02
やはりと云うべきか、先ほどの地震と黒煙の原因は「魔女」だったらしい。その事実は彼女の館に近づくにつれて瞭然となった。
「魔女」の館は、このあたりの小地主としては一般的なもので、冬季に強まる東北風の影響を受けて、うねうねと曲がりくねった幹を持つ松林を背景に、木造の塀に囲まれた敷地内部に母屋や納屋、家畜小屋や冬場の作業小屋が点在しているのだが、その敷地の南西の一角が、まるで局地的な大嵐でも発生したかのように徹底的に破壊されていたのだ。
「あああ~っ、アデリーナぁぁあああ!!」
もとは作業小屋かなにかだったのだろう、崩れて今も一条の煙を天空に立ち上らせている建物の残骸の前では、一人の初老の男が、地面に跪いて号泣していた。
「おじさん?ホアンおじさんですよね?」
「誰だ……って、ウゴ君か!」
「お久しぶりです、おじさん」
ここまで案内してきたエンリーケのことを気にしつつ、ぺこりと頭を下げたウゴは、涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃに濡らしている「おじさん」ことホアンに訊ねた。
「あの、……何があったんですか?」
「儂にも判らんのだ」
涙と鼻水で汚れた顔を自分のシャツの裾でぬぐいながら、ホアンはかぶりを振った。
「アデリーナが『研究』と称して、勝手に占拠したこの小屋に閉じこもるのはいつものことだから、特に気にせんでおいたら、いきなりこんなことになってしまって……。あああっ!こんなことなら、教会が禁止している悪魔の文字の研究なんて、尻をひっぱ叩いてでも止めさせておくんだった!これはきっと、神の罰に違いない!ああ、かわいそうなアデリーナ!あたら若い命を散らしおって……」
「なんだ、魔女は死んだのか」
それは残念だなと、あまり残念そうではない口調でエンリーケが呟く。その声でようやく彼の存在に気がついたホアンは、おいおいと泣くことをやめて、ウゴに尋ねた。
「誰だね、この方は?」
呼称に気を遣ったのは、この地方では一般的に見ることのできない、豪勢な装いや見るからに血統の良さそうな馬、それを飾る馬具に気がついたからだろう。愛娘を襲った不幸に気を乱されつつも、そうした目配りを忘れずにできるあたり、彼の代になってから、彼の家の地所と財産が大幅に増えたゆえんでもある。四人いる息子たちを、金のかかる都会へ遊学させ、かつ四人の娘たちをそれぞれそれなりの持参金をつけて嫁がせられるだけの小金を持っているのも、伊達ではない。そうしたホアンの才覚が、エンリーケの持つ地位や財力を敏感にかぎ当てたのだろう。
ウゴは、自分をはさんで前後に立つそれぞれに気を遣いつつ、とつとつと語った。
「あー……、この方は、エンリーケ・アンドリオ・マクィエリア・カンガス伯爵で、……」
その名前が出た瞬間、ホアンのつぶらな目がきらりと光った。
「エンリーケ伯爵?まさか、この地方の領主でいらっしゃる、あのエンリーケ伯爵閣下かね?この地方のほかにも王国中に広大な領地を持っていらして、都で国王の信任も篤い、あの伯爵だというのかっ?」
「この国に、他に『カンガス伯爵』はおらんな」
エンリーケが、面白そうに口の端を持ち上げて莞った。
「はっ。こ、これは、存じなかったとはいえ失礼を――!」
へへーい――とおおげさに、時代がかった土下座をしたホアンは、そしておびえと戸惑いの混じった声で続けた。
「しかして、その伯爵閣下が、このような田舎のせせこましいぼろ屋に、何のご用でしょうか?」
本当にぼろ屋だなとエンリーケは遠慮仮借なく云い捨てた。
「噂の『魔女』とやらを見てみようと思った」
「はっ。アデリーナの悪い噂が、閣下のお耳にまで届きましたかっ?」
「聞いたのは今しがただ。……だが、死んだものはし様がないな。帰るとするか」
エンリーケが、馬の首をめぐらせた、そのとき。
死んでない~
恨みのこもった声が瓦礫の中から聞こえてきた。
かりかりかりっ、と、硬いものを引っかくかすかな音がそれに混じる。
「……今のは?」
誰の声だと表情でエンリーケが訊ねるが、ウゴもホアンも、自分ではないと、真っ青に血の気の落ちた顔でぶるぶる首を振る。
「……」
「……」
「……」
三人の目が自然、瓦礫の山に集まった。そのとき。
「まぁだ、死んでないっつーの~~~!」
再び、声が聞こえた。
ぎょっと怯える男たちが注目する中、がりがりと物を引っかく音は次第次第に大きくなってゆき、ついには山を形成する板や煉瓦片が、下から押されるようにがたがたと動き始めた。
「アデリーナ!生きておったのかっ?!待っておれ、今助け出して――」
喜びに顔を輝かせたホアンが小屋の残骸に駆け寄ってゆくのと、瓦礫がぶわっと、内部から吹き上げられるような形で破裂したのは、ほぼ同時のことだった。
小屋の残骸からある程度距離をとっていたウゴとエンリーケは、足元に飛んできたかけらや木切れを避けるだけですんだのだが、ちょうどそちらへ向けて駆けていたホアンはそうも行かず、こぶし大の煉瓦片を額に受け、
「ほぅわっ!」
派手に昏倒した。
「生きているわよ!勝手に殺すな!このくそ親父!」
泡を吹いて昏倒したホアンのかたわらから、柱か何かの残骸だろうか、一抱えもある見るからに重そうな木片を背中で押し上げて現れた少女は、煤と土ぼこりで黒く汚れた顔面をぬぐいもせず、そう怒鳴り散らした。
ぶるっ、と頭をふって埃をはらったた彼女は、この地方の人間には珍しい、見事な赤色の巻き毛で、真夏の鮮烈な陽光の中では、まるで燃え立つ炎のように輝いていた。
「あー。まったく、このあたしとしたことが、久方ぶりにひどい失敗をしちゃったわ!」
膝の反動を使って、背負っていた木柱の端切れを背後に落としたアデリーナは、手についた汚れを叩いて払いながらそう唇を尖らせた。
どん、と重い音がして、煤混じりの黒い埃煙がぶわっと高く立ち上った。
「てめぇの『実験』とやらが成功したためしはあるのかよ」
その音に紛れ込ませるようにぼそっと呟いたウゴの声に耳敏く気がついたアデリーナは、彼のほうを見て、にやっと莞った。
陽光の具合によって緑にも見える灰色の眸が、きらきらと楽しそうにきらめく。
「あら、ウゴじゃない。久しぶりね。元気だった?」
「なんだ小僧、お前、『魔女』と知り合いだったのか?」
くったくなく挨拶を寄越すアデリーナとウゴを見比べながらエンリーケが訊ねる。ウゴは渋々といった態で頷いた。
「はぁ。なんと云いますか……こいつのすぐ上の兄貴とオレ、仲が良かったんですよ。で、その関係で昔はしょっちゅうこの館にも遊びに来ていて、自然の流れでこいつとも一緒に遊んでたんです。まあ、腐れ縁の昔なじみですね。六年前に兄貴が都の学校に行ってからは、全然付き合いもなかったんですがね」
ウゴの説明を聞いていたアデリーナが、そうそう、と頷いた。
「そうそう。一緒に遊んだのよね~。川で水遊びしたり、森で木の実集めたり、洞窟にもぐったり、近所の遺跡を発掘したり。色々楽しかったよね~」
あっけらからんと咲うアデリーナを、ウゴは冷たくねめつけた。
「楽しかったのはてめぇだけだ。エゲツナイ人体実験につき合わされたオレ様の傷心と苦痛の度合いを、一度てめぇに思い知らせてやりたいぜ」
「人体実験?」
本気で覚えが無いらしい。アデリーナはきょとんと、目をしばたたかせて小首を傾げる。
ウゴは歯ぎしりして低く呻いた。
「忘れたとは云わせねぇぞ。そこらに生えてる訳のわからん植物の実を食わせたり、花を絞って作った色水を飲ませたり、色々やってくれただろうが!おかげでてめぇの遊びに付き合った後は、たいてい一週間は下痢が止まらなかったんだぞ!」
積年の恨みを込めたウゴの叫びを、アデリーナはしかし、きょとんと受け流した。
「だって、人が云うのを聞いているだけじゃ、本当に食べられない物かどうか判らないじゃない?やっぱり実地に試してみないとね」
「試すんなら、自分で試せ!」
「そんなことしたら、客観的な記録が取れないじゃない」
なんでそんな判りきったことを云うのかと、呆れた表情で返したアデリーナは、そう云うと思ったぜ、とがっくりうな垂れたウゴの肩越しに、自分たちのやり取りを興味深げに聞いていたエンリーケの姿を見つけて、きょとんと両目をしばたたいた。
「誰?」
小声で訊ねるアデリーナに、ウゴは、ぶすっとした不機嫌な声で返した。
「エンリーケ伯爵閣下」
「エンリーケ、伯爵、……って、まさかあの伯爵?この地方の領主の!?」
「そうだ」
「なんですって!ウゴっ、何でそれを早く云わないのよ!」
きゃあ――っと嬌声を上げたアデリーナは、そして、未だ馬から下りようとしないエンリーケの足元に駆け寄って、きらきら輝く目で彼を見上げた。
「伯爵閣下!あたしを、あなたのお城に連れて行ってください!」
「愛妾にでもしろと云うのか?」
胸の前で両手を組んだアデリーナの全身に揶揄の目を這わせたエンリーケは、くっと咽喉を鳴らして肩をすくめた。
「あいにくと、私が『可愛がる』には、お前はいささか幼すぎるようだがな」
細くはあるがしっかり筋肉がついて均等のとれた浅黒い長身に、触れなば切れんと云った怜悧な美貌を持つ伯爵は、その爵位と現王の下で誇る権力を差し引いても、お近づきになりたいと願う女性が引きも切らない。
加えて先年、正妻を流行り病で亡くして以来独身をつづけているときては、引く手あまただ。
妻にして欲しい、愛妾にして欲しい、それが叶わぬなら、せめて一夜限りのお情けを……
女たちのそんな懇願を日常に聞いている彼は、アデリーナの願いもそのたぐいかと思って小さく嘲笑をこぼしたのだが。
「こっちだって、閣下のようなおじさんの相手をするつもりはありませんって!」
アデリーナはあっけらからんとケラケラ咲って、右の手を振って見せることで、エンリーケの言葉をばっさり切り捨てた。
私はまだ二十九だぞと憮然とするエンリーケにはかまわず、彼女はあっけらからんと続ける。
「あたしはただ、伯爵のお城へ行く許可をくださいって、そう云ったつもりだったんです」
「私の?何故だ」
「あたしの推測が正しければ、あそこは神文字の知識の宝庫のはずなんです!」
「神文字?」
「あれ?閣下は知りませんか?古に地上から去った神族が、残される無力な人々を憐れんでこの地上へもたらしてくれたと云う伝説の、力のある文様のことです」
「悪魔の文字として、教会が習うことも使うことも禁じている、あの文様のことか」
「そうとも呼ばれていますね。ですがそもそも神文字というものは――」
「おい、リーナ。長い話になるんだったら、家の中で、飲み物の一杯でも振舞えよ」
とくとくと始めた話の出鼻をウゴにくじかれて、アデリーナは一瞬むっとしたものの、すぐにそれもそうね、と思い直した。
「じゃあ、閣下。よろしければ、母屋にどうぞ。お口に合うとは思えませんが、冷たく冷やした自家製のぶどう酒でも差し上げますよ」
「では、そうしようか」
エンリーケが鷹揚に頷いて馬を下りる。ウゴは、受け取った弓と矢筒を抱えなおして手綱を手近に生えていた幹に結びつけると、急いでふたりの後を追った。
「おい、リーナ。おじさんはあのまま放っておいていいのかよ?」
追いつくなりアデリーナに訊ねると、ちょうど母屋の扉の取っ手に手をかけていた彼女は、振り返りもせずに小さく肩をすくめた。
「そのうち目を覚ますと思うけど? まあ、心配だったら後で誰かをやるわ」
「誰かって……、お前の家、まだ使用人がいたのか?ほとんどの奴らは、お前の所業を気味悪がって、逃げ出したんじゃなかったのか?近所の噂じゃあ、そう云ってたぞ」
「そんなじゃないわよ。みんな、急に都合が悪くなっただけ」
「世間では、それを逃げ出したというんじゃないのか?」
アデリーナは華奢な肩をすくめてわざとらしいため息を吐いた。
「いやねぇ、いちいち人の言葉の裏を邪推するだなんて、あんた、性格捻じ曲がってるわよ」
「幼年時代の遊び相手が悪かったんだな」
「そりゃ災難だったわねぇ。あんたもあたしみたいな、ちゃんとしたいい子ばかりと遊んでれば良かったのに」
「いや、むしろお前が張本人」
ぼそりと吐き捨てられたウゴの呟きは、アデリーナには届かなかったようだった。何故か。
「で?その使用人はちゃんとおじさんの面倒を見れるのか?」
母屋に入りながらウゴが改めて発した質問に、アデリーナは明確な答えを返さなかった。
「使用人っていうか……まぁそれに準じたものよ。だから、まあ、お父さまに水をぶっ掛けたり、その身体を日陰に引きずっていったりすることはできるわ」
「……」
日向で昏倒しているホアンは気になったものの、それ以上に、このアデリーナをエンリーケと二人きりにしておくことのほうが――いったい伯爵に何をしでかすか――心配だったウゴはしようがない、それ以上は何も云わないことにした。
うっかり目を離した隙に、雑草の実を搾ったジュースでもエンリーケに出された日には、アデリーナばかりかこちらの首まで飛びかねない。
危険物からは、目を離してはいけないのだ。それは、ウゴが幼年時代に実地でつかんだ知恵だった。