた顔をして彼を見る。
「よぉ、楽しそうなことしてんじゃねぇか。俺も混ぜてくれよ」
彼は目の前の敵に向けてニヤリと口角を上げて見せた。悪魔のようだと評される黒髪と金の瞳が、そうすると一番それらしく見えることは知っていた。相手が怯んだ隙に思い切り腹部を蹴りつける。
「助かった」
背中合わせに立つ男がちらりと振り向いて言った。男は目深にフードを被っている。琥珀色の瞳がその影からちらりと覗いた。
「おしゃべりしてる余裕はねぇみてぇだぜ」
彼は男にもニヤリと笑いかけてから、腹部を押さえてよろめく賊に向かって行った。一撃、二撃と剣を交え、三撃目で相手の胸から腹までを斬りつける。
「おっと」
倒したと思ったところで、もう一人の賊が後ろから斬りかかってきた。それを躱し、彼は背中に手を回して自分のマントに触れた。
「あーあ、穴が空いちまったよ。どうしてくれんだ? え?」
「中身にも穴空けてお揃いにしてやるよ」
怒りに目を血走らせた賊が突っ込んでくる。彼は剣を避けると、相手の腕を鷲掴み、自分の方に引き寄せた。
「穴が空くのはあんたの方だ」
彼の持つ剣の先が、賊の腹を突き抜けて背中から飛び出した。もたれかかってきた身体を転がし、彼は男を振り返る。
「おい、終わったか?」
「あぁ」
男は剣を鞘に戻しながら振り向いた。足元には賊が転がっている。
「あんた、こいつらに恨みでも買ったの?」
彼は長靴の先で賊の肩をつつく。賊が弱々しく呻いた。
「いや、ただ通りかかっただけだ」
「気を付けなよ。この界隈じゃ、こういうの多いんだ」
男が近づいて来て、彼の目の前に立った。彼より頭半分は高い位置から、琥珀色の瞳が彼を見下ろす。その瞳が困惑したように揺れた。
「……君は役人か?」
彼は思わず笑い飛ばした。
「こんなガラの悪い役人いるかよ。俺はこの辺りで、まぁ、今みたいなことして飯食ってんだよ」
「剣の腕を売って生活してるということか」
「まぁ、そんなとこ。それより──」
彼は御者を振り返った。
「あのじいさん、生きてるかな? バークレインまで送ってってほしいんだけど」
男は慌てて御者に駆け寄った。頭を抱え上げたところで、老人が小さな呻き声をあげる。
「あぁ、良かった。生きているな」
安堵の息を吐き、男は彼を振り仰いだ。
「悪いが、彼を荷台に運ぶのを手伝ってくれないか?」
彼は肩を竦め、やれやれと言いたげに手を貸した。
御者は頭を殴られていたらしい。馬車の荷台に置いてあった治療道具で、男が手際良く老人の手当てをする。
「あんた、医者なのか?」
男の背中から手元を覗き込んで、彼は首を傾げた。てっきり馬車の護衛かと思っていたが。
「いや、これはたまたま持って来てたんだ。弟の為にね」
「弟は? 一緒じゃないのか?」
「後から来る」
男は治療を終えた。彼を振り返る。
「それより、本当に助かった。正直、一人で三人を相手にするのは厳しかったんだ」
「礼なら言葉じゃないものがいいね」
「望みのものは何でも用意しよう。とりあえずは、バークレインまで送る。我々も丁度戻るところだったんだ」
「何でも、ねぇ?」
彼は片眉を上げて男を見やったが、男は大真面目に頷いた。
男は馬車を操ることが出来た。彼は御者の老人と一緒に馬車の荷台で揺られていた。
「そう言えば、君の名前は?」
のんびりと馬車を走らせながら、男が荷台を振り向いた。
「シャーニ」
「黒猫?」
「いい名前だろ?」
シャーニは金色の瞳を細めて笑った。