第1話 覚醒
学校というものは、憂鬱なものだ。
例えば僕の家が貴族の家系で、それなりの家柄であっても、そのことが僕自身を助けてくれるわけじゃない。
僕は周囲にさっと視線を走らせた。
大丈夫。今日はまだ奴らの姿は見えない。
「もう帰るのか? セルベク」
突然後ろから声をかけられて、僕はとび上がりそうになった。しかし、すぐに聞き覚えのある声であることに気付く。
級友のケラーニだ。
僕は鞄を抱えたまま、振り返った。情けない顔になっていないといいけれど。
早く帰らないとまた、誰かが僕に嫌なことをしてくるかもしれない。
僕は落ち着かない気持ちのまま、ケラーニと向き合った。
ケラーニは学校で僕に親切にしてくれる、数少ない級友だ。
「う、うん。あんまり遅くなると……」
「ああ、そうだったな。今日は一緒に帰ってやれないけど、大丈夫か?」
「うん。多分……」
「気をつけて帰れよ」
ケラーニはそう言って、僕の肩をぽんぽんと叩いた。
気遣ってくれるのが嬉しい反面、自分のことを自分で守ることができない僕は、惨めな気分になった。
なんで、奴らは僕を目の敵にするんだろう?
御祖父様に言えばなんとかしてくれるかもしれないけど、御祖父様は気位が高い上に、すごく短気だ。
「貴族のくせに情けない」「男のくせに自分で解決できないのか」などと激しく罵られるのは目に見えている。
僕はそれが心底怖かった。
それに、自分がそれを言いつけて、スラムの少年たちがどうなってしまうかと考えると、それも不安だった。
幾ら相手が意地悪だとはいえ、自分のせいで、彼らが処罰されたりしたら嫌だ。
結局はいつも通り逃げるしかなく、手にした鞄をぎゅっと抱え込んで、僕は小走りに学校を後にした。
今日は奴らに会いたくない。いや、いつだって彼らに会いたくなんかない。
僕の頭の中は、その思いだけでいっぱいだった。
五人の王が連合してこの大陸を治めるようになってから、二百十年。
ライツア五王国の"五王国"は、その五人の王を表している。
世界に平和が訪れて長い年月が経過した今、人々は 今の"共和時代"の平和を満喫するようになっていた。
平和になっても、王の元には変わらず騎士や貴族たちが集う。
外見上、また制度上は"古き良き時代"のままだったが、内実は違っていた。
今や施政者も貴族も、そして平民たちでさえ太平の世に慣れ――、慣れすぎて、人心は腐敗が進みゆくばかり。
そんな世界に生まれ落ちた僕は、貴族の家柄に生まれたことを、少なからず感謝しなくてはならないのだろう。
たとえ次男で、家督が継げないという微妙な立場であっても、少なくとも、毎日食うに困るようなことはないのだから。
町は平和であるのにも関わらず、貧富の差はますます激しく、豪勢な暮らしを謳歌する貴族がいる一方で、スラム街の貧困はなお一層、進みゆくばかり。
だが、貴族の家に生まれた自分には、そんなことは無関係だ。
学校を出て大人になれば、それほど努力しなくても、僕にはそれなりの道が開かれている――、そう思っていた。
いじめに怯えながら過ごす毎日。
そんなある日、ひとつの転機が訪れた。
中等部一年も半ばを過ぎた頃、突然の流行病に襲われたのだ。
どこでそんな病気をもらってきたのか、まるで心当たりはなかった。
下町から出た流行病は話には聞いていたが、学校内でその病気にかかったという話は一度も耳にしなかったというのに、家族の中で、自分だけがその病に冒されてしまったのだった。
数日間、生死の境をさまよい、時折浮かぶ意識の中で、父や母、祖父や使用人たちが、「もう駄目なのではないか」とささやき合う声を耳にした。
――それでも、良かった。
僕には明確な目標がない。生きていたいという強い思いも。
人に嫌われたくなくて、他人の顔色ばかり伺っている学校生活。
何故だかスラム街の少年たちに目をつけられ、事あるごとに追いかけられ、いじめられる日々。
でも、自分から命を断つほどの勇気も、気力もない。
この病でもし命を落としたとしても、僕は別にかまわなかった。
このまま意識が遠ざかって、戻らなくてもいい――。むしろそのほうが幸福かもしれない。
そんな軟弱な自分の意識は、病によって混濁し、そして、ついには自我の崩壊の危機が訪れた。
そこで僕は不思議な体験をする。
混濁した意識の中に、自分のものではない記憶がどっと流れ込んできたのだ。
それも一人じゃない。何人もの記憶と人格が。
それが前世の記憶なのか、それとも全く別人のものなのかはわからない。
ただ、記憶の中には、この世界とは思えないようなもの、見たこともないような世界の記憶もあった。
ただの夢と呼ぶにはあまりにも――、あまりにも現実感がありすぎた。
再び眼を覚ました時、俺は膨大な記憶と知識、経験を手に入れていた。
ベッドに起き上がった俺は、いちばん最初に自分の右手をにぎり、その感覚を確かめた。
今の自分が生きている感覚がなぜか、うすい。
あまりに多くの記憶が混濁しすぎていた。
「ゆ、め……? だったのか……?」
声もまるで自分のものではないような、違和感を覚える。
単なる夢? いや、違う。
高度な医術、科学、化学といった錬金術の基礎となる知識。その他にも、神学や軍学。
頭の中に入り込んでいるこれらを、"記憶"でなくて、何と説明すればいい?
俺の頭の中には、これから起こるであろう数々の歴史までもが入っていた。
そして、俺であって俺じゃない、数々の人格の記憶。
乱世時代に軍人であった俺。
今の国教となった宗教を開いた開祖の側近であった俺。
古代王国時代の錬金術師であった俺。
未来の歴史学者であった俺。
これらの俺は、すべて今一つの俺になった。
スラムの少年たちを恐れ、ただ迎合するだけの人生を送っていた俺の中の何かが変わった。
――いや、全てが変わったのかもしれない。
誰の風下にも立ちたくないと思う気概。
何千年も生きた木のように厚い年輪のような人格。
何事にも耐え忍んで待とうとする忍耐力。
俺の人格は根本から編み直され、新しい自分に生まれ変わった。
膨大な過去の記憶も、通常の人間なら、いずれは薄れていく。子供が成長してゆくに従い、幼いころの記憶が薄れていくように。
しかし、本来の俺にも唯一、誇れる特技があった。記憶力が異常に良いのだ。
常人なら忘れてしまうような膨大な記憶も、難しい情報も、俺ならば忘れることはない。
つまり、膨大な過去の記憶を吸収できるだけの能力を、俺は生まれ持って有していたということだ。
これは、運命なのだろうか?
俺はチャンスを手に入れた。
過去のどの記憶の中でも、俺は悔やんで死んでいた。
しかし、今ならやり直せる。
流されるだけの人生から脱却してやるのだ。
まずは――。
周囲の状況を見極めることにしよう。
臆病だった頃の俺は、あまり周囲を見ようとはしていなかった。
ただ逃げ隠れして、自分の身を守ることに徹していたからだ。
今の俺には確たる意志、自分がある。
今回は過去の俺のような、同じ轍を踏まない。
この強運を逃してなるものか。