第2話 反転
子爵の二男セルベク――、それが今の俺の名前であり、身分だ。
厳格な祖父と、貴族然とした両親、そして優秀な兄が一人。
飛びぬけて裕福というわけではないが、貧しくもない。中流貴族の家庭だ。
平日は近くの学校へ通い、休日は教会のミサに行くというのが、俺の世界の全て。
今考えると、なんと狭い世界であることか。
しかし、その習慣を突然変えてしまったら、家族や知人たちは驚いてしまうだろう。
俺はひとまずその生活を、表向きは慎ましやかに続けることにした。
病気が快復して初めて、俺が向かったのは教会のミサだった。
それが俺の義務だから。
ここ、王都にあるラトス教の教会は、王都にある教会の中でも一番豪華な教会だ。
ステンドグラスや金細工、立派な彫刻をふんだんに使い、その威光を示さんとするばかりだ。
見慣れたこの豪奢な教会も、今の俺にとって、目新しいものに見えた。
「やあ、セルベク。ようやく病気が治ったのだね。心配したよ」
そう言って神父のひとりがにこやかに俺の肩を叩いた。
俺は黙って微笑み返し、うなずいてそれに応えた。
俺は記憶力が良いせいで、教会では“神童”ともてはやされていた。
一度読んだ聖典をすべてそらんじ、“将来は宗教界を背負って立つ人物”とまで言われた。
白い肌、淡い金髪、微笑めば天使と例えられるほど人より愛された容姿。
一度聞けば何でも覚えた、秀でた記憶力。
――だが、それだけだ。
俺は所詮、可愛い容姿をした記憶力が良いだけの子供だ。
一度読んだ聖典をそらんじる程度の者でしかなく、それはつまり、大人になれば唯の凡人。
教会も物珍しさにちやほやしているだけで、いずれはそこそこの地位について、そこそこの人生で終わるような人間なのだ。
吐き捨てるほど、つまらない人生だ。
そんな俺の心変わりに気づきもしないで、神父はいつものように、ミサのあと、俺を皆の前に立たせ、聖典の一部をそらんじるように言った。
なるべくこれまでと同じそぶりを装って、俺がそれに従うと、神父は満足げな顔をして、いつもの決まり文句を述べる。
神の愛がある限り、この神がつかわした天使のような子セルベクのように、皆にも加護があります、と。
冷めきった気持ちで、俺は周囲を見渡した。
そこで、教会の隅っこで固まっている、スラムの少年たちと目が合う。
(やつらか――)
以前の俺が恐れ、逃げ回っていた相手。
身につけた服は、薄汚れていて粗末なもの。顔も同じだ。
だが、彼らの目はまるで蛇か鷹のように鋭く、爛々と光っている。
俺を睨んでいるのだ。
まるで俺の方が汚れた者であるかのように。
彼らはいつも神父に特別扱いされる俺を、よく思っていないのだ。
俺の気が弱いのをいいことに、いつも集団で脅しに来る。
そしてそれは、いつも決まって家族がいないとき、俺と使用人しかいない時を狙ってくるのだった。
(今日もあいつら、ちょっかいを出してくるんだろうな……)
妙に落ち着いた心持ちで、俺はそう思った。
使用人もそれを分かっていて、彼らを避けるようにするのだが、それがうまくいくことは少なかった。
案の定、俺と使用人は、ミサが終わり教会を出ると、人影が少ないところを見計らったかのように彼らに取り囲まれた。
「よう、セルベク。この前のミサの時にはいなかったじゃねーか」
リーダーの少年ハンが、ニヤニヤしながら、俺の肩に手をかけた。
まるでカミソリだな。
俺はハンを見ながら、そう思った。
今までは怖いばかりだったが、今は冷静に観察するだけの度胸と確たる自信があった。
彼らは使用人から俺を引き離すように、人通りのない、教会の裏へと連れ込む。
使用人といっても別に腕に自信があるわけじゃない。彼も怖いのだ。
俺は逆らうことなく、彼らに従った。
彼らは人気のないところまで俺をひっぱりこむと、突如リーダーのハンが、俺の背中をどんと突き飛ばした。
「いい気になってんじゃねーぞ。この頭でっかち野郎」
ハンがそう言うと、一緒にいた部下の少年たちも口々に言う。
「そろそろ教会に来るの、やめろよ。お前のその勘違いしたツラを見てるとイライラする」
「調子に乗りすぎなんだよ」
「神父様が持ち上げるからって本気にしてんじゃねーよ。お前みたいなクズが天使なわけねぇ。浮かれんじゃねーぞ」
少年たちは、俺を取り囲んだ。
集団で。
俺が何もできないと、そう判断した上で。
――ばかばかしい。
今の俺ならそう思える。
ハンに、どんなに迫力があろうとそれが何だというのだ。
所詮、彼らは子供でしかなく、子供が小さな世界の権力に酔って、弱い者いじめしているにすぎない。
俺が鼻で笑った。
すると、今までのおどおどした態度と違うのが気に入らなかったのだろう。
彼らは烈火のごとく怒った。
「そんなに気に入らないのなら、お前たちが来なければいい。くだらないことで、いちいち俺を呼び出すなよ」
俺は肩をすくめ、彼らの輪からするりと抜けだした。
「生意気な口ききやがって! やっちまえ!!」
ハンが叫ぶ。
怒りにまかせて殴りかかってくる部下の少年たち。
顔面めがけて、勢いよく拳が飛んできた。
彼らは恐ろしくケンカ慣れしている。
だが、軍人だった記憶を持つ俺にとって、それは所詮子供のお遊びにすぎなかった。
素早く身をひるがえし、突き出された拳を軽く避ける。
続けざまに肘鉄をみぞおちに食らわせた。
反撃された少年は、口から胃液を吐き出す。
そのまま裏拳をかませて、鼻血が噴き出るままに、地面にたたき伏せると、極め技に入る。
ハンがあわてたように、他の少年たちにも声をかけ、集団で襲うように指示した。
俺は身動きが取れないように技を決めていた少年から手を放すと、周辺の石をざっと拾う。
そして、それを特殊な技を使って飛ばしてやった。
ただの石ころが、すさまじい勢いで少年たちの眉間に当たる。
額から血が流れ、バタバタと少年たちは倒れこんだ。
さすがのハンも、真っ青になって震えだす。
ハンには分からなかっただろう。
俺がどうやって石ころを強力な武器にしたのかが。
「な、なんだよ、これ……」
ハンはようやく、俺がいつもの俺ではないと気づいたようだった。
目を見開いたまま、信じられないといったように、首を振る。
「お前、一体何を……」
俺はリーダーに向き直り、無表情のまま静かに言った。
「俺がお前たちの存在を消すことは造作もない。もう分かったと思うけど。それとも……、俺に土下座してでも、生きたかったりする?」
ハンもようやく俺の怖さが分かったのか、小刻みに震えながら小さく「ああ」とつぶやく。
「どうしようかなあ? ――なんてね。これから俺の手下になると約束するなら、今までのことは大目に見てやるよ。まあ……、どうしてもここで死にたいって言うのなら、無理にとは言わないけど」
俺は冷ややかな目で、少年たちを見下ろした。
幾十の戦場を乗り越え、血の洗礼を浴び、普通の感覚がマヒしていたあの頃の目で。
「わかった。セルベク、お前の――、俺たちの負けだ。だから、これで勘弁してくれ」
ハンは思ったよりも潔く、膝をついた。
目に見えるはっきりとした弱肉強食の世界で生きてきた彼らは、誰よりもそういったルールに敏感なのかもしれない。
もし、どこかで逆らうようなそぶりを見せるようなら、始末してしまってもいい。
どうせ、こいつらはスラム街の住人。
一人や二人……、親のない孤児たちが消えたところで、誰も騒ぎはしない。
以前の俺は、それすら恐れていた。
祖父に言いつけて、彼等がどうにかなってしまったら、と。
だが、今はそういうためらいは、まるでない。
弱者が強者の前に命を落とすのは、自然の摂理だ。
こいつらが生きようが死のうが、俺にとっては、もはやどうでもいいことなのだった。