第3話 シンデレラ、瓦礫の海に眠る
そして二人は向かい合います。
アナスィとシンデレラ――互いに古今東西並び立つ者がいないはずの、矛盾を抱えた無双の筋肉は、まずは拳で握手を交わします。
アナスィはそっと拳を差し出し、ありがとうさぎ。愛にあふれています。
対するシンデレラの拳は、さよならいおん。確実に相手を仕留める獅子の一撃でした。
先手必殺。勝てばジャスティスです。
「どうした、シンデレラ」
シンデレラは目を剥きます。
まるで鳩が88mm高射砲をくらったかのような顔です。
全長2メートルのアナスィに対して、シンデレラの全長は3メートル。体格もあの筋肉山脈である長女よりも一回り、いや二回りは大きいのです。
それなのに――合わせた拳は微動だにしません。
「お前まさか……姉に勝てるとでも思っているのか」
天地がひっくり返るほどの衝撃が、シンデレラの顎を打ちます。
眠れる活火山の噴火――ジェットアッパーを見舞われたシンデレラは、天井の石材をぶち破り、頭から突き刺さります。
「少し見ない間に随分としゃべる筋肉になったようだが、言わせてもらおう」
――お前の筋肉は軽すぎる。
たゆまぬ血と努力で作られたアナスィは、細部まで筋繊維たっぷり。
一朝一夕でその身に奇跡を宿したシンデレラとはものが違います。奇跡も魔法も肉体ひとつで弾丸突破です。
あらかたの筋肉が間引かれ、残された数少ない強者も、この筋肉には思わず息を呑みます。
「やった! さすがはアナスィ姉だぜ!」
「油断するな……まだだ」
最速でフラグ回収を終えると、白亜の城の天井から、筋肉大車輪が落ちてきます。両の拳を大鎚に見立て、重力に回転を加えたシンデレラの必殺の一撃が振り下ろされました。
「……ぐぅう、これは」
アナスィの巨木の両腕が描く十字架がシンデレラの無二の一撃を受け止めるも、上からの圧力はハンパじゃありません。アナスィの足場を円心に破壊の波は広がっていきます。
足りぬと言うなら力を上乗せするまでと、シンデレラは拳で語ります。言葉はいりません。肉体言語は共通語ですから。
「この姉を……舐めるなよ、シンデレラあああああああああああああああああああああああ――ッ!」
アナスィは妹の前で折る膝など持ち合わせていません。
気合一閃シンデレラを弾き飛ばすも、その身に負った代償は小さくありません。巨木の右腕にくっきりと刻印された拳の痕は、どうやら時が経てば解決してくれる問題ではなさそうです。
瓦礫に埋まっていたシンデレラは、濡れた体を振るわす犬のようにブルブル。愛くるしい動作で瓦礫を振り払いました。
「右腕を失ったか、アナスィ」
ずしりずしりと、死神のあんよがアナスィに歩み寄って来ます。
一度舌打ちをすると、ドリスタがカバーに入りかけるも、その動きは唐突に止まります。
「来るな――ッ! ドリスタ!」
アナスィの怒号が大気を震わせます。たとえ負傷しようと、威圧感はまるで衰えを知りません。
「次女の力を借りねば、三女に説教もできない。お前は私をそんな恥知らずの姉にしたいのか」
「畜生……、アナスィ姉」
ドリスタは総入れ歯にする勢いで強く歯を噛みしめるも、そんなのシンデレラの知ったこっちゃありません。
右手の方から近づいて参りますのは人間凶器です。
「まだだ……シンデレラ。続けようじゃないか、最後の姉妹喧嘩を」
もはやアナスィが満身創痍で立ち上がっているのは、誰の目にも明らかでした。
「何が始めようだ」
腰を利かせたシンデレラの左フックが頬を打つと、アナスィは無様に転がりました。この日のために新調した桃色の戦闘礼服ごと大広間を乾拭きします。
シンデレラは容赦しません。勝者は一人の椅子とりげえむ。もう姉たちが養ってくれない今、うずくまるアナスィの頭に、死体蹴りを入れるのも仕方がないことでしょう。
「まだだ……まだだ」
どこを見つめているのか。意識が夢とも現ともつかないアナスィは、眼の焦点が合いません。
「とうに終わりだ、アナスィ。貴様が利き腕を失ったときからな」
見るに耐えない、かつては姉と呼んだ生き物がそこにはいます。
せめて一刻も早く終わらせてあげるのが情けと、シンデレラは地の底からマグマを吹き上げます。筋肉ボルケーノのジェットアッパーの轟音は終わりを告げる音でした。
かつてアナスィだったものは、天井に頭を突き刺したまま、白亜の城を墓標として永久の眠りについたのです。
家族のなかで一番早起きのアナスィ。彼女の目覚まし時計が、朝六時に鳴ることはもうありません。
「また一つ、巨星が落ちたか」
王子が隠し切れない興奮を淡々とした声にのせるのとは対照的に、ドリスタは血涙を流して感情を爆発させました。血にのる怒りを身体に巡らせて、筋肉山脈は震えます。
「この……人でなしがあああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
「そうだな。人ならほんの数時間前に辞めてきた」
このとき白亜の城はもう限界でした。アナスィが突き刺さったのがダメ押しとなり、白い煉瓦が崩れ落ちてきます。数分も経たぬうちに、この城は壊れる運命にありました。
「もう保ちませぬ。これ以上は……ご自愛ください王子様!」
「ならぬ。我は未来の妃を残すようなフヌケに成り下がる気はない」
「城が、この城が崩れ落ちるのですよ!」
「この程度でくたばるようであれば、王の器ではなかった。ただそれだけの話よ」
必死に説得する爺やではありましたが、王子は断固として動く気がありません。たとえ天井が崩れ落ちようと、王子は己の器を賭けて椅子の上に留まり続ける所存です。
決壊はそれから直ぐでした。石材が奏でる崩壊の重厚なシンフォニー。足元の大地に呑み込まれように白亜の城は崩落しました。
王家の敷地には、もはや威厳はありません。
白亜の城ならいざしれず、ここはただの荒れ地の墓場なのです。
「ほら見ろ、爺や」
権力の証たる衣は土に塗れ、高貴な顔立ちには落石で切った血が流れ落ちます。それでも王子は生きています。降り注ぐ瓦礫も王子の器を割れませんでした。
「――我は死なない」
王子はその両の目でしかと見ました。
今まさに振りかからんと落盤する天井を、ドリスタとシンデレラが筋肉の盾となり受け止める様を。天晴としか言いようがない筋肉に王子は震えを抑えられませんが、口惜しいことにその興奮と感動を伝えられる相手はいません。
「全く……お前は最後までつまらない男だったな」
いつもどおりの口調で王子は手向けの言葉を送ります。
これだけ派手に崩落しては、爺やの亡骸がどこにあるかなど見当もつきません。
依然として王子――いや、この時を持って王となった男は玉座で最後を待ちます。見晴らしの良くなった景色のどこを眺めても、かつての王も王女もお付きの者もいません。
この場に残った一人として、王には二人の決着を見届けて勝者をめとる義務があります。
一方。城の崩壊を受けてなお、ますます二人の筋肉は壮んです。
「どうしたよ、おい。来いよ人でなしのシンデレラあ――ッ!」
意外なことにも、優勢に立っていたのは次女のドリスタでした。
城が落ちるさなか、何度か拳をトレードしたはずなのに、蓄積した痛みの量は違います。アナスィに受けた分を差し引きしたとしても、シンデレラの計算は合いません。
たとえ筋肉山脈の名をとろうと、ドリスタはアナスィの影に埋もれる存在でした。一番の強敵であるアナスィを討ち取ったシンデレラにとっては、残りのドリスタなどおまけのボーナスステージぐらいの認識でありました。
それがどうして自分が膝をついているのか、シンデレラにはわかりません。
「テメエはよう、本っ当にどうしようもねえ人でなしだな、シンデレラあ――ッ!」
血と土に塗れたシンデレラの戦闘礼服の胸ぐらを掴みあげながら、ドリスタはビンタをくれてやります。大して痛くないはずのそれは、焼けつくほどに頬に残ります。
「バカ野郎……アナスィ姉を、本当にお前って奴は」
詰め寄るドリスタは目元に涙を浮かべていました。
シンデレラにはわかりません。ドリスタが強い理由も、その強い次女がなぜ泣いているのかも。
「あたしがッ……アナスィ姉より強いわけがないだろ!」
胸ぐらを掴んだまま、悪鬼のごときドリスタの顔がシンデレラの額にぶつかります。
ぽたりと戦闘礼服を染め上げた血が、布地からあふれ落ちました。
「本気で、妹を殴れる姉が……この世のどこにいる」
筋肉山脈の長女アナスィは本気ではありませんでした。
確かにアナスィは、怠惰でどうしようもない妹をしつける意味で叩くこともありました。もちろんその全てが正当化できる暴力ではありません。
仕事のストレスからお家でぬくぬくするシンデレラに当たることもありましたが、その日は言い知れぬ罪悪感で吐き気を催す夜となるのです。
「毎日朝から晩まで働きつめて、それでもテメエみたいな妹を食わせてくれる姉を」
「え。だ、だってそれは好きで働いているのでしょう。母さま、父さまの遺産だってあるのだから、それを食いつぶして生きればいいじゃないの」
「この……大馬鹿野郎が」
本来なら呆れて物も言えませんが、残り短い時間で真実を告げなければいけません。それが長女なき今、たった一人の姉であるドリスタの務めであります。
「そんなもの……とうにあるわけがないだろ」
シンデレラは世間知らずの大馬鹿野郎でした。
外の世界に出たことがないシンデレラにとって、そのドリスタの言葉は千の拳よりも重く、筋肉の鎧など届かない深いところを殴りました。
「アナスィ姉はなあ、テメエが安心して暮らせるように、舞踏会に参加したんだよ。いつかクズみてえなテメエが更生するなんて、あり得ない夢を見るためによお」
「そんな……だって、それじゃあ」
シンデレラは、二人の姉は自分に愛想を尽かしたブルータスかと思っていました。
あの家にいたら二度と自分を迎えに来てくれないのではないか。そんな不安が心にあったから、老婆の提案にも悩むことなく乗ったのに、それはすべてシンデレラの思い違いでした。
二人の姉はシンデレラを愛していたのです。
「……シンデレラ」
表情筋をつりそうな苦い顔で、ドリスタは最期に弱音を吐きます。
「痛いよ……シンデレラ」
無理やり筋肉を膨張して止血しようにも限界があります。
悪鬼じみたドリスタの顔が迫ったとき、シンデレラはたった一人の二番目の姉に恐怖を覚えてしまったのです。ドリスタの胸元を貫いた手刀を戻すことはもう出来ません。手をこびりつく赤色はどんどん温かさを失っていきます。
このシンデレラの愚行にたいして、もう誰も叱りつけてはくれません。
彼女の一番目の姉は瓦礫の山に埋もれ、二番目の姉もたった今息を引き取りました。
三番目のクズ、ただただ愕然です。
「あ……ああ」
姉の不幸でバターロールが旨いなど、とても言えません。
不幸なことに、建前がないシンデレラは強がることも嘘をつくことも、もうできません。
頭皮を切り裂くように、毒々しい赤髪をがりがりと何回も、何回も掻きむしります。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
荒れ地の墓場の真ん中で、シンデレラは隠すことも殺すこともできない、苦悩を喉からぶちまけます。獣の心は取りつくろうことを知らず、人の心は水に浮いた紙のように簡単に千切れていきました。
野獣の咆哮を上げたまま、シンデレラは八つ当たりをします。城壁であったものを砂微塵になるまで叩いて壊して、まだ原型を残している調度品なども拳で散らします。
このとき、瓦礫が直撃した王も上半身ごと魂をもってかれました。しょせんはただの豪傑な女を好む変態であり、王の器など持ちあわせていなかったのでしょう。
シンデレラは一人でした。
残念ながら、ぼっち充ですらありません。どれだけの筋肉ボルケーノを誇ろうと、痛い痛いと、心は血反吐を吐き続けています。
「なんで……こんな」
意志の通わぬ筋肉は用を足しません。
膝から崩れ落ちるだけでは飽きたらず、シンデレラは生来の物臭を発揮して瓦礫の海で眠りました。自分の心を偽ることすら許されない獣の心を持っていては、考えることすら苦痛でした。
シンデレラは考えることを止めて、まぶたを落とします。
たとえ悪夢に苛まれても、夢のなかには家族がいます。それは幸せな世界です。生きて思考し続けるよりも、死ぬまで夢の世界に遁走する道をシンデレラは選択したのでした。
それから。
翌日になっても、その翌日になっても瓦礫の墓標に立ち入る者はいません。
一夜にして消えた白亜の城とその場で惰眠をむさぼる筋肉ボルケーノに恐れをなして、国民はただ遠目に筋肉が衰えるのを待ち続けました。
余裕を持つこと一ヶ月後。
街の男衆が様子を見に行くと、そこに筋肉はありません。衰弱して薄汚れた少女が、覚めることのない永久の眠りに落ちていました。
優しい顔をした町娘は、白亜の城の細かな塵に埋もれています。命の灯火を落とし、灰に包まれたように。
「おい、これを見ろ」
先頭を行くあんちゃんが見つけたのは綺麗なガラスの靴でした。
眠る際に邪魔になると脱ぎ捨てられた透明な履物は、汚れ一つありません。老婆が魔法でつくった逸品は壊れることなく、不思議と誰に履かせても足のサイズが合う代物でした。
透き通り、美しくも目に付き難いそれは誰もが持っている希望でした。
――大切なものはいつだって足元にあったのです。
このガラスの靴は、男衆の筋肉で再建された白亜の城で大事に保管されることになりました。この惨劇をくり返さないように、決して足元にある大切なものを見落とさないように。
これは――真面目を装った、それはそれはクズな町娘シンデレラの物語。