第3話 味方
俺は自室の本棚にざっと目を走らせた。
それなりに立派な本棚なのだが、並んでいるのは国教であるラトス教関係の本ばかりだ。
両親も祖父母も、将来は俺が宗教界に入るものと決めてかかっているので、それ以外の書籍が与えられてこなかったのだ。
確かに、以前は俺自身もそう思っていたわけなのだが――、これではダメだ。
でも、それを今すぐに両親や祖父母に伝えたとしても、猛反発を食らうのは必至。
既に俺自身の人格が完全に変わってしまっているという問題もある。
しばらくはなるべく今まで通りを装って、波風を立てないよう、慎重に物事を進めていったほうがいいだろう。
(――となると、頼れるのは一人しかいないな)
兄のカムルだ。
政治家志望の兄ならば、この国の政治や経済、そういった類の書物を持っている。
俺の知識はあくまで、過去の知識。
助けにはなるが、今のこの国の現状を知らなければ、どうにもならない。
俺は兄の部屋に向かった。
軽くノックすると、兄の入るように言う声が聞こえる。
兄は俺の顔を見て、意外そうな顔をした。
「お前からオレの部屋にくるなんて、珍しいな」
そういえば、俺から兄に何か行動を起こしたことなど、今までになかったかもしれない。
「ちょっといいかな? 兄さんにお願いがあるんだ」
兄は俺の顔をしげしげと見、そして、部屋に入るように勧めた。
勉強中だったらしい。
机の上には、たくさんの書物が乗っていた。
本当に将来有望なのは、俺じゃない。
兄の方なのだ。
勤勉で、下の者を操る術を知り、世の中を渡っていく術も心得ている。
有能さをひけらかすこともなく、コツコツとその力を蓄えている。
やがて羽化する蝶のように。
兄は俺から何か言いだすのを待っているようだったので、俺は早速話を切り出した。
「本を貸してもらえないかと思って。もう読まないような本でいいんだ。父さんや母さんは、宗教関係の本しか手に取らせてくれないから」
兄は驚いた顔をする。
「お前――。まあいい。オレが貸せる本と言ったら、政治や経済の本ばかりだけど、そんなものでいいのか?」
「うん。父さんや母さんたちには内緒にしておいてくれる? 心配させるといけないから」
俺はうまく笑えているだろうか?
なるべくいつもの弟のフリを装う。
「それはかまわないが……。お前が政治経済に興味があるとは知らなかったな」
いたずらっぽい笑みをなげかけ、兄は書棚に向かった。
ずらりと並ぶ本の数々。
俺もさっとその背表紙に視線を走らせる。いくつか興味深いものが目を引いた。
「そうだな……。このあたりならお前でも読めるだろう」
そんなことを言いながら、兄は数冊の本を手に取った。
「あのあたりの本は?」
俺は思わず、赤い背表紙の本を指さした。
「あれは――、まあいいか。読んだら返せよ」
「うん。ありがとう」
書棚から取り出し、机に積み上げた本は十冊以上にもなった。
「これだけの本を全部読めたら、なかなかのものだよ」
そう言って、兄は軽く笑う。
俺も兄に合わせ、曖昧な笑みを作ってみせる。
「なあ」
急に改まったような顔をして、兄が言った。
「なに?」
借りた本をパラパラとめくっていた俺は、顔を上げる。
「もしも俺が上を目指すとしたら、お前はどうする?」
「もちろん応援するよ。僕はいつだって、兄さんの味方だもの」
俺は目を細め、それから迷うことなく言った。
すると兄は突然、珍しく大きな声で笑い出した。
「兄さん?」
俺が戸惑った表情で声をかけると、ようやく兄は笑いをおさめた。
「――悪い。お前がそんなにハッキリ言うとは思わなかった」
「そうかな……?」
「いや、本当にすまない。いい弟を持って、オレは幸せだよ」
そう言うと、兄は突然真顔になった。
「――セルベク、何かあったのか?」
「何か? 何かってなんのこと?」
一瞬どきりとした。
表向きはこれまでと同じようにふるまってきたつもりだったのだが、何か感づかれるようなことをしただろうか?
「何かと聞かれると、困るんだが。お前、一度大きな病気をしただろう? あれ以来、お前の雰囲気がどこか違うと思ってたんだ。今日なんかは本を貸してくれと言うし。――病気になって、何か思うところでもあったのか?」
兄にどこまで話していいものか。
俺の頭の中は、瞬時に様々な考えがよぎった。
しかし、俺が今までの俺と違うとしても、兄にとっての俺は、弟セルベクであることに変わりはない。
「自分ではあまりわからないけど……。何かが変わったのかもしれない。僕にちょっかいを出していた奴らとも仲直りしたんです。それで、少し自信がついたのかも」
まさか叩きのめして部下にした、とまでは言えない。
「そうなのか? それは――、頑張ったのだな」
兄は嬉しそうにセルベクの頭をぐりぐりと撫でまわした。
「に、兄さん……!」
「はははっ。嬉しいんだ。いつも背中を丸めていたお前が、自分の問題を自分で解決できるだけの男になったんだなと思うとな。嬉しくて――。それでこそ、オレの弟だよ」
そう言うと、兄は本当にうれしそうな表情を浮かべていた。
「本が必要な時には、いつでも言えよ? 使っていないものなら貸してやるから。今のオレにはそれぐらいしかしてやれないけど」
「カムル兄さん……」
「父さんたちは、お前に教会関係の本しか買ってくれないだろうからな。お前もよく分かってるだろうけど、絶対に家族には言うなよ?」
いたずらっぽく笑う兄。
俺には兄のこの好意が、素直に嬉しく思えた。
父や母は思考が偏りすぎていて、今の俺は、どうしても受け入れがたい感情を抱いていた。
祖父母などは、話にもならない。
だからこそ、唯一話の通じる見識の広い兄を、俺は応援したいと思っていた。
そして、兄も俺と同じように思っていてくれたのだ。
「ありがとう。ありがとう、兄さん……」
両親は自分たちの思惑、レールに俺を乗せようとしている。
俺が自分の生きたいに生きようとするには、間違いなく邪魔な存在だ。
だが、兄は――。
俺は意を決して、自分の考えを口にした。
「兄さん。実は僕、やりたいことがあるんです」
「それは――、もしかすると、父さんたちの期待を裏切るようなことか?」
真剣な面持ちで兄は聞き返してきた。
俺は首を横にふった。
「最終的には、父さんたちが望んでいるような職につきたいと思っています。だけど、そのやり方が違う。父さんたちが思っているようなやり方じゃない、僕自身のやり方で、その道を目指したい」
「複雑だな」
腕を組んで、兄はしばらく考え込んでいた。
「――分かった。オレはお前を信じるよ。家族が反対しても、オレはお前の選ぶ道を応援してやる」
「兄さん……!」
「家族を裏切るわけじゃないのなら、それもかまわないさ。うちの大人どもは皆、頭が固いからな。お前にも何か考えがあるんだろう?」
兄は、俺の頭に手を置いて、にっこりと笑った。
「決してアルザス家を裏切る真似はしません」
きっぱりと俺はそう言いきった。
それは本心だ。
「ならいい」
俺は正直、ここまで兄が俺のことを信頼してくれるとは思っていなかった。
兄は確かに俺を可愛がってくれてはいたが、これまで俺は兄とはこういう話をしたことすらなかったのだ。
だが、兄は俺の何かが変わったことにすら、気づいていたのだ。
聡明な兄に、俺は心底感謝した。
家族には恵まれなかったが、これほど聡明な兄がいてくれれば、それで十分だ。
兄は、俺にとって誰よりも心強い味方だった。